モノクロームの座敷童子

 それまで黒は長いあいだ、時の流れをあまり気にせず過ごしてきた。だからそれがいつのことだったか、今となってははっきりとは思い出せなかった。

「こんにちは。こんな暗いお部屋に一人で何してるの? そっちにいってもいい?」

 黒が声のした方にゆっくりと目を向けると、この日本家屋には似つかわしくない洋服を着た少女が、縁側の向こうの庭にたたずんでいた。

「私が見えるのか。珍しいな」

「え? ええと……見えるっていうか、その……同じ穴のムジナ? ちょっと違うかな?」

 困ったような笑顔を浮かべ、少女はエプロンドレスの前掛けを握りしめてもじもじしている。ここでようやく、黒は違和感に気づいた。

「? お前、人間じゃない? もしかして、座敷童子? 私と……同じ?」

「えへへ、ばれちゃった。私は白。お世話になってたおうちが取り壊しになっちゃって、近くに見える人もいなくて……ちょっとだけ、ここで休ませてもらってもいい?」

 止まっていた黒の時間が、再び動き始めた。

 

「黒ちゃんっていうんだ。かわいい名前ね。でも黒ちゃんはちょっとぼーっとしてるのね。私が座敷童子だってすぐには気づかないんだもの」

「会ったばかりで失礼だな。私はぼーっとなんてしていない。そんな格好をした奴を見て、座敷童子だなんて普通は思わない」

 招かれる前に上がりこんだ白は、先ほどからずっと話しっぱなしだった。煩わしいと思いながらも、黒もいちいち返答する。

「そうかなあ? かわいいでしょ。前のおうちにあった本を見て、気に入ったから変えてみたの」

 スカートの端を少しつまみ、白は大げさな仕草でお辞儀をして見せた。

「黒ちゃんは昔ながらの着物なのね。似合ってるけど、今そういうの着た人間ってあんまりいないでしょ。だから黒ちゃんもお着替え——」

「しない。別に人間に合わせる必要はないし、着飾ることに興味もない」

「そう? じゃあ黒ちゃんはどんなことに興味があるの?」

 無邪気に投げかけられた白の問いに、黒はしばらく答えることができなかった。

「……何も。私はもう何にも興味はない。いつか居場所を失って消える日まで、私はただ存在し続けるだけだ」

 傾いた日に染まる空を見つめながら、黒は続けた。

「見える人間は減り、それとともに人を幸せにする力もほとんど失った。もう私たちには何もできない。何をしようと滑稽なだけだ」

「そんなことないよ〜。確かに見える人はほとんどいなくなっちゃったし、だからお話もできなくて寂しいことも多いけど、楽しいことだってあるよ」

「たとえば?」

「えーと、お庭でお花摘んだり、おしゃれしたり、甘いもの食べたり……そうだ!」

 指折り数えながら楽しいことを列挙していた白は、何かを思いついたように手を打つと、持っていた大きな旅行鞄をごそごそとあさり始めた。

「確かここに入れたはず……あ、あった!」

「なにをしてる? そもそも、なんで座敷童子がそんな手荷物を持って——むぐ」

 黒の言葉はつっこまれた飴に遮られた。

「黒ちゃんにあげる。前のおうちの人にもらった最後の飴だよ。黒ちゃんが難しいこと考えちゃうのは甘いもの食べてないからだよ。きっとそう!」

 反射的に少し噛み砕いてしまう。甘さと刺激が口いっぱいに広がった。

「ね? 食べなくても平気だけど、せっかくおいしいって感じられるんだから食べた方が楽しいでしょ?」

「……口の中がしゅわしゅわする。なんだこれ」

「そっちはソーダ味だよ。一口ちょうだい」

「……ほら」

 鳥の雛のように開けられた白の口に、黒は飴を差し入れた。白は小さな舌で端っこを何度か舐めた。

「うん、こっちもおいしいね。はい、今度は黒ちゃんの番!」

「いや、私は別に……」

「いいからいいから、ほーら!」

 背後から軽くのしかかり、強引に飴を押しつけてくる白に閉口した黒は、やがてため息をついて口を開いた。

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「……ん〜〜〜〜〜!!!! なんだこれは! もっとしゅわしゅわする!」

「あはははは、こっちはコーラ味でした〜! あはは、黒ちゃんおもしろ〜い!」

 鼻に抜ける刺激に耐えきれず、口元を押さえて涙目になる黒を見て、白は大きな声で笑った。

 
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 二人が飴を舐め終わるころ、日は完全に沈む直前だった。山の向こうに日が落ちれば、このあたりはあっという間に暗くなってしまう。

「……もうすぐ暗くなっちゃうね」

「ああ」

「……それじゃあ、私行くね」

「え?」

 黒は驚きの声を上げた。そして、自分が驚いたことに驚いた。

「あんまり長居したら悪いし。座敷童子は一つのおうちに一人って、昔からの決まりだもんね」

「あ、ああ……そうか。そうだな……そうだった……」

「じゃあまたね。よいしょ、っと」

 不釣り合いなほどに大きな旅行鞄を持ち上げると、白は最後にもう一度だけ黒を見てほほえみ、それから歩き出した。

「……待て!」

 その背中に黒が制止の声をかける。白の足が止まる。

「行く当てはあるのか?」

「……ないけど、きっと大丈夫だよ。歩いてれば見える人のおうちが見つかるかもしれないし……」

「もう私たちの姿を見える人間なんてほとんどいない。さっきもそう言ったはずだ。それにそのうちっていつだ。家を失った座敷童子は、一日もすれば消えてしまうんだぞ」

「でも、他にどうしようも……」

「ここにいればいい」

 そんな馬鹿なことを言う自分を見て、冷静な自分がため息をついたような気がした。

「え? で、でも決まりがあるから……」

「決まりを作った力ある者たちはもういない。破ったからといって罰が下ることはない。ここの家主の婆さまは見える人だ。あとで頭を下げに行こう」

「でも、どうして……」

「別にお前のためじゃない。前々から婆さまには何か恩返しがしたいと思っていた。力を失った座敷童子でも、二人いれば幸せにしてやれるかもしれない。それに……」

「……それに?」

「……さっきの飴、おいしかった。その分の礼を返したかっただけだ」

 そっぽを向き、小さな声で呟く黒。白はうれし涙を浮かべ、鞄を放り出して黒の首にしがみついた。

 

 そこで黒は目を覚ました。

「……夢か。懐かしいような、ついこの間のことだったような……」

 背中が温かい。見ると白がもたれかかって小さな寝息を立てていた。どうやら縁側でひなたぼっこしているうちに眠ってしまったようだ。

「別に眠る必要もないけれど……まあ、気持ちいいからいいか」

 もう少し眠ろうかと白に背中を預けると、何か呟きながら白が目を開けた。

「ふわ……あ、黒ちゃん……おはよう……」

「起きたのか。もう少しこのままいようかと思ったんだけど」

「ん〜……じゃあ、そうしようか……」

 かたわらに毛布が落ちていた。たぶん家主の老婆が掛けてくれたのだろう。寒いからと言って風邪を引くこともないが、その心遣いを黒はありがたく思い、白に掛けてやった。

「ありがと……ねえ、黒ちゃん……」

「なんだ?」

「このままずーっと、一緒に楽しくいられたらいいね……」

「……ああ、そうだな」

 それが無理だと黒には分かっていたし、おそらく白にも分かっていただろう。この家に住む者で、二人の姿を見ることができるのは老婆一人だけ。それも最近床に伏している時間が長くなった。

「きっと、ずっと一緒にいられるさ」

 この家との別れ、ひいては二人の別れが近づいていることを感じながらも、黒はそう言うとそっと目を閉じた。

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 白が黒とともに暮らすようになってから数年が過ぎた、ある初冬の寒い朝。家主の老婆は寝床から起きてこなかった。

「おばあちゃん、眠ってるみたいだったね」

「ああ」

 意外にも白は泣いたり取り乱したりせず、淡々としていた。あるいは黒と同じくらいに長く生きていて、こういったことをすでに何度も経験していたのかもしれない。

「苦しい思いはしなかったでしょうってお医者さまが言ってた。おばあちゃん、私たちがいて幸せだったかな?」

「……どうかな。わからない。そうだったらいいけど」

 普段はがらんとしている仏間が今日はにぎやかだった。式がすんでテーブルが運び込まれ、酒宴が催されている。老婆の死を悼む者は少数で、話題はもっぱら遺産の分配についてだった。

「このおうち、どうなっちゃうのかな。なんか取り壊すとか言ってるね」

「さあ。どのみち、家だけ残ったところで仕方がない。この中の誰にも私たちは見えないんだから」

「そうだね……」

 宴会が終わり、親族がみな寝静まったあとも、黒と白はいつまでも座って棺を見つめ続けた。

 

「黒ちゃん、これからどうしようか」

 数日が過ぎ、この古い日本家屋を取り壊して新しい家を建て直すことが決まった。

「どうって……どうもしない。四十九日が過ぎるまではここにいられるけど、それを過ぎれば婆さまや家との縁が切れて、あとは消えるだけだ」

 この家を終の住処とする——座敷童子としての力を完全に失ったとき、黒はそう決めていた。

「また別の見える家主を捜すのも面倒だし、何もできない座敷童子として漫然と時を過ごすのにも飽きた。誰にも必要とされない私たちみたいな存在は消えていく運命なんだよ」

 自嘲気味にそう言い捨てた黒の手を、白は痛いくらいに強く握った。

「ううん、そんなことないよ、黒ちゃん。自分で自分のことを『必要とされない存在』なんて言っちゃだめ」

「だけど、そうだろう? ほとんどの人の目には見えず、見える家主に恩返しもできず、ただ居座るだけ……そんな私たちを誰が必要としてくれるんだ?」

「……わたしが、必要としてるよ。誰にも見えなくても、なんにもできなくても、私は黒ちゃんと一緒にいたい」

 白はいつものようにほほえんでいた。しかし、その瞳は真剣な光をたたえていた。

「わたしはずっと黒ちゃんと一緒にいたい。このまま消えちゃうなんて嫌だよ。きっとおばあちゃんだって、黒ちゃんに消えて欲しくないって思ってるよ」

「白……でも、もうこの辺りには見える人間なんて一人も……」

「大丈夫。おうちが残ってるあいだはお外に出ても一週間くらいは消えずにすむと思うから、ちょっと遠くまで探しに行ってみようよ」

 どこまでも前向きな白だったが、黒はなおもためらった。

(私は……どうすればいいんだ)

 仏壇に目を向け、位牌に問いかける。ふと黒の脳裏に、生前の老婆の言葉がよみがえった。

『黒は諦めがよすぎるねえ……若いうちはもっと頑張って頑張って、もうだめだってときにもまだ諦めずにがんばるもんだよ』

 自分の何倍も生きている座敷童子に何を言っているのか、とそのときは滑稽に思ったが、今思えば、いずれこういうときが来ることを予期しての言葉だったのだろうか。

「ね、そうしよう、黒ちゃん。わたしバスとか電車とかの乗り方も知ってるし、どこにでも行けるよ。どうせ消えちゃうんなら、最後まで頑張ろう?」

「……そうだな。消えるときまでぼーっとしてるのも退屈だし、少し遠くの景色を見に行くのもいいかもしれない」

 偶然にも老婆と同じようなことを言う白に、黒はとうとう首を縦に振った。

「!! 黒ちゃん、それじゃあ……」

「うん。明日、この家を出よう」

 しまい込んであった旅行鞄を喜々として引っ張り出す白を横目に見ながら、黒も少しは荷物を持っていくことにして、風呂敷を広げた。

 
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「わあ、黒ちゃん……それ全部持ってくの? ちょっと荷物多すぎじゃない?」

「……白に言われたくない」

 そういう黒の口調は弱々しかった。あれもこれもと包んだ結果、黒の風呂敷包みは白の旅行鞄に勝るとも劣らない大きさになってしまったのだ。

「初めて会ったとき、『座敷童子がそんないっぱい荷物持ってるなんて変だ』とか言ったくせに〜」

「そんな昔のこと、もう忘れた」

 もちろん、黒は覚えていた。だがいざとなると、何もかもに思い出があって置いてはいけなかった。きっと白の荷物もそんなものばかりなのだろう。

「時間を忘れていたつもりだったけど、いろいろ覚えているものなんだな」

「? 黒ちゃん何か言った?」

「いいや、なにも。さあ行こう」

 二人は最後に、もう一度だけ住み慣れた家を振り返った。そして何も言葉にせず、胸の内で挨拶をすませ、二度とは振り返らなかった。





「あのね、ずーっとあっちの方に大きな駅があるの。そこで電車に乗って、気に入ったところで降りようよ」

「白に任せるけど、そこまではどうやって行く?」

「バスに乗るんだよ。どのバスに乗るのかは分かんないけど」

「なに? バスや電車のこと、よく知ってるんじゃなかったのか?」

「乗ったことあるだけだもん。大丈夫、何回か乗ったり降りたりしてれば、そのうち着くよ」

 この期に及んでなお緊張感のかけらもない白に、黒は絶句した。

「……やれやれ」

 消えてしまうまで一週間か二週間か……そのあいだに新しい家が見つかる可能性はほとんどない。

「黒ちゃーん、早く早く〜!」

 だが黒は、最後の瞬間まで白と共にいようと誓っていた。

「諦めずに、最後まで頑張る、か……」

 久しく忘れていた高揚感を胸に、黒は先を行く白に追いつくべく、一歩踏み出した。


 行き当たりばったりにバスを乗り継ぎ、半日がかりで駅にたどり着いたときには、もうあたりは真っ暗だった。

「わー、前に来たときよりずっとずっと大きくなってる。電車もピカピカだし、あんなに速いとあっという間に世界一周しちゃうかも! 黒ちゃん、あれに乗ろ!」

「……なんで白はそんなに元気なんだ……」

 改札を走り抜けて電車に飛び乗る白の後ろを、黒はぐったりしながらついていった。

「忘れていた……家を離れるとこんなにも“疲れる”のか……」

 ずっしりと全身が重く、頭もうまく回らない。何十年かぶりに“外”を歩く黒にとって、それはできれば忘れたままでいたい感覚だった。

「黒ちゃん、窓際の席が空いてるよ! 早く早く!」

「……初めて会ったときもあんな感じだったな……白は疲れないのか……?」

 果たして自分と白は同じ座敷童子なのだろうか、と根元的な疑問を抱きつつ、黒は白と向かい合った席に腰を下ろし、肩に食い込む風呂敷を下ろした。

「あっ、動いた! 電車が動いたよ! わー、速い速い! お外の灯りが後ろに飛んでっちゃうみたいだね! あっ、ちかちか光ってる。あれ何? ねぇ黒ちゃん……黒ちゃん?」

 黒は風呂敷に埋もれるようにして、すでに泥のように眠っていた。

「も〜、つまんないなあ……でも、しょうがないね。黒ちゃんお外に出るの久しぶりだって言ってたし。新しいおうちが見つかるまでは、ちゃんと寝たり食べたりしないとね」

 白は旅行鞄を開けると小さなキャンディーを取り出して口に含み、もう一つを寝ている黒の口に放り込んだ。

 

「……く……ちゃん……ろちゃん……黒ちゃん!」

「ん……?」

 体を揺すられ、黒は重いまぶたを開けた。多少回復してはいるが、まだ節々が痛む。

「白……どうした?」

「どうした、じゃないよ〜。終点だって。この電車はここから先には行かないんだって。ずいぶん大きな町に来たし、ここで降りて見える人を探そうよ!」

 ようやく血が巡ってきた頭で窓の外に目をやると、地面を埋め尽くす高い建物と、誰一人立ち止まることのない大河のような人の流れが見えた。

「こんなに大勢の人がいるんだもん、きっと見つかるよ!」

 絶句する黒の手を引き、白はぐいぐいと人並みに逆らって進む。ようやく改札を抜けて駅を出ると、町の喧噪と汚れた空気が二人を出迎えた。

 

 それから三日。結論から言えば、新たな家探しはまったく進展していなかった。

「アリさん、アリさん、どこ行くの〜」

「白……アリなんか前の家の周りにだっていっぱいいただろう。今はそんなもの眺めている場合じゃない」

「ん〜、もうちょっとだけ」

 座敷童子が家を離れることの大変さを、黒は今さらながらに痛感していた。試供品の匂いに釣られてスーパーに入っては自動ドアに挟まれ、夜露をしのげる場所を探しては野良猫にからまれた。

 人が多すぎるのも問題だった。見えなくても歩行者や自転車は無意識に二人を避けてくれるのだが、自動車はお構いなしにつっこんでくるので、たびたびヒヤリとさせられた。

(バイクとやらは自転車とそう変わらないのに、なぜあれも突っ込んでくるんだろう)

 黒にはどこに境目があるのか分からなかった。人避けの力も衰えているんだと諦めるより他にない。

「アリさん、アリさん……あ、巣をはっけーん」

 だが一番の問題は白にあった。ことあるごとにいろいろなものに興味を示し、その足を止めるのだ。日が経つにつれ、その頻度は増すばかりだった。

「白、何度も言わせるな! もう私たちはいつ消えたっておかしくないんだぞ! もうすぐ雨も降ってきそうだし、遊んでる暇があったらどこか雨宿りする場所を——」

 言い終わらないうちに、黒の頬に水滴が当たった。ポツ、ポツポツ……見上げた空から降る雨はあっという間に勢いを増し、氷雨が二人をぬれねずみにする。

「ほら、降ってきたじゃないか……白、傘をさして。あっちに公園があったから、そこまで走って——白? 白!!」

 天に向かって悪態をつき、向き直った黒が見たものは、突然の雨に列を乱すアリの横で倒れ伏す白の姿だった。

「白、どうした!?」

「……黒ちゃん……? あ〜、わたし倒れちゃったんだ……ごめんね、ちょっと公園までは行けそうもないから……ここで一休みしていい……?」

 白の手は、雨に濡れているにしてもあまりに冷たすぎた。

「こんな……こんなになるまでどうして黙ってた! それになんで白だけ……まだしばらくは保つと思っていたのに——」

 黒はうかつな自分を激しく呪った。黒は前の家で数十年を過ごしているが、白はまだ数年しか経っていない。家との縁が薄い白が先に消えるのは当然だった。

「ごめんね、せっかく頑張る気になってた黒ちゃんに心配かけたくなかったから……」

『鞄の中身が崩れちゃったから、少し整理するね』

『虹が出てる! 黒ちゃん、虹が消えるまでここで見てようよ』

『アリさん、アリさん、どこ行くの〜』

(全部……全部、遊んでたわけじゃなかった……疲れて歩けなくなって、休むための言い訳だったんだ……)

 後悔にさいなまれる黒の頬を、白が優しくなでた。

「そんな顔しないで……大丈夫だよ、ちょっと休めばよくなるから。それに、ほら。昨日ナイショで作ったんだ」

 おぼつかない手で傘をさし、白は鞄の中から立て札のようなものを取り出した。拾った木ぎれに、クレヨンで『見える人は拾って下さい』と書いてある。

「これを置いておけば、誰かがきっと見つけてくれるよ。そしたらその人のおうちに連れていってもらって、いっぱい甘えて、ごちそう食べさせてもらって、お布団で寝ようね」

 黒はあたりに目をやった。車を避けて歩いていた裏通り。雨宿り先を求めて足早に歩いていた人影も、今はもうない。

「……ああ、そうだな。白は頭がいい。最初からそうしていれば、歩き回って疲れずにすんだのに」

「えへへ、ごめんね……」

 ますます雨足が強くなり、伸ばした手の先も見えないような水の世界の中、二人は小さな傘の下でそっと寄り添った。

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「黒ちゃん……鯛焼き食べたいな……」

「ああ。昔婆さまが買ってきてくれた鯛焼きはおいしかった。新しい家主が見つかったら、たくさん買ってもらおう」

 ときどき白は何かを思い出したように呟き、黒はそれに一つ一つ返事をした。その間隔がだんだん長くなっていく。白の存在がどんどん軽くなっていくのが分かった。

(白がいなくなる……消えてしまう……話すことも、遊ぶこともできなくなる……白……しろ……シロ……)

 焦りばかりがつのる。そんな黒の視界の中で、白の姿が一瞬ゆがんだ。

(……シロッテ、ダレダッケ?)

「どうしたの、黒ちゃん……?」

 白の声に、黒ははっと我に返った。白の手を強く握る。もうほとんど体温を感じない。そんな黒の手の上に、白はもう片方の手を重ねた。

「黒ちゃん、もし、もしもだけど……もしわたしが間に合わなくても、黒ちゃんは絶対諦めないで、新しいおうちを見つけてね……約束だよ?」

 黒は白の手を乱暴に振り払い、傘をはねのけて立ち上がった。

「もしも、なんてない! 絶対二人で家を見つけるんだ! 白はここで待っていろ、今すぐ見える人間を探して連れてきてやる!」

 黒は大通りを目指して駆けだした。

 

「白の馬鹿! 勝手にやってきて、止まっていたわたしの時間を動かして、いろんなこと教えておいて……それで勝手に消えるなんて許さないからな!」

 歩道をまっすぐ走り抜ける。傘をさす人の流れが不自然に割れる。

「誰か! 誰かわたしが見える人間はいないのか! いたら返事をしてくれ!」

 赤信号の横断歩道を叫びながら渡る。まったく減速せずに走る車に何度も轢かれそうになる。だがどれだけ声を張り上げても、誰一人見向きもしなかった。

「誰でもいい……私たちを助けて! 白が、白が消えてしまう……もう一人は嫌だ……」

 誰かにぶつかり、はねとばされた拍子に草履の鼻緒が切れた。ついに心が折れ、黒はその場にへたり込んで悲痛な泣き声を上げた。

 その違和感に気づかなければ、もしかしたら黒もその場で消えていたかもしれない。

(!? 誰かに……ぶつかった!?)

 顔を上げ、もと来た方を振り向く。数歩離れたところで、ダウンジャケットを着た若い男が振り向いていた。

「私が……見えるの?」

 男は黒から視線をはずし、歩道を歩く人々が黒を避けて歩くのを見て、もう一度黒と見つめ合った。

「こんな町中で座敷童子なんて、珍しいな。なんか消えるとか言ってたみたいだけど、もしかして家なしか——っておい! 引っ張るな、どこ行く気だ!」

 黒は男の手を取ると、猛然と白のいる場所へと走り出した。すれ違った人は独り言を言う男を見て怪訝そうな顔をしたが、振り返る者はいなかった。

 

「うわ、消える直前てこんなになるんだな……向こう側が透けて見える」

「馬鹿なこと言ってないで、急いで! この子の名前は白! さっき教えたようにして! 早く!」

 二人が戻ったとき、白はもう傘も支えきれないほどに衰弱していた。黒はぐったりする白の手を取り、男の手に強引に握らせた。

「ああ、了解。ええと……『座敷童子の白、我が家にお越し下さい。代わりにどうか我が家に幸せをお与え下さい』……こんな感じだっけ?」

 男が言い終えると同時に、白はぱちりと目を開けた。その頬にみるみる生気が戻ってくる。

「黒ちゃん……見つかったんだ……」

「白! もう大丈夫、もう大丈夫だから……よかった、本当によかった……」

「く、黒ちゃん、苦しいよ」

 白の苦情もお構いなしに、ぎゅっと強く抱きしめる黒。その頭の上で、男は頭をかきながら二人に傘をさしかけた。

 

「本当にありがとうございます。ええと……」

「色無。俺は色無っていうんだ」

「ありがとうございます、色無さん。うふふ、こんなふうに抱っこしてもらえるなんて、お姫様みたい」

「白、あんまり気を許さない方がいい。こいつがどんな奴か、まだ分からないんだから」

 雨がやみ、白と黒は色無と名乗った男の家を目指していた。消える心配はなくなったものの、まだ本調子でない白は色無に抱きかかえられている。

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「そういうことは聞こえないところで言うように。普通助けてやった人間にそういうこと言うか? さっきはあんなに取り乱してたくせに……」

 色無に指摘されて感情的になっていた自分を思い出し、黒はわずかに顔を赤くして視線をそらした。

「あれは緊急事態だったからだ。普段の私はあんなふうじゃない。白、やっぱり落ち着いたらこいつとは縁を切ろう。どうもろくでなしのような気がする」

「そんなことないよ。黒ちゃん、色無さんの悪口言っちゃだめ」

「しかし白、契約の言葉も覚えられない上に、なんだか軽薄な言い方だったし……」

「契約は気持ちが大事なんだから、言い方はどうでもいいじゃない。ちゃんと成立したんだし」

「だが——」

 言い争いを始めた二人を、色無は苦笑いしながら制止した。

「はいはい、そこまで。まあこれまでのこともこれからのことも、まずは落ち着いてからにしよう。ほら、着いたよ」

 色無があごで示した先を見ると、小さいながらもよく手入れされた庭のある、居心地のよさそうな家が見えた。

「ここが俺の……俺たちの家だよ。ようこそ我が家へ」

 色無は白を下ろすと扉を開け、笑顔で二人を迎え入れた。


 結局その日は、玄関をくぐったとたんにどっと押し寄せてきた疲労に負け、白と黒は色無が用意してくれた布団で泥のように眠ってしまった。

 目を覚ましたときには日付が変わっており、色無はすでに出勤していたため、落ち着いて話ができたのはその日の夜になってからだった。

「え、そんな遠くから来たのか? へえ……家に縁のある座敷童子って言っても、ずいぶん遠くまで出歩けるもんなんだな」

 二人が以前住んでいたところの地名を聞き、色無は目を丸くした。

「ホントはもう少し近いところで降りようと思ってたんだけど、黒ちゃんが寝ちゃって起きなかったからここまで来ちゃったの」

「家を離れるのは本当に久しぶりで疲れてたんだ、しかたないだろう」

 話を聞きながら、用意した夕食——といってもカップ麺だが——をおいしそうに食べる二人を、色無は目を細めて見つめた。白が最後の一口をちゅるんと吸い込む。

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「白、最後まで箸を使わないと行儀が悪い。それと汁はしょっぱいから飲んじゃだめ」

「え〜、なんで? 黒ちゃんだってお汁飲んでるじゃない」

「私は白より丈夫だからいいんだ。白はもっと体に気をつけないと」

「いや……健康を気にするのはいいことだけど、座敷童子が塩分の取りすぎを気にしてもしょうがないんじゃないかな……たぶん」

「そうだよね! いただきま〜す! んっく、んっく……ごちそうさま〜!」

 苦笑する色無の言葉に飛びついて、白はスープを飲み干す。笑いあう二人とは対照的に、黒は苦虫をかみつぶしたかのような顔をした。

 

 食後すぐにこっくりこっくりと船をこぎ始めた白を布団に運び、規則正しい寝息を立てるのを確認すると、黒はそっとリビングに戻った。

「ん? 黒はまだ寝ないのか? 子供が夜更かしするのは感心しないな……といっても、たぶん俺より年上なんだよな」

「そうだな。たぶん五倍や十倍ではきかないくらい、お前よりずっと長く生きているはずだ」

「そっか。それで、どうした? 白抜きでなんか話があるんだろ? ……あ、そういえばまだ黒とは契約してなかったな。悪い、忘れてた。まずはそれをすませて——」

「先に私の質問に答えてもらおう。契約するかどうかは返答次第だ。……どうして、私たちを助けてくれた?」

 立ち上がろうと腰を浮かした色無は、中途半端な姿勢で動きを止めた。数秒ののち、ゆっくりと元の位置に座り直し、色無は穏やかに答えた。

「助けを求められたから。困ってる君たちを放ってはおけなかったから……ていうのじゃ駄目なの?」

「駄目じゃない。それが本心なら。だがお前は最初から私たちが座敷童子だと気づいていたし、座敷童子について知識を持っていた……ならば、何か打算があったんじゃないか?」

 黒が容赦なく向ける疑惑の眼差しに、色無は苦笑した。

「信用ないなあ。座敷童子の御利益目当てで助けたと思ってるのか? もしそうだとしたら、どうするつもりなんだ?」

「白との契約を破棄させて出ていく。下心のある家主のもとでは、白が幸せになれない。もう私たちは、家主のためじゃなく自分たちのために生きることにしたんだ」

 どのみちその力は失われているのだから、期待に応えようもないのだが。不利な手札を自ら切ることもないので、黒はそれを伏せておくことにした。

「まあ確かに、今すごい幸せってわけでもないけど、他力本願な幸運に頼るほど不幸でもないよ。そうだな……自分でも忘れてた誓いを守るため、かな」

「誓い?」

 黒が怪訝な顔をすると、色無は冷蔵庫からビールを取り出してグラスに注ぎ、昔話を始めた。

「小さいころ、じいちゃんちに友達がいたんだ。黒みたいな和服を着て、背のちっちゃなすげえ口の悪い女の子だった。不思議なことに、その子の姿は俺とじいちゃんにしか見えなかった」

「それって……」

「ああ。そのときは全然気づかなかったけど、その子も座敷童子だったんだ」

 色無はけっこうなペースでグラスを空にし続けた。半ば自分に聞かせるように、ゆっくりと言葉を続ける。

「じいちゃんが死んで葬式に行くことになったときも、俺は少しだけ喜んでた。盆と正月以外でその子に会うことができるから。でも、久しぶりにあったその子はいつもみたいに怒ってなくて、すごい寂しげに笑ってた」

「……次の家主は、見えない人だったんだな」

「家主どころか、じいちゃんが死ぬずいぶん前から、もう家は取り壊しが決まってた。そのとき初めて、その子は自分が座敷童子だって教えてくれて……それっきりだ」

 その声は軽く、口元にはわずかに笑みが張りついていたが、黒は色無の手がグラスを強く握って白くなっているのを見逃さなかった。

「俺はガキで、親類の中でただ一人、その子を見ることができたのに……なんにもしてやれなかった。だからそのとき誓ったんだ。次は絶対助ける、ってな」 

 最後のビールを注ぎ、空になったアルミ缶をくしゃっと握りつぶす。

「そういうわけさ。まあ黒に会うまで忘れてたんだけど、親に借金してきっついローン組んでこの家買ったのは、心のどこかにそれが引っかかってたのかもな」

「……きっと、その子も新しい家主を見つけて、今も幸せに暮らしてるだろうな。お前のことなど忘れて」

「はは、ひでえなそりゃ。まあでも、黒たちがあんな遠くからここまで来られるくらいだし、あの子だって無事に決まってるよな。で、俺は新しい家主として合格?」

 酔って真っ赤になった顔で黒を見つめる色無。黒は別の理由で赤くなり、視線を逸らした。

「……まあ、下心がないというのは分かった。もっといい家主が見つかるまでの一時しのぎくらいにはなりそうだな」

「そうかそうか、そりゃーよかった。じゃあさくっと契約するか」

「むう……そういう軽薄な態度が気に入らないんだ! 白のときみたいに適当にせず、古式に則ってやってもらう——わあ!」

 差しだされた右手をぐいっと引っ張り、色無は黒の体を胸に抱きしめた。

「今日から黒もうちの座敷童子だ……白と俺と三人で、ゆっくり幸せになっていこうな……」

「……古式に則ってやれと言ったのに、この馬鹿者が……」

 酒臭い息を吐きながらいびきをかく色無と一緒に、黒は身をよじってコタツに潜り込むとそっと目を閉じた。


「色無さん、今日も遅いねー。いつごろ帰ってくるのかな?」

「分からない。最近忙しいと言っていたしな」

 このところ毎晩繰り返される白の問いに、黒もまた同じ返事を繰り返した。

「あの若さでこれだけの家を構えているんだ。きっとそれなりに責任のある仕事を任されているんだろう。あまり無理して体をこわさなければいいんだが」

「……ふーん。黒ちゃんが色無さんの心配するなんて珍しい。このあいだ一緒にコタツで寝てた日からちょっと変わったよね。何かあったの?」

「あ、あれは酔っぱらった色無がしがみついてただけで、一緒に寝てたんじゃない! それに家主の心配をするのは座敷童子として当然だろう!」

 不自然に声を荒げる黒。常に退屈しのぎに飢えている白がそれを見逃すはずもなかった。

「え〜、それだけとは思えないけどなー。何か最近色無さんに優しくしてるし。ねぇねぇ、ホントは何かあったんでしょ? こっそり教えて?」

「何もない! だいたい三人で全員なんだから、こっそりとか意味ないだろう!」

 なおも好奇心に目を輝かせてにじり寄ってくる白を、黒は懸命に押しとどめる。壁際に追い込まれたところで、玄関の扉が開く救いの音が響いた。

「ただいま〜……あー疲れた……もうくたくただよ……」

「おかえりなさーい! 今日もお疲れ様。それじゃあご飯にする? 先にご飯にする? それとも……ご・は・ん?」

「飯しか選択肢ないじゃん……はいはい、いま用意するからちょっと待ってな」

「わ〜い!」

 ネクタイをゆるめただけで、色無は着替えもせずに台所に立って湯を沸かし始めた。その足下にまとわりつく白を少しうらやましそうに見つめながら、黒は小さく呟いた。

「……おかえり、色無」

 

「『用意する』と言っておきながら、またカップラーメンか。お湯を沸かしただけじゃないか」

「あ、すまん。さすがにこうカップラーメン続きじゃ飽きるよな。気が回らなかった。じゃあ赤いきつねと緑のたぬき、黒はどっちが——」

「カップうどんとかカップそばが食べたいと言ってるんじゃない!」

「く、黒ちゃん、落ち着いて。私はカップラーメンも好きだよ。でも、その……たまにはお野菜も食べたいかな」

 さげすむような黒の冷たい視線と、おねだりするような白の甘えた上目遣いを、色無は少しうんざりした顔で跳ね返した。

「そう言うなよ。俺だって自炊しなきゃと思って、休みの日に食材買い込んではいるんだけど、さすがにこう忙しくちゃ、そんな気力も沸かないんだよ」

 乱暴に割り箸を割り、後入れの具やスープをぐちゃぐちゃとかき混ぜる。

「だいたい、座敷童子ってのは寝たり食べたりしなくてもいいんじゃなかったのか?」

「あ、それは、えーと……座敷童子にもいろいろあって……今は一日一食くらいは食べないとちょっとつらいかも。ね、黒ちゃん?」

 だんだん不穏になっていくリビングの空気に、白は困ったような笑顔で黒に助けを求めた。そしてもちろん、黒はそんなことまったくお構いなしにずばっと真実を口にした。

「そうなるまでには時間が必要だ。時間だけでなく、家主と家との縁の深さ、家の大きさ、格……いろんなことが関係してくるけど、今はそのすべてが足りない」

 箸を持つ手に力が入った。色無は一つ深呼吸し、喉まで出かかった辛らつな言葉を飲み込むため、猛烈な勢いで麺をすすり上げた。

「ごちそうさま。今日はもう寝る。悪いがあとかたづけしといてくれ」

「え、だってまだお風呂入ってない——」

「明日の朝入る。じゃあな、おやすみ」

 白の言葉を遮った色無は、振り向くことなく廊下を足早に歩いていった。寝室のドアが勢いよく閉じられると、白はびくっと身をすくませた。

「黒ちゃん……あんな言い方よくないよ。色無さんだって精一杯私たちによくしてくれてるのに」

「別に色無を責めたつもりはない。ご飯を食べる理由を尋ねられたから、それに答えただけ」

「それはそうかもしれないけど……それに、私たちがおうちから力をもらうのに必要なこと、もう一つあるでしょ? 一番大切なことが」

 黒の箸が止まった。まだいくらか中身の残っている器を持ち、流しに向かう。

「黒ちゃん!」

「……今の色無にそれを伝えてもしかたない。そして今の私たちに、色無を変える力はない。だから言わなかっただけだ。さあ、もう私たちも寝よう」

 三角コーナーに麺を捨て、器と箸をゴミ箱に放り投げてリビングを後にする黒。白は大きなため息をつき、部屋の灯りを消して黒のあとを追った。

 

「やっべー、寝過ごした! うわ、ギリギリだ!」

 廊下を走り回る足音と大声に、黒は目を覚ました。隣で白も目をこすりながら身を起こした。

「あー、もう風呂入ってる時間もねー!! シャツとネクタイ……は昨日のでいいか」

「色無さん、おはようございま——」

「はいおはよう! 悪いけどもう出るから、玄関の鍵かけといて! チャイムが鳴っても絶対出るなよ! じゃあいってきます!」

 白の挨拶を聞き流し、黒が声をかける暇もなく、色無はあわただしくかけだしていった。

「朝から騒々しいやつだ。家主にはもう少しどっしりと構えてもらいたいな」

「疲れがたまってたから寝坊しちゃったんだよ。それに……昨日は黒ちゃんが怒らせちゃったから、あんまり眠れなかったのかも」

「む……」

「そうだ! いいこと考えた!」

 不意に顔をぱっと輝かせ、白はパンと手を打った。それを見た黒は顔をしかめる。白が『いいこと考えた』と言うときは、たいていろくでもないことを思いついたときだ。

「黒ちゃん、私たちで色無さんにご飯作ってあげようよ。おいしいものたーくさん食べさせてあげれば、きっと疲れも吹き飛んじゃうよ!」

「……やっぱり」

 予想もしなかった白の提案。さっそく冷蔵庫を物色している白のはしゃぎようを見て、止めても無駄なことを一瞬で悟った黒はやれやれと首を振った。

 

「さて、と。材料たくさんあってよかったね、黒ちゃん」

「そうだな……痛んでた食べ物はこれの倍はあったし、汚れきってた冷蔵庫の掃除に半日かかったけど」

「あはは……冷蔵庫の中、ぎゅうぎゅう詰めだったもんね……」

 “救出”した食材を流しの上に並べ終えると、黒は台所の床の上にぐったりと座り込んだ。三重のポリ袋に生ゴミを密閉し、換気もしたが、まだ不愉快な匂いがわずかに漂っていた。

「料理する気力が沸かないのはともかく、古いものを捨てずにあとからあとから買ってきたものを入れるなんて、どういう神経をしてるんだ、あいつは!」

「ほら、男の人ってそういうのあんまり気にしないし、しかたないよ」

 憤懣やるかたないといった様子の黒を、白は懸命になだめた。

「……白は全面にびっしりと青カビの生えたチーズに触ってないからそんなことが言えるんだ」

「えと……海の向こうにはそういう食べ物もあるらしいよ」

「それと、さっき白が捨てたやつ。ビニールに入ってた緑色の水。あれはたぶん、もとはきゅうりだったんじゃ——」

「わーわー、聞きたくない! もう忘れよう? とにかくこれだけは食べられるものがあったんだし、ね? お料理しようよ」

 耳をふさぎ、白はぶんぶんと頭を振って、鳥肌の立つような想像を力一杯振り払った。

「……まあいいけど。このまま置いておいたらこれも痛んでしまうし。しかし、なんとも統一性のない材料だな」

 気を取り直し、生き残りの食材を眺める。和洋、肉魚介、てんでばらばらだ。調味料だけは一通りあったので何でも作れるだろうが、この食材を生かすなら——。

「和食だな」

「洋食で決まりだね」

 二つの口から異なる言葉が同時に生まれた。顔を見合わせる二人。

「まずは痛みやすいサバから料理したほうがいい。和食がいいと思うけど」

「あと一日くらい保つと思うよ。それより今日は初めてごちそうするんだから、華やかな感じのする洋食でぱーっとにぎやかにしようよ。和食はちょっと地味じゃない?」

 双方にこやかな笑みを浮かべつつ、一歩も譲らなかった。

「色無をもてなすというのなら、あえて言わせてもらうけど……色無は和食派だよ、白」

「そんなことないもん、洋食派だもん」

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 むーっと顔を寄せてにらみ合う。先にぷいとそっぽを向いたのは白だった。

「じゃあ競争しよ! 黒ちゃんが和食、私が洋食を作って、色無さんがどっちを気に入ってくれるか」

「別に色無に気に入られたいとは思わないけど……望むところだ。白より私の方が料理上手なところを見せてやろう」

「ふーんだ! お台所のここからこっちは私の陣地だからね! 黒ちゃんは入ってきちゃ駄目!」

 床に見えない線を引いて、白はべーっと舌を出した。

(水道もまな板もあっち側だけど、コンロも食器棚もこっち側なのに。どうするつもりだ?)

 数分後に前言を撤回するであろう白の様子を想像して含み笑いをしながら、黒は風呂敷包みの中から割烹着と三角巾を取りだした。

 

「ただいま〜……あー疲れた……もうくたくただよ……」

 まったく同じ台詞を吐きながら、色無は昨日と同じ時間に帰宅した。帰宅時刻から逆算して料理を仕上げた白と黒は、読みが当たってほっと胸をなで下ろした。

「白ー、黒ー。悪いんだけど、今日もカップ麺で我慢してくれないか? 俺は先に風呂に入るから——」

 リビングのドアを開けたとたんに漂ってきたかぐわしい香りに、色無は言葉を失った。手探りでスイッチを押し、灯りをつける。

「……」

 コタツの上には、和洋ばらばらな料理がところ狭しと湯気を立てていた。

「驚いているようだな。だけど、目は鯖の味噌煮に釘づけだ」

「しっ! 声が大きいよ黒ちゃん! どのお料理を最初に食べるかこっそり見張ってるのに、見つかっちゃうじゃない!」

 台所の方からぼそぼそと声が聞こえてくる。色無は感情を抑えた声で呼びかけた。

「白、黒。出ておいで。そこにいるんだろ?」

 少し間を空けて、二人は隠れていた壁際からそっと顔をのぞかせた。

「えへへ、見つかっちゃった。忙しくてお料理できないって言ってたから、二人で作ってみたの。どの料理が一番おいしそう? やっぱりシチューかピラフだよね?」

「私は白につきあって作っただけだけど。食べ物の好き嫌いははっきり言った方がいい。こっちのなますや鯖の味噌煮が好みなんだろう?」

 口々に自分の料理を勧める二人を、色無は黙って両腕で抱き寄せた。

「えと、あの……い、色無さん?」

「……突然どうした」

「両方好き。どっちも……白も、黒も、二人とも好き。どっちかなんて……選べないよ……」

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 抱きしめる腕に力が入った。照れて逃れようとする二人を、決して離すまいとするかのように。

「色無さん、嬉しいけど苦しいよ……わわ、なんで泣いてるの!?」

「料理の好みを尋ねただけで、私と白のどっちか選べといったわけじゃないんだけど。もう分かったから、早く食べろ。冷めてしまうぞ」

「ははっ……そうだな、そうしよう。いただきます!」

 二人を解放した色無は、一つ鼻をすすり上げると、猛烈な勢いで食べ始めた。

 

「は〜、ごちそうさま。どの料理もすごくおいしかったよ。ありがとう」

「ふふふ、おそまつさまでした。よかったね黒ちゃん、喜んでもらえて」

「別に。まあ、白の料理も失敗してなかったみたいで何よりだ」

「も〜、黒ちゃんたら!」

 いつものやりとりをほほえみながら見ていた色無は、そこで昨日とは違うところに気がついた。

「あれ? そういえば二人は食べないのか? あ、それとも先にすませちゃってたとか?」

「ううん。色無さんが帰ってないのに勝手に食べたりしないよ。今日は私たち、ご飯はいらないの」

「? なんで? 一日一食は食べないときついって、昨日言ってたじゃん」

「それについては黒ちゃんが説明しまーす」

 大げさな身振りで話を振ってきた白を、黒は苦い顔でにらみつける。好奇心に満ちた色無の視線に屈し、黒はしぶしぶ口を開いた。

「わたしたち座敷童子が力を得るのに必要なもの。それは昨日言ったとおりだ」

「ああ、時間とか、家の大きさとか格とかがどうのこうのってやつな」

「それ以外にもう一つ……一番大切なことがある。それが満たされれば、他の条件はそろってなくても大丈夫、と言ってもいい。つまりそれは……家主の幸福だ」

 ばつが悪そうにしている黒と、相変わらずニコニコしている白のあいだを、色無の目がいったり来たりした。

「色無さんが『幸せだなー』って感じてくれれば、私たちはおうちからいっぱい力をもらえるの。だから今日はご飯食べなくても全然大丈夫!」

「そうなのか……じゃあ今、お前たちって世界最強の座敷童子ってことだな。だって俺、世界最強に幸せだもんな!」

「わっ! 調子に乗るな! お前は何かあるたびに抱きつくのをやめないか!」

「きゃー! あはははは、世界最強!! すごーい!!」

 この日、色無は数年ぶりに、腹の底から笑い声をあげた。


「ただいま〜……あー疲れた……もうくたくただよ……」

「あっ、帰ってきた! おかえりなさーい!」

「ああ言わないとこの家に入ってこられないのか、色無は?」

 たまの休日だというのに半日出勤した色無が、いつものようにぐったりして帰宅したのは午後二時ごろ。白と黒は対照的な態度で出迎えた。

「今日もお疲れさま。お昼ご飯は食べてきたの? またわたしと黒ちゃんが作ったげようか? 今日は何して遊ぶ?」

「白、そんなにまくし立てたら色無が困るだろう。少し落ち着け」

 子犬のように色無の足にじゃれつく白を、黒は引き離そうとした。色無は苦笑し、太ももにしがみついて抵抗する白の頭をわしゃわしゃと撫で、スーツの上着を脱いで黒の頭にかぶせた。

「飯は食ってきたからいいや。それより、今日は白にお土産買ってきたんだけど」

「おみやげ!?」

「ああ、鞄の中に——」

 色無が言うが早いが、白は放り出された鞄に飛びついた。入っていた紙袋を取り出し、目で問いかける。色無がうなずくと、白はゆっくりと封を開けた。

「あ、絵本だ!」

 中から出てきたのは、表紙に『不思議の国のアリス』と書かれた本だった。絵本といってもけっこうな厚さがあり、大人でも楽しめる類のようだ。

「ほら、表紙にいるこの子が主人公のアリスなんだけど、白にそっくりだろ? だから気に入るんじゃないかと思ってさ」

「ありがとうありがとう! わー、すっごくうれしい! ねえ色無さん、読んで読んで!」

「白だって自分で字読めるだろ?」

「色無さんに読んで欲しいの!」

 先ほどまでの勢いに輪をかけたはしゃぎようで、白は色無の胸元にぐいぐいと絵本を押しつける。黒はスーツの下でもがいていたが、ようやく顔を出すと渋い顔をした。

「白、色無はまだ着替えもすんでないじゃないか。先に風呂だって入りたいだろうし、あとでゆっくり……」

「ああ、いいよいいよ。ほら白、分かった、分かったから。じゃあちょっとだけ。きりのいいとこまでな」

「はーい!」

 ネクタイを少しゆるめ、色無は靴下も脱がずに腰を下ろした。その胸元に、白はそこが指定席と言わんばかりに背中を預ける。

 白が神妙な顔をして丁寧にページを開き、色無がゆっくりと最初の段落を声に出して読み始めた。

「『アリスはすっかり退屈していました。アリスはお姉さんと一緒に木の下で』——」

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 そのとき、黒の中で何かが爆発した。

「白、いい加減にしないか! わがままばかり言って、座敷童子が家主に迷惑をかけてどうするんだ! 色無も、あまり白を甘やかすな!」

 勢いよく言葉があふれ出る。直後にたまらない静寂がリビングを支配した。白も色無も目を丸くして黒を見つめている。だが、一番驚いたのは黒自身だった。

「黒ちゃん……あの、ごめんね……わたしそんなつもりじゃ……」

「いや……私の方こそすまなか——」

 黒が最後まで謝罪の言葉を口にしていれば、それで終わりだったかもしれない。しかし、色無がそれをさえぎってしまった。

「黒、ちょっと言いすぎだぞ。俺がいいって言ったんだから、白は悪くないだろ。ちゃんと謝れよ」

「……私は何も間違ったことは言っていない! 務めを果たせなくて何が座敷童子だ!」

「黒ちゃん……」

「黒!」

 今にも泣きそうな白と、非難の目を向ける色無。その視線に耐えられず、黒は家を飛び出した。

 

 どこをどう走ったか、よく覚えていない。気がつけば黒は、誰もいない公園のベンチで膝を抱えていた。

「……この感じだと、たいして家から離れてはいないな……ふふ、迷子にだけはならずにすみそうだ」

 自嘲気味に笑う。どうも近所をぐるぐる回っていただけのようで、思ったより強く家とのつながりを感じる。そんな座敷童子としての感覚が、今の黒には少し疎ましかった。

「色無の言うとおりだ。色無がいいと言ったんだから、何もとがめることはなかった。それに……私は白の幸せを一番に考えるんじゃなかったのか」

 抱えた膝に顔を埋める。先刻までの白と色無の姿を思い浮かべると、また胸のあたりにもやもやした感覚が生まれた。

「力を失ってるんだから、座敷童子の務めを果たせないのは私も同じじゃないか。なんなんだ、この気持ち悪い感じは……」

 悶々と一人悩む黒の鼻先に、白い綿のようなものが降りてきた。続いていくつも落ちてくる。伸ばした手のひらの上に乗ったそれは、あっという間に溶けて消えた。

「雪か……」

 降り始めた牡丹雪はその勢いを急速に増し、あたりを徐々に白く染めていった。

「……さすがに帰った方がいいか。これ以上心配させるわけにもいかないし」

 帰宅をせかすかのような空を恨めしげに見上げる。灰色と白で染められた景色の中、一つだけ見えた赤いものが黒の気を引いた。

「紅葉か。ずいぶん大きいな……それにしても、まだ枝に残ってるとはしぶとい奴だ」

 地面に落ちればすぐに消える雪も、枝とその紅葉にはすでに積もっている。それを手にすれば家に帰る勇気が湧くような気がして、黒は背伸びをした。

「ん〜〜〜。はあ……届くわけないか……」

「よいしょ、っと。こうすれば届くだろ?」

 ベンチの上でつま先立ちするのにも疲れ、黒が諦めたそのとき、背後からひょいと抱え上げられた。

「わっ! い、色無! おどかすな、離せ、下ろせ!」

「おい、暴れるな! 落っこちるだろ! いいから早く取れよ!」

 身をよじって逃れようとする黒を、色無は懸命に抱え続ける。無言でにらみ合う二人。やがて根負けした黒は、ため息をついて紅葉に手を伸ばした。

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「……取ったぞ。下ろせ」

「駄目だ。お前裸足じゃないか。このまま帰るからな」

 そのまま色無は歩き出し、バランスを崩した黒はあわててその首にしがみついた。

 

「さっきは悪かったよ」

 帰路の中ほどで、色無はぼそりと呟いた。

「白はさ、いつも暇を持て余してるみたいだし、俺が帰ってくるとすごい嬉しそうにするから、退屈しのぎになればと思って買ってやったんだよ。でも、それは黒だって同じだよな」

「別に。私は白と違って、退屈には慣れている」

「そうやって、大人びた口調で心を隠すから、分かんなかった。ほんとごめん。気配りが足りなかったよ」

「だから違うと言ってるんだが……まあいい。そこまで言うならそういうことにしておこう。許してやるから急げ。白が大変なことになってる気がする」

「はは、それはもう、な。帰ってからのお楽しみだぜ」

 色無が走り出す。黒は首にしがみつく腕に力を込めた。胸に温かなものが湧き上がり、黒はようやく自分の気持ちの変化に気づいた。

「黒ぢゃ〜〜ん!! ごべんなざ〜〜〜い!! わーーーん!!」

 家の扉を開けたとたん、涙で顔をクシャクシャにした白が黒の胸に飛び込んできた。

 

 それからずっと泣きっぱなしな白をなだめすかし、ようやく落ち着いたころには日が暮れてかなり経っていた。

「じゃあな、暖かくして寝ろよ。おやすみ」

 泣き疲れた白がうとうとし始めたので、少し早いが黒も一緒に寝床についた。就寝の挨拶をして、色無がそっと扉を閉じた。

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「黒ちゃん……ごめんね……」

 眠い目を懸命に開き、白が何度も繰り返した謝罪を口にする。

「もういいんだ。悪いのは私だったんだから。それで……白、聞いて欲しいことがあるんだけど……」

「なに?」

「どうやら私も……色無のことが好きみたいだ」

 目を閉じてそう言う黒を、白はきょとんと見つめた。

「えーと、最初から知ってたよ?」

「……そうか」

「それでね、あの絵本、私のじゃなくて二人のものにしようよ」

「いや。あれは白が買ってもらったんだから、白が大事にすればいい。贈り物なら、私ももらった」

「え! なになに、なにもらったの!?」

「内緒だ」

 すっかり目を覚まし、ずるいずるいと声をあげる白に少しだけ優越感を感じながら、黒は一つ寝返りをうった。


 例年よりずいぶんと早く、雪の心配をしなくなったある日曜日。リビングのひだまりで三人そろってごろごろしていると電話が鳴り出した。

「はいはい、今出ますよ……はい、色無で——なんだ、母さんか」

 面倒くさそうに受話器をあげ、よそ行きの声を出した色無だったが、すぐにそのトーンは低く落ちた。

「いや、別にそういうわけじゃないけどさ……ああ、元気だよ。大丈夫だって。え? だから見合いとかはいいって……今はまだ仕事に……」

 ふだん黒や白には見せることのない、少し乱暴な様子で話す色無。だがその口元には、わずかに笑みが浮かんでいた。

「彼女? まあ、いるようないないような——うわっ!」

 色無が遠くにいるような気がしたのだろうか。白がいきなり膝の上に飛び込み、色無は素っ頓狂な悲鳴を上げた。黒もそっと背後に近づき、聞き耳を立てる。

「あ、ごめん、なんでもない……ちょっとその、ネコが膝に乗ってきたからびっくりしただけ。いや、飼ってるわけじゃなくて、野良に餌やってたらなつかれてさ」

 なんとか平静を装ってごまかし、色無は白の髪を撫でながら電話を続けた。

 

 カチャン。ゆっくり受話器を下ろすと、色無は安堵のため息をついた。

「ふう……だめだろ白、電話の邪魔しちゃ」

「えへへ、ごめんなさーい」

 色無は立ち上がって膝から白を下ろすと、見下ろすようにして叱った。白はぺろりと舌を出し、黒の背後に隠れる。

「黒も後ろで立ち聞きしてただろ。趣味悪いぞ」

「人聞きの悪いことを言うな。白があんまりはしゃぐようなら止めようと見張ってただけだ。ところで、午後に何か荷物が来るようなことを言っていたようだが」

「やっぱり聞いてたんじゃないか……」

 大きく息を吐くと、色無は壁に掛かったカレンダーに目をやった。

「実家で取れた野菜とかスーパーの見切り品とか送ってくれるんだとさ。まあ靴だの服だの買ってもらう歳でもないけど、誕生日プレゼントにしちゃありがたみがないよなあ」

 色無のいつもと変わらない調子のつぶやきに、白も黒も目を丸くした。

「色無さん、今日誕生日なの?」

「ん? ああ、うん。俺も電話で言われてやっと思い出したんだけど」

「……そんな大事な日を忘れる奴があるか」

「と言われてもなあ。ここ数年、毎年一人で過ごしてきたし、祝ってくれるのは親だけだし。普通忘れるだろ」

 自らの寂しい生活をさらりと暴露した色無だったが、すでに二人は——特に白は——聞いてはいなかった。

「大変だよ黒ちゃん! 今日はごちそう作らないと!」

「ああ。面倒だがやむを得ないな。年に一度の誕生日に、祝ってくれる異性の一人もいない家主を慰めるのも座敷童子の務めだろう」

「いや……お気遣いありがたいんですが、別にそこまでしてもらわなくても……」

「色無さんはちょっと黙ってて! どうしよう、冷蔵庫の中空っぽだよ!」

「送られてくるという荷物に期待するしかないな。何が来るか分からないのが難点だが、そこは私たちの腕で何とかしよう」

「なんで俺の誕生日なのに、俺の意見は採用されないんだろうね……」

 飾りつけの役割分担などについて活発な意見を交わす二人を尻目に、疎外感を感じた色無は再びリビングのひだまりに戻り、読みかけの本を広げた。

 

「ねえねえ、黒ちゃん」

 突発お誕生日会の計画がおおむね形になったとき、白が声を潜めて黒に耳打ちした。

「一番大事なこと忘れてたんだけど……お誕生日プレゼント、どうしよう?」

「それは……私たちに用意できるものなどないだろう。買い物はできないし、今ある荷物の中にあげられるようなものはないし」

 はじめから諦めた様子の黒に、白は眉毛をつり上げた。

「そんなのだめだよ! プレゼントがなくちゃお誕生日をお祝いしたことにならないんだから!」

「いや、そうは言っても……」

「いいこと考えた! 今からプレゼント探しに出かけようよ! 荷物はまだ来ないし、おうちの中にいたって見つかりっこないもん。色無さん、私たちちょっと遊びに行ってくるね!」

「待て、私はまだ行くとは……引っ張るな、行くから!」

 玄関へ駆け出す白と引きずられていく黒を、色無はひらひらと手を振って見送った。

 

「それで、こんなところでどうしようというんだ。公園なんかに来たって、贈り物になるようなものが見つかるわけないだろう」

 白に連れてこられた先は、以前黒が家を飛び出したときにたどり着いた公園だった。黒には少々居心地が悪く、つい否定的な言葉が口をつく。

「そんなことないよ。ときどき遊びに来てるけど、いろいろ落ちてて面白いよ。ビー玉とか、ちっちゃいけどよく弾むボールとか」

「色無がそんなの喜ぶとは思えないが……」

「あ、さっそく発見! ふやふやになったえっちな本〜。これなら色無さんも——」

「拾うんじゃない!」

 水を吸ってふやけた週刊誌を、白の手から奪い取ってくずかごに放り込む。白が不満げな声をあげたが、黒はかたくなに無視した。

「も〜、じゃあ黒ちゃんも文句ばっかり言ってないで探してよ〜」

 頬をふくらませながら、白は公園の中を走り回ってプレゼントになりそうなものを探した。黒はひとまずベンチに腰かけ、色無のことを考え、そしてすぐに気づいた。

「そもそも、あいつの欲しそうなものなんて全然分からない……それだけじゃない。考えてみれば、私は色無のことをあまり知らないんだ」

 独り言のつもりだったが、白にも聞こえたらしい。茂みにしゃがみ込んでいた白の動きが一瞬止まった。

「そういえばそうだね。色無さん忙しいから、お休みの日しかゆっくり一緒にいられないし、自分のことはあんまり話してくれないもんね」

「いつも笑ってばかりで、何を考えてるか分からないしな。何をしてやっても『嬉しいよ』『ありがとう』しか言わないし」

「失敗しても悪戯しても、全然怒らないで許してくれるし」

「失敗も悪戯も白しかしないけど」

 からかったつもりだったが、白は乗ってこなかった。真剣な表情で何かを探し続ける白の姿に、黒も皮肉な笑顔を引っ込めた。

「……色無は、まだ私たちに心を開いてはいないのかもしれないな」

「そうかもね。でも大丈夫だよ。時間はあるんだし、ゆっくりお互いを知っていけばいいんじゃないかな」

「だけど、それでは今日の贈り物が決まらない」

「プレゼントはね、自分がもらって嬉しいものをあげればいいんだよ。黒ちゃんが選んだものなら、色無さんもきっと喜んでくれると思うよ」

 知らず知らずのうちに、黒はベンチの横に立つ木を見上げた。先日、最後まで枝に残っていた紅葉をもらった木だ。

 色無に抱えられたことを思い出すと、今も胸が温かくなる。あのときの紅葉はお気に入りの小箱に入れ、風呂敷包みの中に大切にしまってあった。

「あ! あった、黒ちゃん見てみて! 見つけちゃった!」

 突然、白が大きな歓声を上げた。黒ははっと我に返り、小躍りする白のそばに駆け寄った。

「ほらほらこれ、すごいでしょ!」

「四つ葉か……もうシロツメクサが芽吹いているのか」

「このごろあったかかったもんね。まだちょっとしか生えてないけど、探せばきっとあると思ったんだ〜」

 大はしゃぎする白の姿に、黒は漠然と焦りを感じた。もう一度あの木を見上げてみる。しかし何度見直したところで、さほど高くもないその木はすべての葉を落としていた。

「……白、このあたりで、まだ紅葉が残っているところを知らないか?」

「紅葉?」

 唐突な問いに、白はぴたっと動きを止めて目を丸くした。眉根を寄せ、うーんと首をひねる。

「もう二月だし、紅葉の葉っぱなんてほとんど落ちちゃってるんじゃない? 人が入ってこないようなところなら、きれいな落ち葉があるかもしれないけど」

 白の視線の先を追うと、少し離れたところにある丘の斜面が街の汚れた空気にかすんで見えた。遠目にはそこの木々も丸裸のように見えるが、あるいは——。

「ちょっと行ってくる。白は先に帰っててくれ」

「ええ!? あそこに行くの? かなり遠いんだよ?」

「夕飯までには戻るから、色無にうまく言っておいてくれ!」

 黒は丘の方を目指して駆けだした。

 

「……ただいま」

 黒が家に戻ったのは、休日の夕食どきを一時間ほど回ったころだった。リビングから慌てた足音が二組近づいてくる。

「黒!! こんな遅くまでどこ行ってたんだ!」

「よかったー。心配したんだよ、黒ちゃ——わーーーっ、泥だらけ! どうしたの?」

「探し物をしているときに何度か転んでしまって……怪我はしてないから大丈夫だ。心配かけてすまなかった」

 感情を隠した物言いが気に触ったのか、色無の顔がみるみる朱に染まった。その腕が高く上がる。黒はびくっと身をすくませた。

 ——ぺちん。のろのろと振り下ろされた平手に頬を軽く張られ、黒はぐいっと色無の胸元に抱き寄せられた。

「だったらもっとすまなそうな顔しろ、この馬鹿。心配したに決まってるだろ……」

「……すまない」

「はい、タオル持ってきたよ。晩ご飯、全部私一人で作って大変だったんだから。早くきれいにして食べよ!」

 色無が白からタオルを受け取り、優しく顔や手足を拭ってくれる。黒は無言でされるがままになっていた。

 

 少しぎこちない雰囲気ではあったが、白が腕によりをかけたごちそうにも助けられ、ささやかな誕生パーティーはおおむね成功に終わった。

黒は二人を心配させた償いとして後片づけを買ってでて、踏み台に乗って流しで皿を洗っている。リビングに目をやると、くつろいで本を読む色無の背後に白が忍び寄っていた。

「いーろなーしさんっ!」

「おっとと。なに、どうしたの白?」

 白が首根っこにしがみついてきて、色無は落としそうになった本を慌てて支えた。

「はい、これお誕生日のプレゼント!」

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「ん? 栞か……って四つ葉のクローバー! どうしたのこれ?」

「お昼に公園で見つけたのを、色無さんがいつも使ってる栞に乗せて押し花にしてみたの。まだ作ったばっかりで湿ってるから、乾いたら使ってね」

「二人で急にどこ行ったのかと思ったら、そういうことだったのか。へえ〜、それにしてもよく見つけたなあ。ありがと、白。大切にするよ」

 首に白をぶら下げたまま、色無は器用に手を回してその頭をわしゃわしゃと撫でた。くすぐったそうにしながら意味ありげな視線を向けてくる白に、黒は気づかないふりをした。

「洗い物も終わったし、私は先に休むから……うわっ!」

「だめ〜! ほら、次は黒ちゃんの番だよ!」

 小さく告げてキッチンをあとにしようとした黒の足に白が飛びつき、逃がしはしないと抱え込んだ。勢いで転びそうになり、黒は素っ頓狂な声をあげた。

「危ないだろう! 離せ!」

「も〜、照れることないのに。ほら、こっち来て」

「照れてなんかない! 贈り物になりそうなものは見つからなかったから——」

「嘘だよ。見つかるまで黒ちゃんがおうちに帰ってくるはずないもん。でしょ?」

 図星を突かれ、黒は返答に窮した。ちらりと色無を見ると、餌を待つ子犬のように目を輝かせている。尻尾があれば間違いなくぶんぶんと振っていただろう。

 黒は大きく息を吐くと、あぐらをかいた色無の隣に膝を抱えて座り、帯の間から出したものを差し出した。

「……紅葉?」

「色無が喜びそうなものが思いつかなかったから、私の好きなものにした。この秋はあまり集められなかったけど、それは今年見つけた紅葉の中で一番——いや、二番目に綺麗なやつだ」

 色無は動かず、差し出された大きな紅葉を見つめるばかり。沈黙に耐えられず、黒の口から言葉があふれ出る。

「拾ったときはもっと綺麗だったんだけど、転んだときにひしゃげてしまった。白みたいに、栞にしようとか気の利いたことは思いつきもしなかった。時間もなかったし……こんなものをもらっても邪魔なだけかもしれないけど……」

 黒の口を人差し指でふさぎ、色無はその手でガラス細工を扱うかのように紅葉を受け取った。蛍光灯にかざし、柄を持ってくるくると回す。存分に楽しみながら、色無は黒の頭をゆっくり撫でた。

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「邪魔なことなんてあるもんか。嬉しいよ、ありがとう黒」

「……お前はいつもそればっかりだ」

「はは、そうかも。でも嘘じゃないってことは、ちゃんと二人に伝わってるんだろ? 俺が幸せだと家から力が手に入るんだからさ」

 確かに、流れ込んでくる力を感じれば、偽りを言っていないことは分かる。しかし黒は、色無の言葉が直接くれる胸の温かさを信じることにした。

「ところで、これ二番目に綺麗なやつってことだけど、一番目はどんなの? それも見せてくれよ」

「! そ、それは秘密だ!」

 大きな声に驚いた色無から目をそらす。『色無と一緒に取ったやつだ』——とは、とても言えなかった。


 真冬の寒さがぶり返し、連日のように冷たい風が吹きすさんでいたが、その日は久しぶりに暖かく穏やかな休日となった。

「白、起きろ。もう色無は買い物に出かけてしまったぞ。今日は掃除をして色無を驚かせるんじゃなかったのか」

「ん〜、あとちょっと、もうちょっとだけ……」

 頭からすっぽりと布団をかぶり、ムニャムニャと聞き取りにくい声でそう呟く白を、黒は呆れたように見下ろした。

「まったく、自堕落な座敷童子なんて聞いたことがない。だいたい、半日以上も眠る必要なんて、今の私たちにはないだろう」

「寝ないといけないから寝るんじゃなくて、寝たいから寝るんだよ〜……だってお布団がこんなに気持ちいいんだもん……」

 布団をめくろうとすると、白は内側からしがみついて必死に抵抗する。諦めた黒は頭巾で髪をまとめ、ほうきとちりとりを手に取ると、一人リビングの掃除に向かった。

 

「ただいまー」

「おかえり」

 ちょうど掃除が一段落したところで帰ってきた色無を、黒は玄関で出迎えた。軽そうな方の買い物袋を渡され、一緒に台所へ向かう。

「今日は暖かくて過ごしやすいな」

「ほんとだよ。たまの休みに雨降ったり寒くなったりすると買い物に行く気も失せるし、助かった——あれ?」

 リビングに入った色無が怪訝な顔をする。内心、いつ気づくかと楽しみにしていた黒だったが、知らん顔をしてその後に続いた。

「どうした?」

「なんか部屋が片づいて——うわっ!」

「色無さん、おかえりなさーい!」

 膝の裏に白のタックルをくらい、色無は大きくのけぞった。黒も驚いて目を丸くする。

「さっき部屋をのぞいたときは、まだ寝間着を着て寝てたのに……なんて早変わりだ」

 なんとか体勢を立て直し、安堵の息をついた色無は白を引きはがす。

「白、急に後ろから飛びついたらダメだって何度も言ってるだろ。それで、リビングがずいぶん綺麗になってるみたいだけど、二人で掃除してくれたのか?」

「うん、そうだよ!」

「な……しれっと大嘘つくんじゃない! 白はぐうぐう寝てただけだろう!」

 一瞬の躊躇もなく首を縦に振った白に、さすがの黒も髪を逆立てて怒りをあらわにする。肩をすくめた白は色無の背後に隠れ、困り笑いを浮かべながら弁解した。

「あ、あとちょっとしたら起きてきて手伝うつもりだったんだよ、ホントだよ? それに、わたしたちの部屋はちょっぴりだけど片づけたし……」

「何をしたんだ?」

「お布団を押入にしまったよ」

「それは当たり前だ!」

 がおーっと牙をむいて詰め寄る黒に、さっと身をかわして逃げる白。ぐるぐると自分の周りを回る二人の頭を押さえつけ、色無は仲裁に入った。

「まあいいじゃないか。ありがとうな、黒。おかげで見違えるほど綺麗になったよ。片づけはともかく、掃除なんて何ヶ月ぶりか分からないくらいだからな」

「いや、それはさすがに改めた方がいいぞ……」

「じゃあついでに、台所と二人の部屋もちょっと念入りに掃除するか。今度は白にも手伝ってもらってさ。それなら黒も文句ないだろ?」

「さんせーい! わたし頑張るよ!」

「……ちゃんとやらないと、今度こそ本当に怒るぞ」

 掃除道具を白に手渡すと、黒はきゅっと頭巾を締め直した。

 

「よし、こんなもんだろ。黒、白、そろそろ切り上げておやつにしよう」

 ちょっと念入りに、とは言ったものの、そこは一人暮らしが長かった男のやること。三十分もせずに掃除を終え、色無は二人に声をかけた。

「はーい。は〜、一生懸命お掃除したからくたびれちゃった」

「はたきを振り回してはしゃいでただけじゃないか。いいか白、掃除というのは上から下、はたき、ほうき、ぞうきんの順で……」

「もうお掃除のお話はいいよ〜。色無さん、早くおやつ〜」

「はいはい」

 チン! と古風な音を響かせた電子レンジを色無が開けると、中から甘い匂いが漂った。

「はい、おまたせ。さっき出かけたときに買ってきた鯛焼きだよ。熱いから気をつけ——」

「いただきまーす! はぐっ——あちゅーーーーい!!!」

「人の話は最後まで聞け!」

 慌てて色無がコップに水をついでやる。それを勢いよく飲む白の頬についた餡を、黒は眉根を寄せながら拭ってやった。

「ぷはっ! あー熱かった……ふー、ふー、はぐ……でもおいしいね!」

 さすがに懲りたのか、二口目からは充分に冷ましてから食べる。心配そうに色無と黒が見つめる中、白はあっという間に食べ終わった。

「けぷっ。ごちそうさま〜」

 満足げな言葉とは裏腹に、白は黒の手元にある鯛焼きをじーっと見つめた。慌てて黒が引き寄せて隠すと、今度は色無の方に視線を移す。

「……えーっと、よかったら俺の分も食べる?」

「いいの? わーい!」

 色無がすっと自分の鯛焼きを差し出す。それに手を伸ばしかけたところで、急にがくっと白の全身から力が抜けた。

「? 白、どうした?」

「……ぐう……」

 不審に思って立ち上がりかけた色無を手で制し、黒はそっと白の顔をのぞき込んだ。

「……寝てる」

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「は? 寝てる? いや、だって今の今まで起きてただろ? そんなゼンマイの切れたオモチャじゃあるまいし……」

「ほら、白起きろ。色無が鯛焼きをくれたぞ。食べないのか?」

「んぅ……食べるぅ……」

 黒が方を軽く揺すると、重いまぶたを必死に開けた白がゆっくりと手を伸ばし——そのままコタツの天板の上に突っ伏した。色無が間一髪で鯛焼きを救出する。

「うおっと。しかし、ほんとに寝てるな……俺が買い物から帰ってくるまでも寝てたんだろ? なんか猫か赤ん坊みたいだな」

「掃除のあいだ、ずっと大騒ぎしていたから疲れたんだろう。鯛焼きは色無が食べろ。私は白を布団に寝かせてくる」

「了解。それにしても……ふふ」

 起こさないようにそっと白を背負った黒は、色無の意味ありげな含み笑いにいぶかしげな顔をした。

「なんだ? 気持ちの悪い笑い方だな」

「いや、別に。ただ、白が寝てるときだけは黒も優しい顔をするんだなーっと思ってな」

「なっ……よけいなお世話だ!」

 声を荒げかけた黒を、色無がしーっと口に指を当ててとがめる。黒は行き場を失った声をぐっと飲み込むと、色無を一にらみしてから部屋へと向かった。

 

 むずがる白を寝間着に着替えさせ、布団に押し込んでリビングに戻ると、すでに鯛焼きを食べ終えた色無は縁側に出て本を読んでいた。

「おつかれさん。黒もこっちこいよ。お日様が気持ちいいぞ」

 少し冷めてしまった鯛焼きを手にし、黒は言われるままに色無の隣に座る。

「日の光の下で本を読むと目が悪くなるそうだぞ」

「まあな。でも今日はそんなにぎらぎら照りつけてるわけじゃないし、ちょっとなら大丈夫だろ。こんないい日にひなたぼっこしない方がもったいない」

「そうか」

「そうそう」

 使っていた膝掛けの半分を、色無が黒の足に掛ける。見上げるとすでに読書に戻っていたので、黒は特に礼も言わず、黙々と鯛焼きを食べた。

 見上げた空は青く、雲はゆっくりと流れ、ときおり小鳥が視界をかすめていく。黒は飽きもせず、それをずっと眺めていた。

 

 とさっ。

「ん? 黒?」

 不意にお腹のあたりに重さを感じ、色無は視線を下に向ける。そこには黒が覆い被さるようにして頭を埋めていた。耳を澄ますと、穏やかな寝息が聞こえる。

「……白がはしゃぎすぎで疲れたんなら、黒だって面倒見過ぎで疲れるよな。それにしてもかわいい寝顔だな……初めて見るかな? 前は酔っぱらってたからなあ」

 髪を撫でると嫌そうにむずがる。色無は小さく笑い、ひとしきりその穏やかな寝顔を愛でると、黒に膝掛けを掛けてやって読書に戻った。

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「いっつも黒ちゃんばっかり色無さんのそばで寝て、ずるい……」

「だから何度も言ってるだろう! たまたまそうなっただけでわざとじゃない!」

「でもさ〜……」

 夕食後、台所で洗い物を片づけながら二人は言い争っていた。三時ごろに目を覚まし、色無に抱えられるようにして眠る黒を見つけた白は、ずっとこの調子でぶつぶつ言っている。

「色無さん、今日は一緒のお布団で寝ても……あれ?」

「家主と一緒に寝る座敷童子がどこにいる……どうした?」

 白が色無の正面に回り、楽しそうにその顔をのぞき込んでいる。退屈なバラエティ番組を移すテレビをそのままに、色無はコタツに突っ伏して眠っていた。

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「寝てるのか。おい色無、起きろ。コタツで寝ると風邪を引くぞ。風呂にも入らないと——」

 起こそうとする黒を白が止めた。

「このまま寝かせてあげようよ。久しぶりに明日も続けておやすみだって言ってたし。わたしたちじゃ色無さんを運べないから、お布団をここに持ってこよう?」

「……まあそうするか。しかしなんというか……間の抜けた寝顔だな」

「そんなことないよー。かわいいじゃない」

 布団を運ぶと言いながら、白はいつまでも色無の寝顔を見つめていた。

「いつまでも見てたって、そんな楽しいものでもないだろう」

「楽しいよ。ううん、楽しいって言うか、嬉しい、かな」

「嬉しい?」

「だってわたしに寝顔見せてくれるの初めてだもん。きっと、ようやく気を許してくれたんだよ。まあ黒ちゃんは、もう何回も一緒に寝てるから実感ないかもしれないけど〜」

「何回もなんて寝てない! だからそれは……」

 言いかけて、黒は口をつぐんだ。今日は色無の隣で空を見ていたら気持ちが安らいで、気づいたら眠っていた。自分の方こそ、そんな無防備な姿をさらしたのは初めてではなかったか。

「今日はみんなで、またちょっとずつ近づけたのかもしれないね」

「……そうかもしれないな」

「今日はなんにもなかったけど、いい日だったねー」

「なんにもなかった?」

 黒にしてみれば、ずいぶんいろいろなことがあったような気もした。だがこの先ずっと、三人で今日みたいな日を繰り返していくのかもしれない。

「まあ、いい日だったのは確かだな」

 とりあえずそこだけ同意して、黒は白と一緒に色無の布団を取りに行った。


 それがただの偶然だったのか、それとも運命みたいなものだったのか、いくら考えても色無には分からなかった。

「もしかしたら、大きな転機となった偶然を、後付けで運命と呼ぶのだろうか……なんてな」

 芝居がかった台詞を呟き、変わり映えのしない車窓の風景を一瞥する。色無は固い電車の座席で過ごす数時間を早送りにしようと、そっと目を閉じた。

 

 確かなのは、色無たちには夕食時にテレビを見る習慣がなかったということで、その日誰もテレビを消そうとしなかったのにも、間違いなく何の理由もなかった。

『——ここで特集です。今、全国の児童養護施設が財政難に苦しんでいます。そういった施設の現状を取材しました——』

「あれ? ここは……」

 VTRが流され、地方にある施設のひとつが紹介されると、色無の箸が止まった。

「知っている場所なのか?」

「死んだじいさんが住んでたところの隣町だ。田舎だったから大きな買い物しようとするとこっちまで出なきゃならなくて、帰省したときに何度か連れてかれた覚えがある」

 施設の看板のズームアップから画面が切り替わり、手狭な広場で大騒ぎする子供たちを背景に、ずいぶん若い女性が園長として紹介された。

「この子たち、みんなお父さんやお母さんがいないの?」

「一昔前ならそうだったかもしれないけど、今はいろんな理由で保護される子供がいるみたいだな」

 普段の色無なら、もう興味を失っていただろう。子供たちに同情を覚えないわけではないが、かといって何か行動を起こすほど聖人でもない。

せいぜい、次の日まで覚えていたらお釣りをコンビニで募金するくらいだ。

「……?」

 しかし色無はテレビから目を離せなかった。何か違和感を感じる。子供たちの輪に隙間がある。鬼がいないのに鬼ごっこをしている。泣いていた子が不意に笑い出す。

 そして、園長に向けられたマイクがかすかに拾った子供の声に、色無は心臓を打ち抜かれた。

「わっ! なんだ色無、食事中だぞ!」

 いきなり椅子を蹴飛ばしてテレビにかぶりついた色無に白は目を丸くし、黒は眉をひそめて諫めた。

「い、今……この子たち、誰もいないところに向かって『むらさきちゃん』って言わなかったか!?」

「え? ええと……どうだろう? 黒ちゃんは聞こえた?」

「分からないな。あまり真剣に見ていたわけじゃないし」

 顔を見合わせ、二人は曖昧な返事をする。

「言った……確かに『むらさきちゃん』って言ってた……」

 VTRが終わり、コメンテーターたちが無機質なグラフを見ながら優等生的な発言を交わしているのをにらみつけながら、色無は痛いほど拳を握りしめた。

 

 それから一ヶ月。サービス残業を増やし、同僚に頭を下げて回り、上司にさんざん嫌みを言われながら取った有休を利用して、色無はその施設を訪ねていた。

「『黄緑学園』……ここか」

 駅前の交番で聞いた道順をたどり、何度か迷いながらもたどり着いた色無だったが、ここまで来ておきながら最後の一歩を踏み出せずにいた。

「……ちょっと、裏から様子を見させてもらうか」

 閉じられた粗末な門にかけた手を離し、塀に沿って歩き出す。施設の規模は民間の幼稚園程度で、たぶん子供の数は二十人がせいぜいといったところか。

今の時間は学校に通っている子がほとんどなのだろう。広場で遊んでいるのは小さな子ばかりで、そこには色無が探す“彼女”の姿はなかった。

 田舎町とはいえ、通りにはそれなりに往来があり、誰か来るたびに色無は施設から目をそらして無関心を装う。

「別にやましいことしてるわけじゃないが、じゃあ何してるんだと聞かれても答えられないしな……」

 十分とかからず一周し、再び門の前に立つ。門に手をかけ、色無は再び固まった。

「やっぱ正面から入るのは無理か……理由がないしなあ。見つかったら通報されるかもしれんが、しばらく外から観察するしかないか」

 小さく呟き、ため息とともにきびすを返そうとした矢先だった。

「あの〜……」

「うわっ!!」

 不意に背後から声をかけられ、色無は文字通り飛び上がった。門に背中を預け、何とかしりもちをつかずに踏みとどまる。同じくらいに驚いた顔をした女性が、そんな色無を見つめていた。

「すみません、そんなに驚かれるとは思わなかったものですから」

「あ、いえ、その、とんでもないです。こちらこそすみません、大きな声を出しちゃって」

「それで……うちの学園に、何かご用ですか?」

 落ち着いて見直した色無は、その女性がテレビで園長を名乗っていたことを思い出した。眼鏡の奥の瞳に不審の色はまだないが、返事をしなければそれも長くは保たないだろう。

「あ〜、えーっとですね、先日テレビでこちらの施設について伺いまして」

「ああ、あの番組ですね。また取材ですか? もうそんなにお話しできることもないんですけど……」

「いやいや違います、テレビ局の者じゃないんです! ただの視聴者なんですけど、あの番組を見てですね、そのう……感銘を受けたというか、気になったというか……」

「ああ、ボランティアの方ですね。助かります。お金も人手もいつも足りないものですから、大歓迎ですよ。さあ、どうぞ中へ」

「あ、いや、そういうのともちょっと違うんですけど……」

 重量感のあるレジ袋を四つも下げたまま手を打ち合わせると、園長はにこやかに色無の手を取り、続きも聞かずに園の中へと引っ張り込んだ。

(まあ中に入れてもらえるなら願ったり叶ったりだが……このご時世にちょっと不用心すぎやしないか、この人?)

 ぐいぐいと半ば引きずられながら玄関にたどり着く。両手のふさがった園長の代わりに扉を開けてやると、彼女は微笑んで会釈を返し、中に入った。

「ただいま〜。みんないい子にしてたー?」

 思いのほか大きな声で帰宅を告げると、建物のあちこちから、そして広場からもいっせいに子供たちが駆け寄ってきた。

「お母さん、お帰りなさい!」

「いい子にしてたよ! ボクいい子にしてた!」

「お母さん、おやつ食べていい?」

「お母さ〜ん、シュウ君がマミのお人形壊しちゃった〜!」

 口々に話す子供たちに圧倒される。園長は一人一人の頭を撫でて、それぞれに返事をする。この一瞬だけで、どれだけ彼女が子供たちに愛されているかが分かった。

 そんな子供たちの『誰だこいつ?』といった正直な眼差しにいたたまれなくなり、色無は困り笑いを浮かべて視線をさまよわせ——呼吸を止めた。

「あれー、色無じゃん! すっごい久しぶりだねー! 私のこと覚えてる? 紫だよ!」

 黒によく似た和服姿で、黒や白より頭一つ分小さくて、元気で生意気で、色無が子供のころに別れたきりになっていた座敷童子の少女——

紫は最後に会ったときと寸分変わらぬ姿のまま、まるで偶然に街で友達と再会したかのような気軽さで、色無にぶんぶんと手を振った。

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 騒いでいた子供たちがいっせいに口をつぐむ。園長は目を見開き、息をのんで色無を見つめた。

「あなた……紫ちゃんが見えるんですか!?」

「あっ! お母さん、ダメだよ、ナイショだよ!」

「そうだよ、紫ちゃんのことはナイショなの!」

 そんな園長の問いも、子供たちの非難の声も、色無には届かなかった。ふらふらと引き寄せられるかのように、ゆっくりと紫に近づく。

「本当に……本当に紫なのか?」

「何よ、そう言ったでしょ? こんなかわいい子の顔、もう忘れちゃったの? まあしょうがないか。色無は昔っから物覚えが悪かったし、体も弱くて泣き虫で——」

「体が弱かったのと泣き虫は関係ねーだろ! あと自分でかわいいとか言うな、ずうずうしい!」

「むかっ! じゃあこの紫ちゃんがかわいくないとでも? 苦手なピーマンを代わりに食べてあげたり、夜中にトイレについて行ってあげたりした恩も忘れてそんなこと言っていいの?」

「うわー! さらっと人の黒歴史を暴露してんじゃねー!! まったく、ちんちくりんのくせに口が悪いところも全然変わってねーな!」

「ちんちくりんとか言うな! 昔はあんたの方がちっちゃかったくせに!」

 ぶんぶんと腕を振り回す紫の頭を、色無はがしっとわしづかみにして押さえつける。呆気にとられている園長と子供たちを尻目に、二人は延々と言い争いを続けた。

「はあ、はあ……で、結局何しに来たのよ? なんか遠くから来たみたいだけど、涙の再会でも期待してたの? 悪いけど、私にそういうの求めないでよね」

 疲れ果てた紫が、腕を下ろして問いかけた。

「はあ、はあ……ほんと、期待外れもいいとこだよ。二十年以上前に別れたっきりで、ずっと忘れられなくて、やっと会えたってのに、なんだよこれ。感動のかけらもねえよ」

 同じく荒い息をつく色無も、紫の頭から手を離して答える。

「だからそういうのは私には似合わな——ちょ、何よ急に。どうしたの?」

 腰に手を当てて見上げる紫を、色無はひざまずいてきつく抱きしめた。

「でもまあ、もうどうでもいいや……生きていてくれたなら、元気でいてくれたなら……もうそれだけでいい……」

「……苦しいでしょ、ばーか」

 肩を濡らす色無の頭を、紫も優しく抱きかかえた。

 

「テレビをご覧になったということですので、もうご存じとは思いますが、改めまして。私が園長の黄緑です」

「あ、どうも。私は色無と申します。その、すみません……ここにはボランティアをしに来たわけじゃなくて、紫を探しに来たんです」

 園長——黄緑は柔らかく微笑むと、煎れたお茶を差し出しながら色無の謝罪を受け止めた。

「いいんですよ、私が勝手に勘違いしたんですから。普段からぼんやりしすぎだって、子供たちや紫ちゃんにも怒られてばっかりなんです」

「ほんと、もうちょっとしっかりしてもらいたいよね。素性もしっかり確かめずにこんな怪しい奴を中に入れるなんて考えられないよ」

「怪しい奴で悪かったな……それにしても驚きました。死んだじいちゃん以外で座敷童子が見える人に会ったの、初めてですよ」

「ふふ、私も亡くなった両親以外で紫ちゃんが見える大人に初めて会いました」

 すると、黄緑の両親が紫をこの学園に連れてきたのだろうか。詳しい話を聞こうともの問いたげな視線を向けると、紫はぷいとそっぽを向いた。

「せっかく来てくれたのに悪いんだけどさ、部屋の中でじっとしてるのって苦手なんだよね。ちょっと外でみんなと遊んでくる!」

「あ、おいちょっと待てよ! いろいろ聞きたいことが……」

 色無の制止に耳を貸さず、紫は園長室のドアを勢いよく開けた。廊下で聞き耳を立てていた子供たちが慌てて走り去る。

「こらーっ、そういうことする悪い子たちはお仕置きだーっ!」

「きゃーっ!」

 あっという間に鬼ごっこが始まり、紫と子供たちは外へ駆けだしていった。

「なんだあいつ。別れてからここに来るまでのことを聞こうと思ったのに……」

「……たぶん、あんまり話したくないんだと思います。ここへ来たときは本当に消える寸前でしたし、両親が過労で倒れたことにも責任を感じてるみたいですから」

 振り返ると、黄緑が少し悲しげな笑みを浮かべてうつむいていた。もしかしたら、彼女にとってもつらい思い出なのかもしれない。だが色無は聞かずにはいられなかった。

「ご両親が紫をここに連れてきたんですか?」

「……ええ。父が門の前に倒れている紫ちゃんを見つけたんです。抱えている父の腕が透けて見えるくらいで……『契約』があと少しでも遅れていたら間に合わなかったかもしれません」

 消えかかっていた白のことを思い出す。きっとあのときもぎりぎりだったのだろう。色無は今さらながらそのことを実感し、心臓がきゅっと縮み上がった。

「それからずっと、ここで身よりのない子供たちと一緒に暮らしてきたんです。けれど二年前に、慢性的に苦しい施設の運営がたたって、父も母も次々と倒れて……」

 湯飲みを持つ黄緑の手は、わずかに震えていた。

「葬儀を終えて、勤め先を退職して私が父の跡を継ぐことにしたんですけど……久しぶりに会った紫ちゃんは抜け殻みたいになってました。

『自分に力が残っていれば、二人とも死なずにすんだのに』って自分を責めて。ようやく今の明るさを取り戻したのは、ここ一年くらいのことなんですよ」

「そうでしたか……」

 立ち上がって窓の外に目をやると、紫たちは鬼ごっこからかくれんぼに移っていた。その様子からは、黄緑の話にあった姿は想像もつかない。

「寄付や助成金で何とかやりくりしてますけど、やっぱり運営は今も苦しくて。何度もくじけそうになりましたけど、そのたびに紫ちゃんが励ましたり、叱ったりしてくれて。

 今の私があるのも、この学園で子供たちが笑っていられるのも、みんな紫ちゃんのおかげなんです。あの子には本当に感謝しています」

 隣に立った黄緑は、紫と子供たちを愛おしそうに眺めた。

「あいつは落ち込んだり尻込みしたりしてる人を見ると、背中を蹴飛ばさずにはいられないだけなんですけどね。ガキのころ、それで何度煮え湯を飲まされたことか」

 色無が大げさにため息をついてみせると、黄緑は口元を押さえて吹き出した。

「ふふふ、またそんなこと言って。紫ちゃんに言いつけちゃいますよ」

「それだけはどうかご勘弁を……」

 二人で顔を見合わせ、ひとしきり笑いあったあと、不意に黄緑が尋ねた。

「それで、紫ちゃんを捜し当てて……色無さんは、これからどうするおつもりですか?」

「……え?」

 色無は返答に詰まり、黄緑を見つめた。出会ったときから絶えたことのない微笑みの中に、質問の真意は見えない。何より、色無の中にその答えがまだ用意されていなかった。

「そう、ですね……」

 自分は紫に再会して、何がしたかったのだろう。過ぎ去った二十数年を巻き戻し、別れの瞬間を思い出して——色無はようやく本当の気持ちに思い当たった。

「これは、紫には内緒にしておいて欲しいんですけど……あいつ、俺の初恋の相手なんですよ」

「あら……あら、そうなんですか。まあ、やだ……」

「いや、昔の話ですから、そんな赤くなられるとこっちが恥ずかしいんですけど。勘弁して下さいよ……」

 いつまでも頬に両手を当てておたおたしている黄緑を直視できず、色無も顔に血を上らせて目をそらした。

「ほんとにガキのころの話なんで、それが恋だなんて気づかないうちにいなくなっちゃったもんですから……ひょっとしたら俺は、その気持ちにケリをつけに来たのかもしれませんね」

 もう一度窓の外を見ると、紫がこちらに向かって手を振っている。色無も笑って大きく手を振り返した。

 

「もう帰っちゃうの? 泊まってけばいいのに。黄緑も許してくれるでしょ?」

「そうですよ。一晩ゆっくり紫ちゃんとお話ししていってはどうですか?」

 広場に出て別れを告げた色無に二人は驚き、口々に引き止めた。

「週明けから仕事もありますし、早めに帰って体を休めますよ」

「ちぇっ、久しぶりに会ったのにつまんないの」

 ふてくされたように背中を向ける紫に、色無はからかいの声をかける。

「お、さっきまでとはうってかわってしおらしいな。ほんとは俺とまた会えてすごい嬉しかったとか?」

「べ、別にそんなことないよ! 色無のことなんか今日まで一度も思い出したことなかったもんね!」

「まあまあ、照れるな照れるな」

「照れてなーい!!」

 また飛びかかってきた紫の頭を押さえつけ、色無はごく軽い口調で誘いの言葉を口にした。

「じゃあさ……俺と一緒に来るか?」

「え?」

 黄緑と紫が、同時に驚きの声をあげる。色無は笑みを貼りつけたまま紫を見つめたが、その目には真剣な光が宿っていた。

「……やめとく。今はここがあたしの家だから」

 長い、長い沈黙のあと、紫はゆっくりと首を横に振った。

「……そっか。それもそうだな。俺もあそこで見てる子供たちに嫌われたくないし」

 色無が施設の方に目をやると、窓やドアの影から様子をうかがっていた子供たちがさっと身を隠した。

「残念。黄緑さん、俺ふられちゃいましたよ」

「色無さん……」

「そうそう、ふったの。もっといい男になってたら考えたけどねー。それに、もう二人も座敷童子がいる掟破りな家には行けないよ」

「え?」

 今度は色無が驚く番だった。

「分かるのか?」

「腐っても妖怪だからね。色無に残ってる気配で何となく分かるよ。どんな子かまでは分かんないけどね」

「……一人は元気いっぱいないたずらっ子で、もう一人は大人びてるけど、ときどき子供っぽいこともある子だよ。どっちも紫よりかわいいぞ」

「うわ、むかつく! しかも二人とも女の子!? むー、こうなったら……えいっ!」

「おっと!」

 不意に足下にしがみつかれ、色無は危うくバランスを崩しそうになる。

「あたしの気配もいっぱいつけてやる。やきもち焼かせてやるんだから」

「紫……」

 膝に顔を埋め、ひび割れた声で呟く紫の髪を、色無は優しくなでた。

「そうだ、黄緑さん。これを受け取ってもらえますか。寄付ってことで」

 思い出したように色無は財布を取り出し、札入れの中身を無造作に取って差し出した。黄緑は少し驚いた顔をしたが、ほとんどためらことなく受け取った。

「遠慮できる台所事情でもないので、ありがたくいただきます。子供たちと紫ちゃんのために、大切に使わせてもらいますね」

「そうしてください。薄給だし、家のローンもあるんで毎月ってわけにはいきませんけど、余裕のあるときやボーナス出たときにはまた手助けさせてもらいます」

「ありがとうございます。でも無理なさらないで下さいね。あなたと……あなたの家の子たちの幸せが第一ですから」

「はい……じゃあな、紫。そろそろ行くよ。また遊びに来るからな」

 ゆっくりと膝から引きはがすと、紫は顔を伏せたまま目元を拭い、そのまま無言で施設の中に駆け込んだ。

「ちょっと、紫ちゃん!」

「黄緑さん、いいんですよ。それじゃ失礼します」

 深く一礼し、駅に向かう方向へ足を踏み出す。角を曲がる直前、背後から大きな声が届いた。

「色無ー!! またねー!!」

 色無は振り返らず、片手をあげて軽く振った。

 

「おかえりなさーい!」

「おかえり、色無。遅かったな。風呂は沸かしてあるが、食事は外ですませてくるかもしれないと思って用意してないぞ」

 帰りの旅を終え、夜遅くに戻った家のドアを開けたとたんに白と黒の歓待を受け、色無は目を丸くした。

「……ただいま。えーと、風呂はありがたいし、飯は確かに外で食ってきたけど……二人とも、ずっと玄関で待ってたのか?」

「いいや。お前が家の近くまで帰ってくれば、私たちには何となく分かる。今の私たちは、そのくらいには縁が深くなったということだ」

「……そっか。あ、これおみやげ」

「わーい!」

 飛び込んできた白に包みを渡すと、二人は連れだって自分たちの部屋に足を向ける。質問攻めを覚悟していた色無はちょっと拍子抜けした。

「行き先も告げずに家を出たのに、どこに行ってきたのか、とか何をしてきたのか、とか……何も聞かないんだな」

「何か話したいのか?」

「色無さんがお話ししたいなら聞いてあげる」

 二人が振り返った。紫の言うことが本当なら、きっと白と黒にも紫の気配が伝わっているだろう。それでも自分が話すのを待ってくれている。色無は二人の心遣いに感謝した。

「そうだな……ああ、話したいことがたくさんあるよ。お茶を用意してくれるか? 長い話になりそうだ」

「わーい、夜更かし夜更かし!」

「分かった。なら渋めのお茶を入れるとしよう」

 どこから話そうか、などと考えながら、色無は二人と一緒にリビングに入り、明かりをつけた。我が家に帰ってきた、という感じがした。


「失礼しまーす。量が多くて申しわけないんだけど、この領収書を経費で落として——」

「水さん、あなたこれどういうつもりなの! こんな経費が通るわけないでしょう! こういう無理を断るのも経理部の仕事だって何度言ったら分かるの!」

 訪問予定を相手の都合でドタキャンされ、ぽっかり空いた時間を利用してたまった領収書を整理しようと経理部を訪れた色無を、ヒステリックな金切り声が出迎えた。

「あっ、色無さん! お仕事ご苦労様ですー。すぐ処理しますから待ってて下さいね」

「ちょっと、あんたこのあいだも色無さんの経費処理したでしょ! 抜け駆け禁止だからね、今度はあたしの番よ!」

「あの、今日新しい香水つけてきたんですけど、ちょっと香りを確かめてもらえません?」

「仕事中に露骨なフェロモン攻撃してんじゃないわよ!」

 営業部で毎月優秀な成績を残し、ローンまみれながら一戸建てまで持っている色無は、腰かけ仕事をしている一部の女性社員たちにとっては格好の獲物だった。

「いや、経費処理さえしてもらえれば誰がやってくれたっていいんだけど」

 仕事を放り出して群がってくる彼女たちに内心うんざりする。これが嫌で、色無はつい領収書をため込みがちだった。

「ところで、今日は一段と盛り上がっちゃってるね、アレ」

 注意を逸らそうと、色無は大げさなほどに声を潜め、怒鳴り散らしている主任の方を意味ありげに指さした。

「あ〜、今日は朝から機嫌悪かったんですよねー、アレ。なんか出勤前に姑さんと一悶着あったらしいんですけど、それで私たちが八つ当たりされるんだからたまらないですよ」

「ほんとほんと。と言っても、八つ当たりされるのは私たちじゃなくて、十中八九水ちゃんなんですけどね」

 クスクスと忍び笑いを漏らす彼女たちからは、うつむいて主任の罵声を一心に浴びている水に同情する様子は微塵も感じられなかった。

「彼女——水さんが主任さんに嫌われてるってこと?」

「まあ、そんな感じですね。仕事ができないわけじゃないんですけど、なんか雰囲気暗いし、いっつもおどおどした感じではっきりものを言わないしで、主任の癇に障るみたいです」

「今回は水ちゃんも悪いんですけどねー。営業二課の鼻毛タヌキが持ってきたスナックの領収書を受け取っちゃったんだから」

 突然自分の所属する部署が出てきて、色無は目を丸くした。

「鼻毛タヌキ? ……もしかして、うちの課長のこと?」

「あっ! えーと、まあそうなんですけど……告げ口しないで下さいよ? 経理部じゃみんなそう呼んでるんですから」

「勝手に巻き込まないでよ……まあその鼻毛——二課長がですね、水ちゃんが気弱なのをいいことに、しょっちゅう飲み食いの領収書を経費で落としに来るんですよ」

「その上、髪とか肩とかベタベタ触ってくるし、ホント最悪なんですから! 色無さんからもひとこと言ってやって下さい!」

 だんだんヒートアップして声を抑えるのを忘れた彼女たちの上に、主任の雷が落ちた。

「あなたたち! 今は就業時間中でしょう! おしゃべりは昼休みにしなさい! あなたも用がすんだならすぐに部署に戻りなさい!」

「あ、はい、すみません……えっと、それじゃこの領収書を……」

「なんですかこの量は! もっとこまめに来てもらわないと困ります!」

「はあ……すみません。以後気をつけます」

「処理に時間がかかりますから、あとで部署に届けさせます。水さん、あなたはその領収書、今日中に突き返してきなさい。いいですね!」

 ひとまとめにされ、色無が反射的に水の方に目をやると、彼女も色無を見ていた。苦笑して肩をすくめてみせると、すぐにふいと目を逸らしてしまった。

「……それじゃ、失礼します」

 立ち去り際にもう一度経理部を一瞥する。のろのろと席に戻った女の子たちのおしゃべりに加わらず、黙々とPCに数値を打ち込む水の姿がひときわ浮いて見えた。

 

「色無、午後のアポもキャンセルされたって? 今日はいいとこなしだな、おい!」

「うるせーな、嬉しそうに言うな。たまにはそんな日もあるさ。半分休日みたいなもんだと思って、のんびり書類整理でもするよ」

「よし、色無君の営業成績低迷を祈願して、今日は俺が昼飯おごってやるよ。社食でだがな」

「いちいち嫌味な奴だな……まあ飯は食いに行くけど、別におごってもらういわれは——」

 色無が同僚と小突き合いながら課のドアを開けると、胸の前で領収書を握りしめた水が固まっていた。

「あ、君は——」

「……っ!」

 色無が声をかける間もなく、目があった途端に水は廊下の先へと駆けていってしまった。

「……悪い、ちょっと用事ができたから、飯は一人で行ってくれ」

「え? おい待てよ。さっき言ったことでムカついてんのか? あれはほんの冗談——」

「そうじゃねーって! とにかくおごりはまた今度、どっか外のうまい定食屋で頼むよ! じゃ!」

 呆然と立ちつくす同僚を残し、色無は水のあとを追って走り出した。

 

「……やっぱり、今さら突き返すなんてできない……どうしよう、これ……私が立て替えて、返金してもらったって報告しちゃおうかな……」

 何度目になるか分からないため息をつき、水はビルの影にしゃがみ込んで手の中の領収書を見つめた。

「私が最初にきっぱりお断りしなかったせいだもん……仕方がないよね……」

 腹を決め、財布を取りに行こうと立ち上がりかけたとき、背後からにゅっと伸びた腕が水の手から領収書を奪った。

「きゃっ! い、色無さん!?」

「おっと、おどかしちゃったか。ごめん。でも立て替えなんてダメだよ、君も課長も癖になるからね。これは俺から課長に渡しとくよ。上の方から監査があったってことにすれば、課長も引き下がるさ」

「え……で、でも、色無さんに迷惑をかけるわけには……」

「元はといえばうちの課長が悪いんだし。それに同期のよしみ、困ったときはお互い様ってね」

「あ……」

 何気ない色無の言葉に、なぜか水の目は大きく見開かれた。

「? どうかした?」

「いえ……覚えててくれたんですね。私の名前も……同期だってことも」

「そりゃあ覚えてるでしょ。配属先は違うけど入社式は一緒だったし、たまに営業と経理で飲みに行くこともあるし。水ちゃんだって俺の名前覚えてただろ?」

 当然と言わんばかりの色無に、水は悲しそうな笑顔を浮かべて首を横に振った。

「色無さんは有名ですから。お仕事もできるし、明るくて誰とでも仲良くできて。私は仕事も人並み、人づきあいは苦手で……色無さんとは正反対ですから」

 窓枠に身を預ける色無からは、その下でしゃがみ込んでいる水の表情はよく見えない。しかしその声からは強い劣等感が伝わってきた。

「……水ちゃんさ、入社式のあとの飲み会で言ってたよね。『花を育てるのが好きだ。庭の広い家に住んで、一面に花を咲かせるのが夢だ』って」

「……そんなことまで覚えててくれたんですか」

「花を育てるのってけっこう難しいと思うんだよね。俺、小学生のころは毎年朝顔枯らしてたし。だから、そんな難しいことを好きだって言える水ちゃんはすごいと思う」

 色無は水に視線を向けず、遠くを見ながら言葉を続ける。水もうつむいた顔を上げようとはしなかった。

「だからその、水ちゃんはもっと自分に自信を持っていいんじゃないかな。だって庭一面に花咲かせたりしたら、草むしりとか毛虫取りとか大変じゃん? それに比べれば人間なんて簡単なもんだよ」

 色無は話を締めくくった。水は変わらずうつむいたまま、何も言おうとしない。間を持たせようと色無が再び口を開いたとき、水の身体が小刻みに震えだした。

「……ぷっ、くくく、……ご、ごめんなさい……でも、あは、あはははは!!」

「えーっと……やっぱり、ちょっと無理があった? 話の流れ的に」

「ちょっとっていうか、かなり……毛虫取りと人間関係を同列にされても、誰も納得しませんよ」

「まあ、我ながら苦しいなーとは思ったけどね。でも、水ちゃんが自信を持つべきだってのと、人間関係なんて思ったより簡単だってのはほんとだよ」

 なかなか笑いが収まらない水に、色無は少し憮然とした様子で頭をかいた。

「ふふふ……でも、ちょっとだけ元気が出ました。ありがとうございます。そうですね、自信はまだ持てないけど……少しだけ、勇気を出してみようと思います」

「いいね。俺なんかもう勇気と度胸だけで外回りしてるようなもんだからね。この二つがあればたいてい何とかなるよ」

「……色無さんには、あと好奇心とお節介があると思いますけど」

「そうそう、その二つも……っておい! まあ、はずれちゃいないけどさ」

 色無の脳裏を、家で待つ二人の影がよぎる。その二つがあればこそ彼女たちと巡り会えたのだと思えば、そう悪くもない気がした。

「ふふ、ごめんなさい。でも……勇気があって、好奇心が強くて、お節介で……」

 ずっとうつむいていた水が顔を上げ、正面から色無と視線を合わせた。

「色無さんのそんなところが……大好きです」

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「……え?」

 色無が間抜けな声を出し、水がはっと我に返るまで、たっぷり一分はかかった。

「あ……い、今のはその……練習、勇気を出す練習ですから! 本気にしないで下さい! あ、でも嫌いってわけじゃなくて……と、とにかく失礼します!」

 真っ赤になった水が走り去っていった方向を、色無は呆けたように昼休みいっぱい眺め続けた。


 さすがに直後の数日は気恥ずかしくて、すれ違っても黙礼するのが互いに精一杯だった。

 土日を挟んで少し落ち着いて、朝に帰りに挨拶するようになり、昼休みに顔を合わせたら足を止めて雑談するくらいにはうちとけた。

 あれから一ヶ月。

 二週間に一回のペースで、色無と水は休みの日に出かけるようになった。もっとも、

「お、弟の誕生日が近いんですけど……い、一緒にプレゼントを選んでもらえませんか?」

 だとか、

「あのさ、取引先に送るお中元の品を探しに行くんだけど、相談に乗ってもらえないかな? いや、もちろん会社からも贈るんだけど、個人的にも贈った方がいいかと思って」

 だとか、誘うときには何かと理由をこじつけなければならなかったし、日暮れ前には駅前で別れるという健全さで、まるで中学生のデートだったが。

「それじゃあね、水ちゃん。今日はつきあってくれてありがとう。おかげでいいものが見つかったよ」

「そ、そんなことないです。色無さんのセンスがいいんですよ。私は横から見てただけですから」

 いつものように待ち合わせて、お昼を食べて用事をすませ、繁華街をぶらついて駅にたどり着いた。型どおりの挨拶が終わると、ぎこちない沈黙が生まれる。

「……あの」

「……あのさ」

 同時に口を開き、同時に口をつぐむ。

「何、水ちゃん?」

「な、なんでもないです……色無さんこそ、なんですか?」

「いや、俺もたいしたことじゃないんだ。じゃ、じゃあちょうど電車も来たみたいだし、これで。また月曜日に会社でね」

「……はい。さようなら」

 何度も振り返って手を振る色無が見えなくなると、水は貼りつけていた笑顔を引っこめてため息をついた。

「はあ……今日こそは夕食も一緒にどうですかって誘って……今度こそちゃんと告白するつもりだったのにな……」

 一方、先に電車に乗り込んだ色無も、周囲の乗客が気味悪がって距離を取るくらいに落ちこんでいた。

「はあ……なんで『遅くなってもいい? 飲みに行かないか?』の一言が言えないんだ俺は……今日こそ俺の方からもちゃんと言うつもりだったのに!」

 似非中学生カップルはそれなりに幸せだったが、それなりに悩みもあるのだった。

 

「ただいまー」

「おかえりなさーい! ご飯できてるよ!」

 水との会話を反芻して幸せ半分、自分の痛い言動を思い返して反省半分の複雑な表情で自宅のドアを開けると、待ちかまえていたように白が飛び込んできた。

「サンキュー、白、黒。それじゃ、着替えたらすぐ晩飯にするか」

 ネクタイをゆるめ、スーツの上着をいつものように黒の頭にかぶせる。私服のセンスに自信がなかったので、色無は水と会うときはスーツでごまかしていた。

「人の頭を衣紋掛けにするなといつも言ってるだろう。それにしても……今日はご機嫌の日だったか」

「な、なんだよ、ご機嫌の日って」

 努めて普段と変わらないようにしていたつもりだったが、不意にそんなことを言われ、色無の心臓は一段階ペースを上げた。

「だって、ねー。最近の色無さん、ときどきお休みの日に出かけたと思ったらうれしそうな顔して帰ってくるんだもん。そういう日をご機嫌の日って呼んでるんだよ」

「別にうれしそうな顔なんてしてないさ」

 両のほほに手を当て、マッサージするかのようにこすってからことさらいかめしい顔をして見せたが、白と黒は笑うばかりだった。

「いいや、しているとも。それだけじゃない。ご機嫌の日は家に帰ってきてからもときどきニヤニヤしていて、気味が悪いくらいだぞ」

「そうそう。それなのに、どこで何してきたのかちっとも教えてくれないんだよねー」

「それは……その……」

 別に隠しているわけではなかった。だがなんとなく二人に水のことを話すのはためらわれ、これまで黙っていた。

「もしかして、彼女でもできた?」

「!!」

 白のからかうような台詞に全身を打ち抜かれ、呼吸が止まる。一瞬のうちに何度も頭の中で多数決が取られ——色無は決意した。

「実は——」

「馬鹿だな白、色無に限ってそんなことがあるはずないだろう」

 渾身の力を振り絞って喉から出したひび割れ声は、しかし黒の軽口でさえぎられた。

「あはは、黒ちゃんひどーい。でもそうだよねー、色無さんていい人だけど、ちょっともてそうにないもんね」

「……二人とも聞いてくれ。白の言うとおりなんだ。好きな人が……できたんだ」

 仕切り直し、どっかりと床に座り込んで色無は宣言した。二人は笑みを引っこめ、顔を見合わせ、そして——爆笑した。

「あはははははは!! 色無、不愉快にさせてしまったなら謝るが、見栄を張るとかえって哀れだぞ」

「あはは、もー、冗談ばっかり言うんだから! 大丈夫だよ、色無さんには私と黒ちゃんがずっと一緒にいてあげるから。でも、浮気しちゃダメだからね」

「な……違う! 嘘でも冗談でもない! 本当なんだよ!」

 真剣な表情で繰り返す色無の様子に、二人の笑い声が収まる。少しの沈黙のあと、白がおそるおそる口を開いた。

「本当……なの?」

「ああ、本当だ。本気でつきあいたい人がいるんだ」

 白はそれを聞いても顔色一つ変えず、色無の目を真っ正面から見つめ、そして——糸が切れた人形のように崩れ落ちた。

「白!!」

「し、白!? 大丈夫か?」

 色無が慌てて腰を浮かせ、差しだした手を乱暴に払いのけると、黒は倒れた白の手を取って自分の方へと引き寄せた。

「……色無」

 かつてない剣幕でにらみつけてくる黒の視線を避けることなく受け止め、色無は一つ固唾を呑んで覚悟を決めた——どうやら、思ってたよりずっとおおごとになりそうだ、と。

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 リビングを沈黙が支配していた。白と黒が用意してくれた食事はすっかり冷めてしまっている。

「すまなかったな、色無。私も白も、少し混乱していたようだ」

「いや。それにしてもびっくりしたよ。白があんなに取り乱すとは思わなかった」

「私もだ。脳天気なようでいて、その実私より達観しているところがあると思っていたんだが……どうやら白にとって、お前は予想外に大きな存在だったようだ」

 泣き疲れて眠ってしまった白の頭を胸に抱え、黒はその髪を優しくなでていた。

 短い気絶から覚めた白は暴れ、泣き、わめき、錯乱した。

「何でいきなりそんなこと言うの!? 私たちのことが見えない人間なんていらない!」

 白は手当たり次第につかんだものを色無に投げつけた。

「ご飯も作ってあげる! お掃除もお洗濯もしてあげる! お出かけだって、色無さんが一緒ならどこにだってついていってあげられるよ!」

 押さえつけようとする黒を乱暴に突き飛ばし、色無の胸を乱暴に何度も叩いた。

「私も黒ちゃんも色無さんが大好きなんだよ! 初めて会ったときに消えそうな私を助けてくれたこと、今も覚えてるよ! 買ってもらった絵本、今も大事にしてるんだよ!」

 後ろから羽交い締めにした黒の腕の中で、白は全身の力を振り絞って暴れた。

「もうわがまま言わないから! 色無さんがおうちに帰ってきたときに飛びつくのも我慢するから! だから……ずっと三人で暮らそうよ……」

 かける言葉を失った色無の前で、ぐったりとなった白は長いあいだ泣き続けた。

「それで、どんな人なんだ?」

「え?」

 先ほどまでの白を思い出していた色無に、黒がぽつりと声をかけた。

「だから、そのつき合いたいという相手だ。お前が惚れたと言うからには、何かしら取り柄があるんだろう?」

「ああ……そうだなあ。まず、名前は水ちゃんっていうんだ」

 先を促すような黒の優しげなまなざしに助けられ、色無は水のことを思い浮かべながらとつとつと言葉を紡いだ。

「初めて会ったときは、内気そうな子だなあって印象しかなかった。職場で会ってもすぐ目を逸らしちゃうし、友達も少なそうだった。上司にもよく怒られてたな」

「それだけ聞くといいとこなしのようだが」

「でも、飲み会のときなんかはさりげなく周りが楽しめるように気を配ってて。朝一番に出社して掃除したり、花を飾ったりもしてて……何より、俺を好きだって言ってくれたんだ」

「それは、相手が自分を好いてくれてるのが分かったから、お前も相手を好きな気がしてるだけじゃないのか?」

 容赦のない黒の問いに、色無は苦笑した。それはまだ色無の中でも答えの出ていない問いだった。

「もしかしたら、そうかもしれない。これまでつき合った女の子がいないってわけじゃないけど、好きとか嫌いとか、あんまり真剣に考えたことないし」

「だったら、こう考えてみるといい。その娘と一緒にいると、幸せか?」

 目を閉じ、心を穏やかにして考えてみる。その問いの答えは、明白だった。

「ああ。水ちゃんといると胸が温かくなる。いつまでも一緒にいたいって、そう思えるんだ」

 黒は心からの笑みを浮かべた。

「よかったな」

 黒は立ち上がり、まだ涙を流しながら眠る白を背負った。

「改めて、さっきはすまなかった。白が倒れたのでつい動転してにらみつけてしまった。私はお前に恋人ができたことを祝福するぞ」

「黒……ありがとう」

「目を覚ましたら、白には私が言って聞かせよう。白もちょっとびっくりしただけだ。落ち着いたら分かってくれる。家主の幸せは座敷童子の幸せだ」

「ああ、頼むよ。俺もまた、明日にでも白と話してみるから」

 安堵し、ようやく色無にも笑顔が戻った。一悶着あったが、これですべてうまくいく——そう思ったときだった。

「そうしてくれ。では……いずれ私たちは消えるとしよう」

 色無の体中の血が凍りついた。

「ちょ……何言って……」

「荷物をまとめる時間が欲しいから、さすがに今すぐ放り出すのは勘弁してもらいたい。そんなに時間はかからないが、もし明日にでもその娘が家に来るというなら急ぐから——」

「何言ってんだよ! どうして白と黒が出ていかなくちゃならないんだ!」

 猛然とくってかかる色無に対して、黒は至極当然と言った口調で答えた。

「だって、その娘には私たちは見えないだろう?」

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「! それは……」

 それこそが、色無もうすうす気づきながらも考えるのを避け、無意識のうちに水のことを二人に隠していた理由だった。

「見える者と見えない者、そして座敷童子……人外の存在が日常だったころならいざ知らず、今の世でこの三者が共に幸せになる道はない」

 色無は何も言い返せなかった。

「ならば座敷童子が身を引くのが筋だろう。力を失った座敷童子が、家主の幸せのためにできることはそれだけだ」

 リビングのドアに手をかけた黒は、無言のままの色無を振り返り、寂しげな微笑を投げかけた。

「おやすみ、色無。よい夢を」

 静かに閉じたドアの前で、色無は二人を追いもせずに立ちつくした。


「……心労で夜も眠れない、なんて言うけど……完全に煮詰まっちゃったら眠っちまうもんなんだな」

 タオルケットを放り出し、とっくにタイマーでオフになっていたエアコンのスイッチを入れ直す。色無は汗だくになったパジャマのボタンを外しながら枕元の時計に目をやった。

「十一時か……あんまり寝た気もしないけど、時間だけはきっちり過ぎてるな」

 普段なら日曜日には白と黒が起こしに来てくれていた。それがなかったということは、きっと昨夜のことも夢ではなかったのだろう。

「……今日も暑いな」

 エアコンが瞬く間に室温を下げ、汗に濡れたシャツが冷たく肌に張りついても、色無はなかなか部屋から出ることができなかった。

 

 とはいえ、いつまでも狭い自室に閉じこもってもいられない。意を決してドアを開けた途端、香ばしい匂いが色無の鼻腔を刺激した。

「あ、おはよう色無さん」

「お、おはよう、白」

 キッチンをのぞいてみると、皿を並べていた白と目が合った。努力していつも通りの挨拶を交わす。白の笑顔にかげりがある——そう感じるのは泣かせた負い目があるからだろうか。

「すぐご飯できるから、もうちょっとまっててね」

「ああ。それにしてもいいタイミングだな。いつもよりずっと遅い時間に起きてきたっていうのに」

「もうずいぶん色無との縁も深くなったからな。最近は近くにいるかどうかだけでなく、起きているか寝ているかくらいはなんとなく分かるんだ」

 話を聞いていたらしく、リビングの方から黒が声を上げた。

「へえ、そんなもんか」

「そんなもんだよ。だって私たちは色無さんの座敷童なんだもん。はい、できあがり。座って座って」

 コンロの火を止めた白が鍋を持ってリビングに運びこむ。促されるまま食卓についた色無の前に、色とりどりの料理が次々と並べられた。

「おいおい、今日はやけに豪華だな」

「まあいいじゃないか。私たちも色無が休みのときくらいしか食べることもなくなったし、たまにおいしいものを口にしてもばちは当たるまい」

「今日は私が全部作ったんだよ。色無さんがなかなか起きてこないから、ちょっと作り過ぎちゃった。それじゃ食べようよ。いただきまーす」

「いただきます」

 白が元気よく、黒が静かに手を合わせる。色無も遅れて箸を取った。

「あ、それはねー、今日初めて作ってみたの。こないだテレビで作り方覚えたんだー。どう? おいしい?」

 ときどき頷くだけで黙々と食事する黒とは対照的に、白はしゃべりっぱなしだった。色無が料理に手をつけるたび、楽しそうに解説する。

「それでね、そっちのは見た目はいつも通りなんだけど、隠し味にちょっとタバスコを入れてみたの。暑いときは辛いものの方がいいでしょ?」

「うん、これもうまい。白はほんとに料理上手だな」

「えへへー」

 はにかんだように笑う白に、ようやく色無も緊張がほぐれてきた。おそらく黒がいろいろと言い含めてくれたのだろう。色無はさりげなく話を切り出した。

「それでさ、白。昨日の話なんだけど——」

「色無さん」

 ただ静かに名前を呼ばれただけ。しかし色無は、それだけで声が出なくなる。小さく固い白の声——弱々しく震えるその声の中には、確かな拒絶があった。

「ご飯冷めちゃうから、お話はあとにしよ」

「あ、ああ……」

 白まで口をつぐみ、かちゃかちゃと食器の鳴る音だけが響く食卓に居心地の悪い雰囲気が漂う。そんな中、色無は『まだ黒におはようって言ってなかったな』『そういえば今日は白に一回もさわられてないな』などととりとめもないことを考えながら、機械的に箸を動かした。

 

「それじゃ、お皿洗ってくるね」

「うーん、その前にお洗濯していい?」

「今日は久しぶりにお掃除しようと思うんだ。天気もいいし、お布団も干さなくちゃ」

「お、おい、白……」

 情けない声を出す色無を置き去りにし、白は色無の部屋から布団をかかえ出し、二階のベランダに干しに行った。

「……黒、黙って見てないで助け船を出してくれたっていいんじゃないか?」

 再三のアプローチをすべて白に蹴られ、弱り果てた色無はつい黒に愚痴をこぼした。

「甘えたことを言うな。そもそも、もう昨日のうちに私から説明はしたし、白も納得してくれた。別に色無が改まって話す必要はないだろう」

「いや、昨日あれだけ泣かせちゃったし、そのまんまってわけにはいかないだろ。せめてちゃんと謝るくらいはしないと」

「本当にそう思ってるなら、多少強引にでも白を捕まえればいくらでも機会はあった。そうしなかったのは色無の中に迷いがあるからだ」

「う……」

 迷いがないわけはなかった。色無と水のために出ていくと黒は言ったのだ。きっと白も同じ選択をするだろう。その選択を覆す言葉を、色無は持っていなかった。

「もう少し待ってやってくれ。白にも気持ちを整理する時間が必要なんだろう」

「……そうだな。俺もまだ考えまとまってないところあるし」

 色無の沈んだ表情から内心を読み取り、黒はあきれたような笑みを浮かべた。

「私たちのことは気にするな。色無は自分の幸せのことだけ考えていればいい。お前が不安そうにしていると白も困るぞ。もっとしゃきっとしていろ」

「……みんな一緒でなけりゃ、俺の幸せはあり得ないよ。きっとそんな道だってあるはずだ……」

 首を振り、立ち去る色無の背を黒は悲しげに見送った。

「みんな一緒、か……そんな道が本当にあればよかったのにな」

 そうつぶやき、黒もまた首を振った。

 

「お待たせ、色無さん」

「……白か。もう仕事は全部終わった?」

「うん」

 午後になって雲が日をさえぎり、風も出てきていくぶん過ごしやすくなった縁側に腰掛けていた色無の背後に白が立った。

「今日はいっぱい働いたから疲れちゃった」

「ほんと、よくやってくれたよ。白がこんなに家事するところ見るの初めてだ」

「ひどーい、いつもだって少しはやってるよ。でも、我ながら今日は頑張ったと思うんだ。だからご褒美が欲しいんだけど」

「ご褒美?」

 驚いた色無は素っ頓狂な声を上げた。白が甘えてくるのはいつものことだが、こんなストレートにおねだりされたのは初めてだった。

「背中にぎゅーってしてもいい?」

「……ああ、いいよ。今日は白が全然くっついてこないから、ちょっと寂しいくらいだったからな」

「えへへ、ありがとう、色無さん」

 猛烈な勢いで飛びつくのが常だった白が、そっと色無の背中に身を預け、首に腕を回した。触れあったところからゆっくりと二人の体温が溶けあう。

「色無さんの背中、おっきいね。それにあったかい」

「そんなにひっついたら暑くないか?」

「ううん、あったかいよ」

 そのまましばらくはどちらも口を開くことなく、遠くの蝉の声を聞いていた。

「昨日はごめんね、大騒ぎしちゃって」

 先に切り出したのは白の方だった。

「いや、俺の方こそ悪かった。その、白たちが見えない人もいるってこととか、そのせいで二人がどんな思いしてきたとか、全然考えてなくて」

「ううん、そんなのもう慣れちゃったから。ただ、色無さんとのお別れはもっとずっと先だと思ってたから、びっくりしちゃっただけ。あれじゃ座敷童子失格だよね」

 自嘲気味の乾いた笑顔を浮かべ、白は色無の背中を離れ、隣にしゃがみ込んだ。

「でももう平気だから。おつきあいしたい人、水さんっていうんだよね。私も会ってみたかったな」

「ああ、黒から聞いてるんだな。うん、それなら今度連れてくるから——」

 弾んだ色無の声を、白は静かにさえぎった。

「駄目だよ。きっとその子には私たちは見えないから。だから……そのときが来たら、私たちはおうちを出ていくね」

「……なんで……なんで黒も白もそんなこと言うんだよ。会ってみなきゃ分かんないだろ! もし見えなくたって、ちょっと気をつければみんなでうまく暮らしてくことだってできるはず……」

 昨晩とは立場が逆だった。必死の形相の色無に対し、白はいたって落ち着いていた。

「わたしも、そしてたぶん黒ちゃんもね、なんのわけもなく出ていくって言ってるんじゃないの。今までに何回も見える人と見えない人の両方と一緒に暮らしてきて……何度も誰かが不幸になるのを見てきてるからなんだよ」

「俺は、俺は違う! 俺ならきっとうまくやれる! きっと誰も不幸になんか——」

「色無さんはその子の前で、ずっと私たちが見えないふりをしなきゃならないんだよ? もし力が足りなくなって、私たちのご飯が必要になったときはどうするの? もし子供ができて、その子が見える子だったらどうするの? それに、もし全部うまくいったとしたら……それは色無さんが私たちをうまく無視できたってことだよ。見える人に見えないふりをされるなんて、私たちにとって一番不幸だよ……」

「それは……でも、そんな……そんなことって……」

 外見とは裏腹に、色無の何倍もの時を過ごしてきた二人。その経験から来る白の言葉の重さに、色無はうつむくしかなかった。

「そんな顔しないで。これが一番色無さんのためなんだもん、しょうがないことなんだよ」

「俺のため俺のためって、じゃあ白と黒はどうなるんだよ!」

「また二人で次のおうちを探すよ。色無さんに拾ってもらったときだって何とかなったし、きっとまた何とかなるよ」

 無邪気な笑顔を取り戻した白を、色無は正視できなかった。あれが奇跡だったことを色無は知っている。当然、白と黒も知っているだろう。

「私たちは座敷童子だもん。座敷童子は人を幸せにするのが仕事なの。不幸の原因になるのなら、もうその家にはいられないの」

 あふれる涙を隠そうともしない色無に寄り添い、白は頬を寄せた。

「大丈夫。これからはその子が色無さんと一緒にいてくれるから、大丈夫だよ」

 色無は白にすがりつき、子供のようにすすり泣き続けた。

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 空を太陽に代わって満月が、地上を蝉に代わって鈴虫の音が支配する時間。庭にたたずむ黒に足音が近づいた。

「白は?」

「もう寝た。やり慣れない家事で疲れたんだろう。昨日今日と色無が辛気くさい顔をしているせいで、あまり家から力が得られないからな」

「そっか、ごめん」

 色無は庭に降りて黒の後ろに回り、そっと抱き寄せた。

「私は白のようにべたべたさわるのもさわられるのも好きではないんだが」

 そう言いながらも、黒は色無の腕をふりほどこうとはせず、その肘に軽く手をかけた。

「なあ……もしも俺が水ちゃんとつきあわなければ、白も黒も一緒にいてくれるのか?」

 月がひとひらの雲に隠れ、またその姿を現したとき、色無はぽつりとつぶやいた。

「何を言っているんだ。それができないから悩んでるくせに」

 黒は腕の中から色無を見上げ、問いかけを一刀両断に斬って捨てた。

「悩んだ時点で、お前の中ではその娘と私たちは同じくらいに大事になっていたんだ。それなら色無、お前は普通の人間の生き方を選ぶべきだ」

「それでお前たちを見捨てるのか? この家を出てどこに行くっていうんだ! 会ったときの白みたいに、十中八九消えちまうんだぞ!」

 きつく抱きしめようとする色無の腕をするりと抜け、黒は月を背に振り向いた。

「最初から、いつかこうなるって分かってたことだしなあ」

 青白い光の中で穏やかな笑みを浮かべる黒は、とても美しかった。

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「前の家の婆さまが死んだときに捨てるつもりの命だった。それを白が拾ってくれて、色無が拾ってくれて。まあ思ってたより早かったが、これも運命だろう。家を出ることで家主に貢献できるなら本望だ。それに、私たちだってただ黙って消えるつもりはない。絶対次の家主を見つけてみせるさ」

 さも簡単なことであるかのように言うと、黒は色無の脇をすり抜けて家に上がった。

「私ももう休む。色無も早く寝ないと明日の仕事に響くぞ。おやすみ」

 昨日と同じ光景が繰り返される。またもかける言葉がないまま、色無は黒がリビングのドアを閉じるのを黙って見送るしかなかった。

「俺が幸せにならないと力が得られなくて……幸せになるにはあいつらが出ていかなくちゃならないって……矛盾してるだろ。どうすればいいっていうんだよ……」

 答えの出ない問いがぐるぐると同じところを回り続ける。今夜こそ眠れそうになかった。


「あの、その卵焼きはどうですか? 私、卵焼きだけは上手に作れるんです」

「うん、おいしいよ」

「そうですか……あの、こっちのアスパラのベーコン巻きはおかあ——母が作ってくれたんですけど、巻いて楊枝を刺すのは私がやったんですよ」

「うん、おいしい」

「……」

 月曜日の昼休み。なけなしの勇気を振り絞って作ってきたお弁当を機械的に食べる色無の横で、水は悲しそうに眉根を寄せた。

 

「ごちそうさま」

 他の人影のない屋上のベンチに腰掛け、さっさと食べ終えた色無は包み直した弁当箱を水に返した。

「お粗末様でした。……あの、余計なことしてすみませんでした。色無さん一人暮らしだし、ちゃんとご飯食べてないんじゃないかって思ったんですけど……お口に合いませんでしたか?」

「え? い、いや、そんなこと全然ないよ!」

 沈んだ声でそんなことを言われ、ようやく我に返った色無は慌てて否定したものの、おかずに何が入っていたかをまったく覚えていないことに気づいた。

「おいしかったのは本当だよ。でも、ごめん。せっかく作ってきてくれたのに、上の空で食べちゃったな。ちょっと考えごとしてて……」

「いえ、私が勝手にしたことですから……あの、よかったらまた作ってきましょうか?」

「それは……」

 言葉に詰まる色無の様子に、浮上しかけた水がまた暗く沈みこむ。再び色無は急いで水の誤解を打ち消した。

「いや、違う違う! お弁当作ってもらうのが迷惑ってわけじゃないんだ。ただ……その返事をする前に、水ちゃんに伝えなきゃいけないことがあると思って」

「私に……伝えること?」

「水ちゃんは俺のこと、その……好きって言ってくれたけど、俺の気持ちはまだ伝えてなかったな、って」

「……あ」

 色無の言ったことを理解し、水が真っ赤になってうつむいてしまうまで、実に五秒を要した。

「告白されたときはびっくりしたし、正直それまではただの同期の一人だったけど。あれからしょっちゅう話するようになって、一緒に遊びに行ったりもして……水ちゃんを少しは理解できたと思う。だから、今なら言えるよ」

 色無はゆっくりと息をはき、後ろに手をついて少し背筋を伸ばすと、遠くの空を見つめながら告げた。

「俺も水ちゃんが好きだ。水ちゃんの告白に流されて言うんじゃなくて、心の底からそう思う」

 水は完全に硬直していた。腿の上で重ねた手を強く握りしめ、ぎゅっと肩を寄せた水の表情は色無からはよく見えなかったが、きっとリンゴのように頬を染めているだろう。

 だから色無は、その決意を告げるのが辛かった。しかしそれは一晩中考え抜いて出した結論であり、今ここで伝えなければならなかった。

「俺は、水ちゃんのことが本当に好きだよ。でも……でも、つきあえない。だからもう、一緒に出かけることもできないし……お弁当も作ってもらうわけにはいかない」

 水の肩がびくりと震えた。ゆっくりと色無の方に向き直ったその顔は、死人のように青ざめていた。

「どう、して……どうしてですか? 私に何かいけないところがあるなら——」

「違うよ、そうじゃない。水ちゃんは何も悪くない。全部俺の問題なんだ」

 水のかすれた声をさえぎり、色無はゆっくり立ち上がった。

「さっき水ちゃん、俺のこと一人暮らししてるって言ったよね。本当は違うんだ。誰にも言ってないけど……俺は二人の小さな女の子たちと一緒に暮らしてる」

 水は何も反応しなかった。色無はゆっくりと歩きながら言葉を続ける。

「その子たちはしっかり者で、俺の方がいろいろと助けられてるくらいなんだけど、それでもやっぱり俺がいないと生きていけない」

 すぐに屋上の端にたどり着いた色無は金網に指をかけ、白くなるほど力をこめて握りしめた。

「いろいろと事情があって……水ちゃんとつき合うことになったら、まず間違いなくその子たちとは一緒に暮らせなくなると思う。俺には、そんな道を選ぶことだけはできない」

 振り返った色無は、うつむいたままの水に向かって再び歩き出した。

「水ちゃんは俺がいなくても生きていけるけど、あの子たちはそうじゃない。そして俺にとって、家で俺を待ってるあの子たちのことが、水ちゃんと同じくらい大事なんだ」

 水の正面に立った色無はしゃがみ込み、頬に手を寄せて顔を上げさせ、こぼれそうになっていた涙をそっと指でぬぐった。

「だから、水ちゃんとはつきあえない。……ごめんな」

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 あとからあとからあふれてくる雫を何度もすくい、顔にかかる髪を優しくすいてやる。ようやく水が口を開くまで、どれくらいの時間が過ぎただろうか。

「色無さんって……バツイチコブつきだったんですね」

「……へ?」

 色無の顔が間抜けに歪んだ。今誰かが通りかかったとしても、決してこれまでの重い流れを想像することはできなかっただろう。

「ごめんなさい……私、色無さんがそんな苦労してるなんてちっとも知らずにうかれちゃって。考えてみれば当然ですよね。まだ若いのに大きな家を買う理由なんて、一緒に住む人がいるからに決まってるのに。それも小さな娘さんを二人もなんて……きっと色無さんに似た可愛い子たちなんでしょうね」

「バツイチ!? コブつき!? 娘!? い、いや、ちがっ——」

「?」

 反射的に誤解を解こうとした色無だったが、水の不思議そうなまなざしに言葉を失った。『二人の女の子っていうのは俺の子供じゃなくて、実は道ばたで拾った座敷童子なんだ』——どう考えても、そう言った先に明るい未来が待っているとは思えなかった。

「ちが……わない。そうなんだ。俺はあの子たちを……娘たちを幸せにする義務がある。だから……ごめん」

 実際、立場が逆だったとしても同じ誤解をしただろう。どのみち本当のことを話すことができないなら、勘違いをただすこともない。色無はそれで納得してくれるのならと、水に合わせることにした。

「分かりました。でも、どうして……それならどうして、もっと早く言ってくれなかったんですか!? そうすれば私だって……」

 珍しく水が声を荒げる。色無は甘んじて水の非難を受け止めようと待ちかまえた。思わせぶりな態度で一ヶ月も返事を先延ばしにしたあげくのことだ。水の怒りは予想できたし、それも当然と思っていた。

「私だって、もっと色無さんの力になれたかもしれないのに。私……色無さんの苦労を少しでも分けて欲しいです」

 だが、水の台詞は予想外のものだった。息を呑んだ色無の様子に、水は何を勘違いしたのか、大げさに手を振って取り乱した。

「ち、違いますよ!? 苦労を分け合うって言っても、まだその、け、結婚とかそういうこと考えてるわけじゃなくて、いえ、別にしたくないってわけじゃないですけど……ただその子たちと一緒にお出かけしたり、遊んであげたりしてあげられればなあってことで……」

 その様子があまりにおかしくて、色無はふっと肩の力を抜いてほほえむ。同時に、水の優しさに胸が熱くなった。

「水ちゃん……ありがとう。でも、駄目だよ。これは俺が背負うべき問題だから、水ちゃんにまで迷惑かけるわけにはいかない」

「迷惑だなんて、私は思いません。きっと私には立ち入れない事情もあるんでしょうけど……でも、色無さんの大事な人は、私にとっても大事な人ですよ? 少なくとも、私はそう思ってます」

 やんわりと拒絶した色無に、水は流した涙も乾かぬままに食い下がった。

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「一度、会わせてもらえませんか? きっと私、仲良くやっていけると思うんです」

 それは色無も幾度となく考え、白と黒に否定された提案だった。

「……あの子たちに好かれないかもしれないよ?」

「わたし、けっこう子供に好かれる方なんですよ。大丈夫です」

「でも、ちょっと変わった子たちなんだ。もしかしたら水ちゃんを連れて行くことで、あの子たちを……そして水ちゃんも傷つけてしまうかもしれない」

「……色無さん」

「もしかしたら、姿すら見せてくれないかもしれないよ? そうしたら——」

「色無さん」

 後ろ向きな仮定を並べ立てる色無の唇に、水はそっと人差し指を当てて閉ざした。

「そんなの、会ってみないと分からないです。そうでしょう?」

「水ちゃん……」

「色無さんのこと、もっと知りたい。色無さんを全部受け入れたいんです。チャンスをください」

 その瞳には固い決意が宿っていた。

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 色無はすべてを話してはいない。『姿すら見せてくれないかもしれない』——だからこの言葉に込められた色無の気持ちと、水の受け取り方は当然違うだろう。

 それでも——色無は強い意志をこめて自分を見つめる水に、最後の希望を託してみようと思った。

 

 終電で退社し、すでに白と黒が寝静まった自宅に帰った翌朝。色無は二人と共に、静かに朝食を取っていた。

「今日、帰りに水ちゃんを連れてくるよ」

 先に食べ終え、食器を流しにつけた二人が、改まって色無の正面に腰を下ろした。

「急な話でゴメンな。でも、水ちゃんなら大丈夫だと思うんだ」

 寄り添い合ってじっと見つめてくる白と黒を、色無も箸を止めて見つめ返す。瞬き数回のあと、二人は同時に小さな笑みを浮かべた。

「うん」

「待ってる」

「! そ、そうか! うん、今日は仕事の予定も空けといたから、すぐ帰ってくるよ! うん、絶対水ちゃんなら大丈夫だからさ!」

 あっけないほど簡単に二人の承諾を得て、色無はほっと肩の力を抜くと、茶碗に残るご飯をかきこんだ。

 

 このとき、もう少しだけ気をつけていれば、あるいは違った行く末があっただろうか——のちに色無は何度もそう自問した。

 諦観したかのような二人の微笑みも。

 きれいに——あまりにきれいに片付きすぎて、生活感さえ薄くなってしまったリビングやキッチンも。

 二人が外で拾ってきては壁のコルクボードに貼りつけていた思い出の品々が全部なくなっていたのも。

 そしてなにより、少し扉が開いたままの二人の部屋にある、まとめられた旅行鞄と風呂敷包みも——すべては、白と黒の精一杯のサインだったのかもしれない。

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「じゃあ行ってくるよ。夕飯は家で食うから、四人分用意して待っててくれ」

「うん、いってらっしゃい」

「気をつけてな」

 しかしこのときの色無は、何もかもがうまくいくと信じていて——玄関の扉を閉めず、いつまでも色無の背中に手を振って見送る二人の姿を、最後まで振り返らなかった。


 色無を見送ると、二人は並んでキッチンに立ち、いつものように手分けして食器を洗い始めた。

「それでね、昨日は空き地で猫さんたちと一緒にひなたぼっこしてたの」

「そうか。白はひなたぼっこが好きだからな」

「うん。お別れを言ったら、みんな寂しがってニャーニャーって鳴いてくれたけど、いつものおばさんが猫缶持ってきたら、すぐにぴゅーって飛んでっちゃった」

「まあ、猫だからな。仕方ない」

「ほんとに現金だよねー。でもそれが猫さんだから、仕方ないよね」

 黒がスポンジで食器を洗い、白がすすぐ。全部終わると、二人して布巾で水気を取る。他愛ないおしゃべりをしながら、二人はどこまでもいつも通りだった。

「ねえ、黒ちゃんはもう身の回りのものはまとめちゃったんだよね?」

「ん? ああ。あとは背負って家を出るだけだな」

 黒がそう答えると、白は申し訳なさそうに手を合わせた。

「ゴメンね、私まだもうちょっとかかりそうなんだ。急いでやっちゃうから、お皿の後片付け、お願いしてもいいかな?」

 普段は食器を棚に戻すのも二人でやっていた。そもそもたいした数があるわけではない。いつも通りやったとしても、たいした時間のロスにはならないだろう。

「……ああ、分かった。こっちは私一人でやるから、白は自分の荷物をまとめろ。忘れ物のないようにな」

 それでも黒は、白の好きなようにさせてやることにした。

「ありがとう、黒ちゃん。じゃあ急いでやっちゃうね」

 白は濡れた手を拭うと、二人の部屋へと走っていく。

「……白には、最後に一人になる時間も必要だろう」

 そしておそらく、その時間は黒自身にも必要だった。

 

 小さめのハンガーラックに掛かった服を一着ずつていねいにたたみ、すでに荷物が満載された旅行鞄に詰め込む。

「よいしょ、っと。ふう……何とか入りそうかな。お洋服は自分で好きなのに変えられるからいらないって言ったのに、こんなに買ってきちゃうんだもんね」

 中には白の趣味とはちょっと違うものもあれば、なにしろ試着ができないため、サイズの合わないものもあった。

「でも、置いてったり捨てちゃったりするわけにもいかないし。ほんと困っちゃうなあ。他にもいっぱい持っていかなくちゃいけないのに」

 それぞれの品をもらったときのことを思い出しながら、白は言葉とは裏腹に、むしろ楽しげに荷造りを続けていく。その手が、最後の品の上で止まった。

「……最初に色無さんがくれたプレゼントだったよね。大事に大事に読んできたけど、ずいぶんぼろぼろになっちゃった」

 何度も何度も繰り返し読み、そして色無に読んでもらったその絵本は、表紙カバーの角がすり切れ、お気に入りのページに開き癖がついていた。

「最後に読んでもらったのはいつだったかな……あ」

 記憶をたどりつつ、ぱらぱらとページをめくっていると、絵本に挟まっていた栞がはらりと落ちた。

『するとどうでしょう、アリスの身体はみるみるうちに……ふぁーあ』

『もう、読んでる途中であくびしないでよ。台なしだよー』

『悪い悪い。けどここんとこ忙しくって疲れててさ……ごめん、続きはまた明日な』

『えー!? こんな中途半端なところで? もうちょっと読んでよー!』

『ほんとにごめんな。明日! 明日は絶対白がいいっていうところまで読んでやるから。ほら、白にもらった栞を挟んどくから。それじゃ、おやすみー』

『あっ、ちょっと色無さん! もー、絶対だからね! 絶対明日は読んでね!』

「結局、あれっきりになっちゃったね……あのとき、わがまま言ってちゃんと読んでもらえばよかったな」

 落ちた栞を拾い上げ、元のページに戻そうとして思いとどまる。白は栞を残したまま絵本を閉じて鞄にしまい込むと、ゆっくりと鍵をかけた。

 

 白が担当した分の食器を一つ一つ確認し、黒は小さく溜息をついた。

「まったく、何をやらせても白は雑だな。水気をもっとしっかり取らないと匂いがつくと、何度言えば分かるんだ」

 改めて布巾できれいに清め、明かりにかざして乾いていることを確かめると、黒は満足げに頷いた。

「これでよし」

 いつものように普段使いの食器が並ぶ棚に半分ほど片づけたところで、黒の動きがぴたりと止まった。

「……この棚に片づけるのではなかったな。もう、私たちが使うことはないんだから」

 白と黒が使っていた食器は来客用のものだった。色無は新しいのを用意しようとしたのだが、食事は必ずしも必要ではないからと止めたのだ。

「我ながら正しい判断だったな。ただでさえ荷物が多すぎるのに、この上茶碗だの箸だの持っていくことになっていたら一苦労だった」

 キッチンペーパーを手に取り、食器を一つずつくるむ。すべて終えると、黒は食器棚の下段の引き戸に手をかけた。

「む、立て付けが悪いな……ふん! くそ、この——痛っ!! なんだ!?」

 なかなか開かない引き戸をガタガタと揺すっていると、その振動で落ちてきた何かが黒の頭を直撃した。涙目になりながら頭をさすり、それに目をやる。

「……こんなところに飾っていたのか。あの馬鹿者め……」

 それは小さな写真立てだった。しかし、中に飾られているのは写真ではなく、落ち葉——黒が色無に送った紅葉だった。

『やめろ馬鹿者! たかが落ち葉をそんな大げさに飾る奴があるか!』

『いいだろ、別に。黒にもらった初めてのプレゼントなんだから、大切にしないとな』

『だったら他の葉と一緒に、コルクボードに貼っておけば充分だろう!』

『あれは黒のコレクションだろ。これは俺がもらったものだからな。あ〜、こうやって見ると、やっぱり他のとは格が違うなあ』

『ええい、よこせ! ニヤニヤするな! 色無なんかにやるのではなかった! 返せ!』

『おーっと、もらったものは返せないー、っと。分かった分かった、そんなに恥ずかしいなら飾るのはやめるから。黒には見えないところにこっそり飾るから。な?』

『……勝手にしろ!』

「どこにやったかと思えば……高いところに飾るとは姑息な奴」

 ガラス作りの写真立ては、まるで昨日買ってきたばかりのようにきらきらと光を反射した。どうやらこまめに手入れをしていたようだ。

「休みの日はゴロゴロ寝てばかりで、ろくに掃除も洗濯もせんくせに。余計なことにばかり力を入れおって……」

 留め金を外して落ち葉を取り出すと、乾いた紅葉と土の匂いがした。くるくると回しながら、黒はいつまでもその落ち葉を見つめ続けた。

 

「白、そろそろいいか」

 ずいぶんと時間をかけて片付けを終えた黒が様子を見に行くと、白は荷造りを終えた旅行鞄を前にして静かに座っていた。

「……うん」

「忘れ物はないか? 私たちがいた証になりそうなものは全部持っていくんだぞ。契約を解けばある程度は勝手に消えるらしいが、立つ鳥跡を濁さずと言うからな」

「ねえ、黒ちゃん」

 あくまで淡々と語る黒を、白が静かに、しかし決意をこめた瞳で見つめた。

「私たちのことをすぐ忘れてしまうように、私たちがいた証を消していく……私ももちろんそうした方がいいと思うけど……これだけは置いていっちゃ駄目かな?」

 懇願するかのような顔をして差し出された白の手には、シロツメクサの栞が握られていた。

「白……もう決めたことだ。白も納得したじゃないか」

「そうだけど……だってほら、これは色無さんにあげたものだから、色無さんのものだし。勝手に持っていったら泥棒さんになっちゃうよ」

「さっきも言ったが、私たちのような人ならざるものの気配は、契約を解いたらすぐに消えていくと聞いたことがある。おそらく、その栞もいずれ——」

「それでもいい! それでも置いていきたいの! 絶対消えたりしないもの!」

 黒の説得をさえぎった白の叫びは、もはや支離滅裂だった。だが、黒にはその気持ちが痛いほどよく分かる。

 色無を悲しませたくない。早く忘れて、幸せになって欲しい。

 いつまでも忘れないで欲しい。

 二つの相反する想いは、黒の中にもあるものだったから。

「……そうだな。色無にやったものを持ち出すのは確かに褒められたことではないし。ひとつくらいはいいだろう」

「黒ちゃん……ありがとう。ごめんね」

「いいさ。正直言って、私も迷っていた」

 たもとから紅葉を取り出すと、黒は自嘲気味に笑みを浮かべた。

 

 栞と紅葉をテーブルの上に置き、二人は初めてこの家に来たときと同じように、それぞれ大きな荷物を抱えて玄関を出た。

「それでは、行くか」

「……うん」

 そう言ってからも、二人はしばらくのあいだ、慣れ親しんだ家を眺めていた。

「こういうときはなんて言えばいいのかな」

「どうだったかな。家主にないがしろにされたときのために、契約を破棄する文言があったと思うが……ずっと使うこともなかったから忘れてしまった」

「それじゃあ、どうしようか?」

「まあ、いま胸に浮かんだ言葉を口にすればいいんじゃないか?」

「そうだね」

 二人は手を取り合い、余した手で玄関の扉に触れ、同時につぶやいた。

『さようなら』

 

「——ということで、今月の営業成績は先月に比べて伸びてはいるものの、目標には及ばなかった。そこで未達要因を——おい色無、どうした?」

「え!? は、はい、なにか?」

 実りのない定例報告のさなか、上司から不意に名前を呼ばれた色無は面食らった声を上げた。

「なにかって、そりゃこっちの台詞だ。何を泣いてるんだ。目にゴミでも入ったのか? まさかあくびしてたわけじゃないだろうな?」

「え? あ……俺、何で泣いて……」

 自分でも気づかないうちに、色無の目からは涙が溢れ出していた。それは瞬く間にしずくとなり、あごの先からこぼれ落ちてしたたり落ちた。

「す、すみません。いや、あくびとか全然してないんですけど……あれ、おかしいな。とまらない……」

 ごまかすように笑いながら、慌ててハンカチを取り出して拭うが追いつかない。

 上司や同僚のいらだちや心配の視線に囲まれながら、色無は胸に穴が開いたかのような喪失感にいつまでも泣き続けた。




「それじゃ、お先に失礼します」

「お疲れさん……いい成績が続いてるからって気を抜いてると、足下すくわれるぞ。明日も今日みたいな調子だったら承知せんからな」

 定時になったとたんに書類整理を切り上げ、力なく帰宅の挨拶をした色無に課長の檄が飛んだ。

「はい……今日は申し訳ありませんでした。失礼します」

 うなだれ、席を立つ色無の背後で同僚たちが囁き合う。

「あいつ、ほんとに今日はどうしたんだ? 何をやってもミスの嵐。得意先からも苦情が来るし、そりゃフォローする課長も頭に来るよな」

「さあなあ。あれだ、最近彼女ができたらしいから、舞い上がってんじゃないか? ほら、経理にいるあのおとなしい子とさ——」

 水のことまで口にされ、反射的に頭に血が上る。振り返って大声で言い返したい気持ちを、色無は辛らつな言葉と共にぐっと飲み込んだ。

 まったくの役立たずだった今日の自分が何を言っても言い訳にしかならない。なにより、なぜこうも落ち着かないのか自分にも分からない以上、周囲の憶測を真っ向から否定することもできなかった。

 相変わらず晴れない胸騒ぎを抱えたまま、色無は小雨が降り出したオフィス街をあとにした。

 

 残業で三十分ほど遅れて待ち合わせ場所に現れた水を連れ、一緒に帰宅するあいだも、色無は終始口数が少なかった。

「色無さんの家にお邪魔するの、はじめてですね」

「うん、そうだね」

「な、なんだか今さらドキドキしてきちゃいました。お子さんたちに嫌われないよう頑張りますね」

「うん……大丈夫だと思うよ」

 電車のつり革をつかみ、窓の外に目をやったまま、色無は水の声を聞き流す。水はその横顔を見上げ——不意に両手をその頬に伸ばし、ぐいと強引に自分の方を向かせた。

「あいた! な、なに、水ちゃん?」

「色無さん……心配なのは分かりますけど、絶対、絶対大丈夫ですから。私、頑張りますから」

 混雑した電車の中で、好奇の視線が二人に突き刺さる。しかし水は、顔を真っ赤にしながらも決して色無から手を離さず、目も逸らさなかった。

「水ちゃん……」

 色無の様子がおかしいのを、不安から来るものだと考えたのだろう。一生懸命に励まそうとしてくれる水に、色無は胸のつかえが少しだけ軽くなった気がした。

「……ありがとう。うん、俺も絶対大丈夫だって信じてる。そう思ったから水ちゃんを家に呼んだんだしね」

「そうですよ、絶対大丈夫です。ところで、派手な服だと印象悪いかと思って、今日はちょっと地味めにしてみたんですけど、変じゃないですか?」

「よく似合ってるよ。でも水ちゃんていつも地味めじゃない? 逆に派手な服着てるところを見てみたいかも」

「そ、そんなことありません! いつもはもうちょっとおしゃれなの着てます!」

 わけもなく落ちこんだまま、黒や白と水を引き合わせるわけにはいかない。気持ちを切り替えた色無は、少し不自然なほどに水と話をはずませた。

 

 最寄り駅で降り、繁華街を抜けて住宅地にさしかかると、また二人の会話はとぎれがちになった。今度は水も静けさに身を任せている。

 やがて前をいく色無の足が止まり、振り返って水に告げた。

「ついたよ」

「は、はい!」

 手櫛で髪を整え、服装の乱れを直す。最後に大きく喉を鳴らすと、水は色無を見てうなずいた。

「それじゃ、いこうか。ようこそ、水ちゃん」

 門から入って数歩進む。ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に入れてひねる——しかし、そこにあるべき手応えは感じられなかった。

「あれ? 開いてるや。まったく、不用心だからちゃんと鍵をかけるようにっていつも言ってるのに」

 半ば独り言のようにそうつぶやくと、色無は静かに扉を開け、水を招き入れた。

「ただいまー」

「おじゃまします……」

 いつもの癖で、色無は少し腰を落として身構える。しかし、しばらく待ってみても白が飛び込んでくることはなかった。

「どうしたんですか?」

「あ、いや、なんでもない……さすがに恥ずかしがってるのかな」

 靴を脱ぎ散らかし、色無は大きな歩幅で廊下をまっすぐリビングに向かった。慌ててあとを追う水の方を見ようともしない。

「ただいま。……白? 黒?」

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 部屋は整然と、あまりに整然と片づいていた。色無の呼びかけに答える者の姿はない。

「ここにもいないか。いつもなら白が『おかえりなさーい!』って俺の足にしがみついてきて、黒がそのあとからついてくるんだけどね」

 スーツの上着を乱暴に放り投げ、廊下に戻る。

「おーい、白、黒? ここが二人の部屋なんだ。黒は身の回りをきちんと片づけてるんだけど、白は散らかし放題でね。でも今日はきれいにしてあるな。感心感心」

 水がついてきているかも確かめず、色無はキッチン、自室と次々に扉を開け放していった。

「背が低いもんだから、流しを使うのも一苦労らしくてさ。二人とも料理の腕はかなりのもんなんだ。晩飯用意しとくように言っておいたのになあ」

「……色無さん」

「あ、もしかしたら俺の部屋に隠れてるのか? 前にもそういうことがあってさ。白の発案で、黒はつき合わされただけだって言ってたけど、意外に自分も楽しんで——」

「色無さん!」

 饒舌に語りながら一階のすべての部屋を見て回り、二階へ続く階段へと足をかけた色無を、水が静かに、だが強い口調で呼び止めた。

「なに、水ちゃん? 二階は余った部屋を物置代わりにしてるんだけど、そこにいると思うんだ。あ、もしかしたらバルコニーかもしれない——」

「リビングもキッチンもとっても片づいていて、三人が暮らしているようには見えませんでした。二人が使ってたっていうお部屋には、人がいた気配がありませんでした」

 いたたまれないといった様子でそう告げる水に、色無は不思議なものを見るかのような目を向けた。

「……何言ってるの?」

「つまり、その……この家には色無さん以外、誰も住んでいないんじゃないかって——」

「そんなことない!」

 かつて聞いたことのない、色無の怒声。水はびくっと身をすくませながらも、色無から目をそらさなかった。

「そんな目で見るな! 俺はおかしくなんかなってない! 確かに二人は、白と黒はいるんだ! もといた家を遠く離れて、消えかかってたところを俺が助けて!」

「……え?」

「いなくなるはずがない! この家を出たら二人とも消えちまうんだから! 水ちゃんに見えないだけなんだ!」

 色無は水の肩をつかんでぐいと脇によけ、足音高くリビングに戻って栞と紅葉をわしづかみにした。

「これが証拠だ! 二人が俺の誕生日にくれたプレゼントなんだ! 白、黒、隠れてないで出てこい! 俺からも見えなくなるなんてひどいじゃないか……」

 ぜえぜえと息をつく色無の両目から、いつしか涙が溢れ出していた。その場に崩れ落ち、心配そうに寄り添う水の手を振り払おうともせずに嗚咽を漏らす。

「白……黒……頼むから……出てきてくれよ……」

 本当は、色無もとうに気づいていた。水に指摘されるまでもなかった。家に入ったときから——いや、胸に喪失感が生まれたときから気づいていた。

 白と黒は、もういない。

 

 一度止んだ雨が再び降りだし、その勢いを強めていく中、白と黒は大通りに面したビルのあいだにうずくまっていた。

「婆さまのところを出たとき、家を離れるのはこんなにきついのかと思ったものだが……今と比べれば楽なものだったな」

 力なく寄り添う白に冷たい雨がかからないよう、黒は少し傘を傾けた。

「あはは……あのときはまだ前のおうちとつながってたもんね。やっぱり、おうちをなくしちゃうとあっという間だね」

「そう言えば、初めて会ったときも白は家なしじゃなかったか? あのときはもう少し元気そうだったが」

「そうだったかな。けっこう長いことその家にいたし、契約を切ったんじゃなくて、おうちが取り壊しになったからかも……あれ、なんかあんまりよく思い出せないや」

 つらそうな白を励まそうと、黒はかたわらに置いた段ボールの切れ端を手に取った。

「まあ、これまでのことはどうでもいい。ほら、今日は私が用意しておいたぞ。今度は人通りが多いところに場所を取れたし、字も白よりずっときれいだから大丈夫だ」

「えー、字はそんなに変わんないと思うけどな……あはは、それに『拾え』だなんて、そんな高飛車な書き方じゃ誰も拾ってくれないよ」

「いや、色無のときは下手に出て失敗したから、このくらいでちょうどいい。今度の家主には、座敷童子に対する敬意というものをきっちり教えてやらないと」

「もう、だめだよー。黒ちゃんはもっとおうちの人に優しくしてあげなきゃ。私はまたうんと甘えさせてもらうんだー」

「ふん、白がそんなだから私が厳しくしないと駄目なんじゃないか」

 駅の方から家路を急ぐ一団がやってきて、二人は口をつぐんだ。だが、今回も二人に気づく者はいない。人波の間隔は少しずつ長くなり、人影はまばらになりつつある。

「……次のおうちの人も、またいい人だといいね」

「ああ」

「でもね、黒ちゃん。次のおうちの人がどんな人でも……私、十年たったら色無さん家に、また行きたいな」

 少し驚き、黒は隣でしゃがみ込む白の顔をのぞき込んだ。その瞳は、もうなにも映していなかった。

「それでね。色無さんに子供がいたら、こっそり遊ぶの。色無さんの子供なら、きっと私たちのことが見えると思うんだ。ふふふ、楽しみ」

「……いいんじゃないか? もし覚えてたら、私もつき合おう」

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 黒は白の手を取り、耳元に囁いた。白は眠るように黒の肩に頭を預け、冗談めかした黒の言葉に応えようとはしなかった。

 その手は、すでに透け始めていた。


 雨音で車に気づくのが遅れ、はねられた水しぶきを全身に浴びてしまう。ほんの数メートル先さえよく見えない土砂降りの中、水は不要になった傘を閉じた。

「座敷童子、だって。信じられる、水?」

 叩きつける雨粒も意に介さず、水は真っ黒な空を見上げて自問した。

 答えは出なかった。

 

 錯乱した色無を何とか落ち着かせ、すべてを聞き出し終えたのはつい先ほどのことだった。

 色無の家にいた二人の少女は座敷童子だ。

 二人の姿は、色無以外のほとんどの人には見えない。

 今、二人は色無の家を離れ、おそらくは消滅しようとしている——色無と水の邪魔にならないように。

 千々に乱れがちな色無の話を何とか整理してはみたものの、それはあまりに突拍子もないものだった。

「嘘をついているようには見えなかったけど……」

 素直であまり人を疑うことのない水だったが、こんな話を鵜呑みにするほど子供でもなかった。まだ『サンタクロースは実在する』とでも言われた方が同意できただろう。

「でも、あんな真剣な目を見ちゃったら、信じるしかないよね」

 いなくなったという二人のことを語る色無の真剣さを、水は思い返す。そこにあったのは、心の底から二人の安否を気遣う思いだけだった。

 その目に宿る光には、狂気の欠片も感じられなかった。

 だから水は、色無のことだけ信じることにした。座敷童子かどうかはともかく、あの家には色無以外の誰か——あるいは何か——が確かにいたのだと。

「まずは見つけてあげなくちゃね。こんな雨の中で外にいたら風邪ひいちゃう」

 自らを鼓舞するようにつぶやき、水はポケットから折りたたまれた紙を取り出して広げ、引きつった苦笑を浮かべた。

「色無さん、絵下手すぎですよ」

 そこには震え、歪んだ線で描かれた白と黒の姿があった。絶望する色無を励まし、手分けして捜索に出る前に描かせたものだ。

「それにしても、色無さんは二人が本当に大好きなんだなあ……ちょっと妬けちゃうかも」

 特徴をとらえてはいるのだろうが、その似顔絵はお世辞にも上出来とは言いがたい。だがその生き生きとした表情からは、描き手の愛が感じられた。

 絵の上の余白には『WANTED』と書かれている。これは水がつけ足したものだ。

『さあ、指名手配のお嬢様たちを逮捕しに行きましょう』

 そう言って水が書き足すと、色無はしばしあっけにとられ、そして笑った。

『ああ、そうだな。今度こそ終身刑にしてやらないとな』

 家を出る前のやりとりを思い出すと、口の端に笑みが浮かぶ。そのときの色無の笑顔にはかなり無理があったが、確かな力がこもっていた。

「笑えるうちは、きっと大丈夫だよね」

 きっと今、色無もこの雨の中を走り回って二人を捜しているだろう。水ももう一度似顔絵を見て特徴を確認すると、あてもなく来た道と逆の方へ走り出した。

 

 携帯が甲高いアラーム音を発し、捜索開始から一時間が過ぎたことを知らせる。水は足を止め、色無に電話をかけた。一コールもしないうちにつながった。

『……いない』

「……こっちも、見つかりません」

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 相手が見つけているかも、というわずかな希望もあっさり打ち砕かれ、無言のまま時が過ぎる。気を取り直した水が口を開こうとしたとき、色無が悲痛なうめきを漏らした。

『もう、駄目だ……間に合わない……』

「な、何言ってるんですか。諦めちゃダメです。二人がどこかで迎えに来てくれるのを待ってるのに、当の色無さんがそんなことでどうするんです——」

『違う……違うんだ。俺だって諦めたくない。二人を見つけて、もう一度うちに連れて帰りたい』

「だったら——」

『思い出せないんだ』

「……え?」

 色無の声に込められた、あまりにも深い絶望に、水は言葉を失った。

『目を閉じると二人が見えるんだ。雨ざらしになって、消えたくない、消えたくないって言ってるのが。なのに……姿がはっきり見えない。名前も……思い出せないんだ……』

「そんな……だって二人の名前は……」

 その先を続けることが、水にはできなかった。色無から確かに聞いたはずの二人の名前。それが思い出せない。

「! そうだ、色無さんが描いた絵に……」

 冷たい雨にかじかんだ手で似顔絵を引っ張り出す。しかしそれは、雨のせいとはとても思えない勢いで形を崩し、みるみるうちに判別できなくなっていった。

「そんな……」

 電話の向こうで、色無のすすり泣く声がする。不意に水はどっと疲れを感じ、人目もはばからず道ばたにしゃがみ込んだ。

 残された時間は少ない。色無も詳しくは知らないようだったが、どうやら座敷童子が消えるときには、関わった人の記憶まで消えるらしい。

 “それなら、それでいいじゃない”——雨に打たれ続ける水を、どこか離れたところから冷静に観察するもう一人の自分がそう囁いた。

 “全部忘れて、色無さんの家で身体を温めて、明日からまた元通り。心配ごとがなくなって、もっと仲良くなれるかも。それに何か問題が?”

 自分には見えないかもしれないという、存在も不確かな二人を捜し続けて疲れ切っていた水の心に、その提案は心地よく染みこんだ。

「……そうだね。足は痛いし、髪もお化粧もぐちゃぐちゃだし、こんなの最低だもんね……でも」

 水は唇を噛み締め、街灯にすがるようにして立ち上がった。

「ここでみんな忘れちゃったら、きっと私も色無さんも、本当に幸せにはなれないと思うから」

 気力だけで弱気な自分を吐き捨てると、水はもう一度色無に向かって呼びかけた。

「色無さん、さっき『二人が見える』って言いましたよね。今も見えますか?」

『……ああ、見える……気がする。消えたくないって気持ちが伝わってくるのと一緒に、ぼんやりした人影みたいなのが頭に浮かぶんだ』

「そうですか……よかった」

『よかったって、水ちゃん何言って——』

「だってこれって、二人はほんとは消えたくないって思ってて、今でも色無さんのことが好きって証拠ですよね。きっと二人を見つける手掛かりになりますよ」

 水は前向きな意見を述べたが、色無はあくまで悲観的だった。

『そうは言っても、二人がどこにいるのかは相変わらず分からない。もしかしたら、もう俺にさえ姿が見えないかもしれないんだ』

「……色無さん。実は私、さっきまで二人がほんとに座敷童子なのか、そもそもほんとにいるのかどうか、半信半疑でした。ごめんなさい」

『それは……いや、仕方ないよ。水ちゃんは何も悪くない』

「でも今は信じます。記憶が消えかかって、やっと信じるって言うのもおかしな話ですけど……だから、色無さんも信じて下さい。絶対二人は見つかるって」

『だけど、もう……どこを捜していいかさえ……』

「私が捜します」

 言い終わる前に、水は走り出していた。

「色無さんは二人のことを思い出して下さい。二人のことを話してください。きっと色無さんが忘れないうちは、二人も消えずにいられる——そんな気がするんです」

 色無の声が途切れた。わずかな希望にすがる思いとと、そんなことをしてなんになるという諦めがせめぎ合っているのだろう。

「二人が本当に忘れてほしいと思ってるなら、思い出の品を置いていったりするはずがないんです。ええと、何をもらったんでしたっけ?」

 色無が息をのむのが聞こえた。

『そうだ……何でこんな大事なもののことまで忘れてたんだ。この栞と紅葉は……いつもらったんだったかな。確か……そうだ! 俺の誕生日だ!』

「そうそう、その調子です。きっと、誕生日パーティもしてくれたんじゃないですか?」

『やった気がする……そう、確かにやった! あのときは黒が出かけてて——』

 懸命に思い出を掘り起こす色無に、水は足を止めることなく相づちを打ち、問いかけ続け、記憶を取り戻す手助けをした。

 きっとこれで時間が稼げるだろう。座敷童子のことなど何も知らない水だったが、そんな確信があった。水はこの貴重なロスタイムにすべてを賭け、心を研ぎ澄ませた。

 

『うちに来た最初のころはさ、やっぱ二人とも緊張してたみたいだ。一人はいつも笑ってて、一人はいつもむすーっとしてた。まあ俺も緊張してたけどさ』

「あはは。でも、それはしかたないですよね」

『うちとけたのは、何がきっかけだったかな……ああ、俺が疲れ切って会社から帰ってきたら、あいつらが晩飯用意してくれてたんだ。あのときのメニューは——』

「……? 色無さん? 色無さん!」

 不意に色無の声がノイズにかき消され、水は声を張り上げた。

『……もし。もしもーし? 水ちゃん?』

 再び通話が復旧し、水はひとまず胸をなで下ろした。雨に打たれ続けたせいか、先ほどから携帯の調子がよくない。最悪なことに、充電も切れかかっていた。

「はい、聞こえます。それで、そのときのメニューはなんだったんですか?」

『あ、ああ……なんだったかな。うーん……だめだ、出てこない』

「そうですか……まあ、食べたお料理のことなんて普通は覚えてないですよね。他には何かないですか?」

『確か……鯛焼きが好きだった。しょっちゅう買ってきてやってたな。それと、何かプレゼントしてやったら喜んでたような……何をやったんだったっけ』

 少しずつ、少しずつ色無の口数が減っていく。濁流に流される小石のように、あらがう術もなく記憶が削られているようだった。『プレゼント……プレゼント……あれ? 俺、いま何考えてたっけ……?』

「!! しっかりしてください、色無さん! 色無さんが忘れちゃったら——」

 ついに最後のときが来たかと、水の背を雨よりも冷たいものが走ったその瞬間だった。

「! 色無さん、いま私——」

『水ちゃん! 見えた! 二人がまた見えた! 前よりはっきりしてる!』

「私にも見えました! ほんの一瞬でしたけど……きっと近くにいるんです!」

 日付が変わって数時間がたち、一つの人影もない通りを、水は何かに導かれるように駆け抜けた。

『水ちゃん、どこ!? 今どこにいるの!?』

「駅の方に向かってます! 色無さん、もっと思い出してください! 二人のことをもっと——あ! また見えました! 着物と……ドレスを着た女の子ですね!?」

『そう、そうだよ! ああ、やっと思い出した……一人は黒髪の物静かな女の子で、いつも着物だった! もう一人は色白で活発で、かわいらしい服を着てた!』

 堰を切ったように、色無の口から言葉が溢れ出した。

『そうだ、それで童話に出てくるアリスみたいだなって思って、絵本を買ってやったんだ! そしたら着物の子が拗ねちゃって——』

 水の脳裏に、まるで点滅するテレビ画面のように、しゃがみ込んだ二人の少女が映る。周囲の様子が鮮明になっていくのとは裏腹に、その身体はどんどん透けていった。

「色無さん、名前! 二人の名前はなんですか!?」

『二人の……二人の名前は……』

 ビル街を失踪する水の視界の端を、何かがかすめた。

『二人の名前は、白と……黒。白と黒だ!』

「白ちゃん! 黒ちゃん!」

 水は携帯を放り出し、名前を呼んでもぴくりとも動かない二人を抱きしめた。

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 水たまりに落ちた携帯が充電切れを示す甲高い警告音を響かせ、沈黙した。

「ごめんね……白ちゃん、黒ちゃん……ごめんなさい……ごめんなさい……」

 水はまったく反応しない白と黒をうしろから抱きかかえ、何度も何度も詫びた。その場所は、二人を捜しに出てから水が何度か通り過ぎた場所だった。

「ごめんね。最初から二人のことをちゃんと信じてれば、もっと早く見つけてあげられたのに」

 二人の身体からは体温が感じられなかった。かといって驚くほど冷たくもなかった——降りそそぐ雨と、同じ温度だった。

「色無さんは……無理。間に合わない……」

 携帯は使えなくなったが、色無は間違いなくここを一直線に目指しているところだろう。だが白と黒は、もう次の瞬間にも消えてしまいそうだった。

「……本当に、ごめんね」

 最後にもう一度謝ると、水は白と黒をひときわ強く抱きしめ、決意した。

 今の水にできることは、もう一つしかなかった。


「ふいー……あっつー」

 色無は片手に提げたビニール袋を階段の前で下ろし、額に吹き出たまま乾こうとしない汗を袖で拭った。

「来るたびに思うけど、ほんとぼろっちいアパートだな。駅から二分なのはいいとして、電車の振動で崩れ落ちるんじゃないか?」 高架を走る列車の轟音を背にして、いかにも赤貧暮らし専用といった外観の建物を見上げる。

「ドアの鍵もちゃちだし、水ちゃんみたいな女の子がこんなとこに一人暮らししてて大丈夫なのかね」

 いつもの疑問を口にして肩をすくめると、色無は手にくい込む袋を再び持ち上げ、少しふらつきながら階段に足をかけた。

 

 ピン——ポーン。調子の悪いチャイムが何とか来客を告げると、ドアの向こうから足音を響かせて慌てた気配が近づいてくる。何度か深呼吸する音が聞こえると、ドアが細く開かれた。

「い、色無さん……早かったですね。あの、申しわけないんですけど、お掃除がまだ終わってないので、どこかで時間を潰し——きゃっ!」

 隙間の向こうで困り笑いを浮かべる水に、色無は盛大にため息をつくとドアノブを掴み、問答無用でぐいと引いて中に入りこんだ。

「ダ、ダメですってば、色無さん! ほんとにかたづいてなくて、とても見せられる状態じゃないんです」

「大丈夫だって。水ちゃんの言うこと鵜呑みにしたら、また喫茶店でウェイトレスににらまれる羽目になるからね。ほら、俺んちよりずっときれいじゃん」

「きょ、今日こそ言わせてもらいますけど、色無さんはデリカシーが足りません……女の子が男の人を家に上げるときは、完璧にかたづいてなくちゃダメなんです」

「もう女の子って歳でもないような……」

「ひ、ひどいです……もう、とにかくダメって言ったら駄目なんです! せめてキッチンで待ってて下さい」

「ほんとに気にしないのになあ」

 月に一度の、水のアパート訪問。このやりとりもまた、いつものことだった。

 

 キッチンでの軟禁を解かれ、色無がリビングに通されたのはそれから十五分後のことだった。

「さっきのぞいたときとなんにも変わってないじゃん」

「い、いろいろかたづけたんですよ……もうお部屋のことはいいじゃないですか。あんまりじろじろ見ないで下さい」

 部屋を見回すぶしつけな視線に居心地悪そうにしながら、水は色無から手土産の入った袋を受け取った。

「わっ、おっきなスイカ! うちの冷蔵庫に入るかな……私たち二人じゃとても食べきれない——」

 言い終わらないうちに、水はしまったといった顔をして口元を押さえた。おそるおそる様子をうかがうと、やはり色無は不機嫌さを隠そうともしていなかった。

「別に一日で全部食べなきゃいけないわけじゃないさ。二人で半分食べて、残りは水ちゃんがちょっとずつ食べればいいよ」

「そ、そうですね。そうします」

 困ったような笑みを浮かべる水に、色無は少し表情をゆるめて苦笑を返した。

「そんなに気を遣わなくても大丈夫だよ。とっくに俺は吹っ切ってるから」

「そんな、気を遣ってなんて……」

「あれからもうずいぶん経ったからね。今はこんなに暑いのに、あのときの雨はずいぶん冷たかったな……あれはいつごろだったっけ?」

「……六ヶ月。ちょうど半年前です」

 扇風機に当たりながら窓の外を眺める色無の隣に寄り添い、水が静かに答えると、色無は少し目を見開いた。

「ほんとに? もうそんなになる?」

「ええ。色無さんが私のうちに来てくれるの、今日で六回目ですから……半年経ちました」

「そっか……ほんとにずいぶん経ってたんだな。あいつらが……黒と白が、俺の前から消えてから」

 色無は立ち上がって遠くの空の入道雲を見つめ、その忘れられない日に思いを馳せた——

「縁起でもないことを言うな。別に消えてはいない。あちこちずいぶんと色が薄くなりはしたがな」

「あーっ、スイカだ! また私たちが寝てるあいだに二人で食べようとしてたでしょ! もー、来たら起こしてっていっつも言ってるのに!」

 ——馳せようとしたが、目を覚まして隣の部屋から出てきた黒と白の声に妨げられた。

「俺の家からいなくなったのは確かだろ。いつもいつも寝てばっかりで、俺が遊びに来ても気づきもしないで。薄情なもんだよ」

「だからそれは……今は水さんちの座敷童子なんだもん。消える寸前だったから、なるべく寝たり食べたりしないといけないんだってば。ねえ、黒ちゃん」

「その通りだ。会うたびに言ってる気がするが、今の私たちは色無とは縁もゆかりもない。近くに来たからといって気づく道理はないな」

「はん、俺だってわざわざお昼寝から起こしてやる義理なんかないね。だいたい、食っちゃ寝してる割にはいつまでたっても色が薄いままじゃないか」

「それは仕方ない。家は借家でぼろ屋、住み始めて一年ちょっと。おまけにご飯はできあいのものばかり。契約してないよりはまし、といったところだからな」

「うう、ごめんなさい……お料理するの嫌いじゃないんだけど、平日はつい手抜きしちゃって……」

 申しわけなさそうに小さくなる水を、白が慌てて慰めた。

「コ、コンビニのご飯もおいしいよ。おうちはちょっと、その……借家でぼろ屋だけど」

「白ちゃん、それフォローになってないです……」

 相変わらず不遜な態度の黒の頭を、色無は軽くこずいていさめた。

「水ちゃんのせいにするなよ。おまえらを助けるために精一杯やってくれたんだ。そもそもおれんちから出ていかなきゃこんなことには——」

「なるほど。白、どうやら色無は私たちが戻ってこずにこの家の座敷童子になったのが気にいらんらしい。一言で言うと、妬いているのだな」

「ばっ……なに言ってんだ! おまえらみたいな手のかかるのがいなくなってせいせいしてるっての! 俺はただ、水ちゃんに迷惑がかかってるんじゃないかと——」

「ごめんね、色無さん。私たちがいなくて寂しいと思うけど、いつでも待ってるから遊びに来てね」

「だから違うって言ってるだろ!」

 少し前のしんみりした空気を完全に吹き飛ばし、三人が恒例の大騒ぎを始めると、水はがっくりと肩を落とした。

「また大家さんに怒られるかも……全然吹っ切れてないじゃないですか、色無さん」

 身体は透けたままで、起きている時間よりも寝ている時間の方が長かったが——黒と白は、あの日から半年経った今も無事に“生きて”いた。

 

 自分が二人の座敷童子と契約する——それが、水の選んだ最後の手段だった。

「絶対に助けるから。消えさせたりなんてしないから。自信はないけど、きっと、きっと幸せにしてあげるから……だから、白ちゃん、黒ちゃん……うちの子になって!」

 回した腕が痛むほどに二人をぎゅっと抱き寄せ、水は人通りの絶えた大通りで声を張り上げた。

 ——何も起こらなかった。水の顔に焦りが浮かぶ。

「どうして!? 色無さんのときはすぐに目を覚ましたって言ってたのに……」

 つながったという感じは確かにあった。先ほどまでとは比べようもないくらいに、二人の存在を強く感じられる。だが、回復するような兆しはまったく見られなかった。

「そんな……いったいどうしたらいいの……お願い、返事して! 黒ちゃん、白ちゃん!」

 繰り返される水の悲痛な呼びかけは、すぐに雨音にかき消されていった。

 

 息を切らした色無が到着したのは、水が二人を発見してから十分ほど過ぎたころだった。

「はあ、はあ……水ちゃん! 黒と白は!?」

「色無さん……」

 ひび割れた声で答えて振り返った水は青ざめ、唇まで紫になっており、まるで幽霊のようだった。間に合わなかったかと、色無の脳裏を最悪の結末がよぎる。

「二人ともここに……でも、今にも消えそうで……だから私、助けようと思って『うちの子になって』って言ったんですけど……目を覚まさなくて……」

 泣きながら途切れ途切れに説明する水の腕に、白と黒が透けた身体をぐったりと預けている。再び会うことができて、色無はひとまず安堵の息をついた。

「落ち着いて、水ちゃん。電話が切れたときに二人を見つけたんだよね。それからずっとこんな感じ? そのときと比べて、もっと薄くなってる?」

 正面に回りこみ、三人まとめて優しく抱き寄せた色無がそう問うと、水は大きくしゃくり上げてから二人をまじまじと見つめた。

「はい……見つけたときにはもうほとんど消えかかってて……でも、もっと薄くなってる感じはしないです」

「そうか……それなら、今すぐ消えていなくなるってことはなさそうだね。水ちゃんが二人と契約……したんだよね? そのおかげだと思う」

「でも、元気になってるって感じが全然しないんです! 色無さん、さっき電話で言ってたじゃないですか。『契約したとたんにみるみる元気になった』って。なのに……」

 色無は水から黒と白をそっと受け取ると、その羽のように軽い身体を片腕に一人ずつ抱え上げた。

「たぶん、力を失いすぎたんだ。あのとき消えかかってたのは白だけだったし、家が近かったのがよかったのかもしれない……根拠は一つもないけど」

 結局のところ、座敷童子については分かっていないことの方が多いのだ。今は元気にならない理由を探すより、できることを試してみるべき時だった。

「水ちゃんちって、二つ先の駅前だって言ってたよね」

「え? あ、はい……あっ! そうですね、家に連れて行けば、きっと二人もすぐに……もう終電も終わっちゃってますから、私タクシー捕まえてきます!」

 はじかれたように立ち上がってかけ出そうとする水の前に、色無はさっと立ちふさがって制止した。

「無理だよ。会社や繁華街の周りならともかく、このあたりじゃ電車が終わるとタクシーもほとんど捕まらない。それにこのありさまじゃ、どのみち乗せちゃくれないよ」

 そういわれ、水は改めて自分たちの姿を眺めてみた。二人とも下着まで雨に濡れて泥だらけなうえ、あちこちに擦り傷もできている。

「そうですね……運が悪いと通報されちゃうかも」

「いったん俺んちに戻ろう。車はないけど原チャリがあるから、それで水ちゃんちに行けばいい。走るよ、水ちゃん!」

「あ! ま、待って下さい!」

 いまだに強く降り続ける雨の中、子供二人を抱えているとは思えない速さで駆け抜ける色無のあとを、水は懸命に追いかけた。

 

「あのときの色無さんはかっこよかったよねー。『絶対助けてやるからな! 勝手に消えるなんて承知しないからな!』って何度も叫んでて——」

 口げんかのふりをしたじゃれ合いも一段落し、スイカを浮かべたフルーツポンチに舌鼓を打ちながら、白がうっかり口を滑らせた。

「白! それは内緒にしておけと——」

「ぶほっ! お、お前ら……あのとき気づいてたのか!? だったら何で返事しなかったんだ! 俺たちがどれだけ心配したと思ってる!」

「あ、いっけない」

 黒が慌てて唇の前で指を立てたが、色無は聞き逃さなかった。白はぺろりと舌を出して肩をすくめた。

「こうやって騒ぐと思ったから黙っていたのだが……あのとき確かに私たちにはお前の声が聞こえていた。返事をする余裕はなかったがな」

「そうそう。スクーターでここに来る途中でも、ずっと話しかけてくれてたよね。『また絵本読んでやるからな!』とか。そういえば読んでもらってないなー」

「『みんなで一緒に紅葉狩りに行こう』とも言っていたぞ。あれには私も多少は心動かされたな。そろそろいい季節じゃないか?」「あ、あれは言葉の綾というか、その場の勢いで言っただけでだな……そもそもまだ元気になってないだろ!」

「え〜、絵本くらい読んでくれたっていいのに〜。そうだなー、あとは……『いつか三人とも俺のうちに住ませてやる』とも言ってた気が——むぐ!」

「わー!! も、もうやめろ! あのときのことはもういい! 忘れろ!」

 二人を助けたい一心で口走ったことを一つ一つ繰り返され、色無は真っ赤になって二人の口を掌でふさいだ。

「忘れられるならそうしたいです……あんな大雨の中をスクーターに四人乗りして猛スピード出すなんて、無茶すぎますよ」

 当時の恐怖を思い出して身震いする水の耳には、白の声は届かなかったらしい。曖昧な笑みを浮かべる色無に抱きすくめられ、黒と白はじたばたともがいていた。

 

「色無さん、そろそろ時間じゃないですか?」

 流しで洗い物をする水がそう尋ねると、色無は腕時計で時間を確かめた。

「ああ、ほんとだ。このアパート、駅の真ん前だから迷うことはないと思うけど、いちおう迎えに行った方がいいかな。あの人ちょっとぼんやりしてるし」

そういって色無が立ち上がると、黒と白は表情を硬くして視線を交わした。

「迎えに、と言うと……今日はお前以外に誰か来るのか?」

「ああ。ちょっと知り合いが一人、な」

「そうなんだ……先に言ってくれたらよかったのに。それじゃ、私たち隣のお部屋でおとなしくしてるね」

 少し色無を責めるような口調で白が言い、黒と共に立ち上がる。そんな二人に、色無は悪戯っぽい笑みを向けた。

「その必要はないよ。今日来るのは——」

 ピン——ポーン。ちょうどそのとき、チャイムが割れた音を響かせた。

「お、噂をすれば。はいはーい、今開けまーす」

 色無は足早に玄関に向かい、いそいそとドアを開けた。水はその背後からおそるおそる様子をうかがっており、どちらが家主か分からない。

「いらっしゃい。遠いところをようこそ」

「お久しぶりです、色無さん。今日はお招きいただいてありがとうございます」

「は、はじめまして……水と申します。色無さんがいつもお世話になってます」

「あらあら、まあまあ! あなたが水さん? お話は聞いてたけど、こんなかわいらしい人だなんて。色無さんも隅に置けませんねえ」

「そんな、かわいらしくなんて……」

「ちょっと、来たとたんに何言ってるんですか。勘弁して下さいよ」

 照れて赤くなる二人がおかしかったのか、その女性は小さくクスリと笑った。

「それでは、改めて。はじめまして、水さん。黄緑と申します。色無さんにお呼ばれして、遊びに来ちゃいました。今日はよろしくお願いしますね」

 黄緑はかぶっていた大きな麦わら帽子を取ると、いつも通りの笑みを浮かべて挨拶した。

「あの、立ち話もなんですから、どうぞ上がって下さい。ほんとに狭いところで申しわけないんですけど」

「はい。でもその前に……実はもう一人、一緒に来た子がいるんです。その子もかまいませんか?」

「え? ああ、学園の子ですか? それなら白と黒も見えるだろうし、俺はかまいませんけど」

「私、子供好きですから大歓迎ですよ。でも、どこにいるんですか?」

 二人から快く許可をもらった黄緑は、階段の方に向かって手招きした。

「ほら、いつまで隠れてるの? こっちにいらっしゃい」

 学園に置いてくるには不安が残るような、小さな子を連れてきたのだろう——そう考えていた色無は、少女がおずおずと顔を出したとたんに仰天した。

「い、色無……久しぶりー」

「む、紫!? 何でお前がここにいる!? いったいどうやって……」

「わあ、かわいい子ですね——って、え? この子も座敷童子なんですか? 透けてないと人間と全然変わりませんね」

 完全な状態の座敷童子を見るのが初めてな水はしげしげと紫を見つめた。

「……フーン。あんたもあたしのことが見えるんだ」

 紫も自分のことが見える大人が珍しいようで、値踏みするかのような視線を水に向ける。

「何か地味だね。おっぱいも黄緑よりちょっと小さいし。色無っておっきい方が好きじゃなかったっけ?」

「え? あの……色無さん、そうなんですか……?」

「あらあら、それは初耳です。大丈夫ですよ、水さん。それだけあれば充分。色無さんもいちころです」

「いや、俺は別に大きさにはこだわらない——って、そんな話はどうでもいい! 紫、お前こんな遠くまで来て大丈夫なのか?」

 妙な方向に流れた会話を断ち切り、色無は紫の肩に手を置いて心配そうに尋ねた。それを邪険に振り払い、紫はそっぽを向いた。

「別に。そんなおおげさにするほど遠くなかったよ。これくらい全然平気」

「いや、そんなことないだろ……」

 何かを確かめるように再び伸びてきた色無の手をぱしっと叩き、紫は黄緑の影に隠れた。その頭を撫でながら、黄緑が安心させるように笑みを浮かべた。

「何度か試してみて分かったんですけど、ちょっとずつ慣らしていけばけっこう遠くまで行けるようになるみたいなんです」

「慣らしていけばって……そういうものなんですか? なんだか水泳の練習する子供みたいですね」

 水がもっともな疑問を口にした。

「そういうものみたいですよ。もちろん私が一緒にいないといけませんし、疲れちゃうのであんまり長居はできないんですけど」

「まあ、黄緑さんがそう言うなら大丈夫なんでしょうけど……何でそこまでしてわざわざ来たんだよ?」

「いろんなところに遊びに行けた方が楽しいからに決まってるじゃん。ここはあんまりおもしろそうじゃないけどさ」

「私も反対したんですけど、どうしても色無さんに会いに行くってきかなくて。ずいぶん前から遠出の練習してたんですよ」

「あーっ! 黙っててって言ったのに! もう、黄緑のバカ!」

 紫は真っ赤になって黄緑のお腹に顔をうずめ、小さな拳でぽかぽかと叩いた。

「ふふふ、ごめんなさい。ついうっかり——あら! あらあらあら!」

 不意に黄緑が家の中に目を向け、素っ頓狂な声をあげた。釣られて色無と水がその視線を追うと、廊下の先で黒と白が顔をのぞかせていた。

「ああ、忘れてた。黄緑さん、あいつらが黒と白——」

「きゃー!! かわいい!! 抱っこさせて!」

 二人を紹介しようとした色無に紫を預け、黄緑は許しも得ずにパンプスを脱ぎ散らかして家の中に突進すると、逃げ遅れた黒と白を羽交い締めにした。

「ああもう、なんてかわいいの! 二人ともお人形さんみたい!」

「は、離せ馬鹿者! 撫でるな、髪がくしゃくしゃになる! 色無、こいつを何とかしろ!」

「あはははは! く、くすぐったい〜! 色無さん、助けて〜!」

 呆気にとられた水がぽつりと呟いた。

「黄緑さんって、なんだか色無さんから聞いてたのとちょっと感じが違いますね……」

「うん。施設で会ったときはもうちょっと落ち着いて見えたんだけどな……子供が絡むと人が変わるみたいだな」

「そんなことよりあの二人、ほっといていいの? 助けてあげなきゃ黄緑はいつまでもああしてるよ」

 身に覚えがあるのか、紫がうんざりした様子で首を横に振る。我に返った色無と水は、慌てて二人の救出に向かった。


 大人たちの期待とは裏腹に、静寂が場を支配したまま十分が過ぎた。

「……」

「……」

 黄緑から解放された黒と、色無が連れてきて紹介した紫。二人は微動だにせず、互いを見つめ合って——いや、にらみ合っていた。

「えと……うーんと……あの……」

 そんな二人の顔を交互にうかがいながら、白は両手をもじもじさせている。さすがの白も会話の糸口を見つけかねているようだった。

「な、なんだか試合直前のボクシング選手みたいですね……」

「しーっ! 水ちゃん、静かに」

「す、すみません……」

 大人たちがふすまの影から息をのんで様子を見ている中、先に口を開いたのは黒だった。

「ちっちゃいやつ」

 色無と黄緑は、同時に天を仰いで嘆息した。

「な……ち、ちっちゃいって言うな! あんたね、初対面の相手に失礼にもほどがあるでしょ! だいたいあんただってたいして変わんないじゃないのさ!」

「そんなことはない。私の方が明らかに指三本分は背が高い」

「せいぜい指二本分しか違わないでしょ! それにそんなのたいした違いじゃない!」

「いいや、めったに成長しない座敷童子にとっては大きな違いだ」

「く、黒ちゃん……仲良くしないとだめだよ。えっと、紫ちゃん? ごめんね、黒ちゃんはホントのことなら何言ってもいいと思ってるから。ちっちゃい方が可愛いよね」

「うるさい! 年増フリルは黙ってろ!」

「! ひ、ひどい……座敷童子なんだから歳は関係ないでしょ! 可愛い服着て何がいけないの!?」

「座敷童子には座敷童子にふさわしい格好ってものがあるの。そんなふわふわひらひらした服着ちゃって、全然似合ってない!」

「ああ、その点は私も同じ思いだ。白、前々から何度も言っているが、その格好は何とかした方がいい」

「黒ちゃんまで……色無さんは可愛いって言ってくれたもん!」

「あいつは何着てたって可愛いって言うに決まってるじゃん。昔っから女の子には甘くて、見る目がなくて——きゃっ!」

 はらはらしながら見ていた大人たちが止める暇もなかった。白が両手で力いっぱい突き飛ばし、紫は尻餅をついた。

「色無さんの悪口言わないで!」

「いったあ……よくもやったな!」

「きゃっ!」

「やめろ! 白に手を上げていいのは私だけだ!」

「黒ちゃんだってだめだもん! もー、みんな嫌い!」

 三人が団子のようになってとっくみあいをはじめると、色無と黄緑は苦笑いを交わして居間に戻り、テーブルの前に腰を落ち着けた。

「え? あ、あの……止めなくていいんですか?」

 残された水は、どうしたものかと一人おろおろしている。

「気がすむまでやらせておけばいいよ。子供の喧嘩に大人が出るわけにもいかないし」

「そうですねえ。紫ちゃん、学園の子たちとはいつもすぐ仲良しになるから、今日も大丈夫だと思ったんですけど」

「最初の黒の一言が致命的でしたね。すみません、あいつも悪いやつじゃないんですけど、どうも余計なことを言う癖があって」

「いえ、紫ちゃんが色無さんのことを口にしたのが喧嘩の発端ですし。あれで白ちゃんがやきもち焼いちゃったんですね。うふふ、色無さんたらもてもてですね」

「そんな、からかわないでくださいよ」

 二人が和んでいる隣の部屋で、座敷童子たちの乱闘はますます激しさを増していた。

「そ、そんな悠長なこといってる場合じゃ……私、やっぱり止めてきます!」

 猫の縄張り争いを何倍かに拡大したかのような座敷童子たちの輪に、水は意を決して飛び込んだ。

「ほ、ほら、喧嘩はだめだよ……いたたたた、髪を引っ張らないで! あーっ、ふすまを蹴っちゃだめ! あ、穴が空いちゃった……もーっ、やめなさーい!!」

 今や四つ巴となってドタンバタンと大きな音を立てる水たちをそのままに、色無と黄緑は麦茶をすすってゆったりとくつろいだ。

 

「じゃ、気をつけて遊んでこいよ。疲れたらすぐ戻ってくること」

「はーい!」

「分かっている」

「色無は心配しすぎだってば。ほら、早くいこ!」

 紫が白に手を引かれ、そのあとを黒がついていくのを見届けると、色無は冷蔵庫から麦茶を取り出した。

「はい、お疲れさま」

 よれよれになり、半ば放心状態でへたり込んでいる水に、色無はそっとグラスをさしだした。それを一気飲みし、ようやく水の瞳に活力が戻る。

「服は引っ張られてのびちゃうし、ふすまに穴は空いちゃうし、髪はぼさぼさになっちゃうし……もうさんざんです……」

「また大家さんに怒られるかもね」

「……ううう〜……」

 テーブルに突っ伏して水がうめくと、その肩に手を置いて黄緑が慰めた。

「まあまあ。水さんが頑張ってくれたおかげで、あの子たちもすっかり仲良くなって遊びに行ったじゃないですか。たいしたものですよ」

「たぶん、私が割って入らなくても大丈夫だった気がしますけど……二人とも、こうなるって分かってたんですよね?」

 水が顔だけ横に向けてじろりと二人をねめつけると、色無と黄緑は居心地悪そうに視線をさまよわせた。

「まあ、ねえ……黒と白はうちにいたころからときどき喧嘩してたけど、たいていすぐに仲直りしてたしね」

「子供ってそういうものですから。力いっぱい喧嘩して、仲良くして、また喧嘩して……そうやってお互いを分かり合っていくんですよ」

「それならそうって先に言ってください……」

 経験の浅さから空回ってしまったことに気づき、水は二人を責めて拗ねた。色無たちは苦笑いするしかなかった。

「まあ子供と言っても、あいつら俺たちの何倍も長く生きてるからね。ときどき妙に達観したようなことを言うからびっくりするよ」

「そうですね。見た目通りに子供っぽいところがあるかと思えば、すごく冷めてるときもあって……不思議な感じがすることもあります」

 共感してうなずきあう二人に、水は少し疎外感を覚えた。一緒に半年暮らしてはいるものの、寝てばかりの黒と白のことをそんな風に思ったことはない。

「それにしても、やっぱり座敷童子ってすごいですよね。一緒にいるだけでこんなに幸せになれるなんて。あの子たちがうちに来てくれて、ほんとによかったです」

 それでも何とか会話に加わろうと口にした言葉は、しかし二人から正反対の返事を引き出した。

「いや、もうあいつらには人間を幸せにする力なんてない——」

「ほんとに。紫ちゃんのおかげで、私も学園の子たちもみんな幸せいっぱいで——」

 同時に話し出し、同時に声を止めた色無と黄緑はしばし見つめ合った。

「水ちゃんには言ってなかったっけ。あいつら、姿が見えなかったり消えそうになったりするけど、家主を幸福にする力はもうないらしい」

「あら、そうなんですか? 紫ちゃんからはそんなこと一度も聞いたことないですけど……」

「本人たちがそう言ってましたし、俺の生活も特に変わったって気はしませんでしたから、まず間違いないと思います」

 妙に自信ありげな色無に対し、黄緑はなお懐疑的だった。

「紫ちゃんが元気になって以来、支援してくれる方も増えてますし……私なんかが園長でもなんとかやっていけてるのは、きっと紫ちゃんの力のおかげだと思うんです」

「それは……でも、俺から見たら紫も黒や白とそんなに違うようには……」

 うかつに同意するのも失礼か、と色無が言葉を濁していると、水は何か思いついたようにはっと顔を上げた。

「色無さん。少し前に図書館に行って、二人で座敷童子のことを調べましたよね。覚えてますか?」

「……ああ。二人を回復させる手がかりにはならなかったし、あんまり思い出したくはないけど」

「黄緑さんは、座敷童子ってなんなのか、どの程度ご存じですか?」

「私は……ネットで検索して分かることくらいしか……」

 問われた二人は、共に暗く沈んだ様子でうつむいた。

「そうですね。私も考えるだけで胸が苦しくなります。あの子たちが……もともと、親に殺された子供だったなんて」

 座敷童子の由来には諸説あるが、貧しい農村で生まれた赤子が口減らしのために殺され、それをまつる風習から生まれた、とする説が有力だった。

 時代が違うとはいえ、黒が、白が、紫が、生まれて間もなく親に殺された——それは想像もしたくない悲劇だった。

「それで私、いま思ったんですけど……もともとあの子たちには、人を幸せにする不思議な力、なんてものはなかったんじゃないでしょうか」

 またも色無は黄緑と顔を見合わせた。二人とも、そんなことは考えたこともなかった。

「いや、でもさ。昔話ではそういう力があるってことになってるし、あいつらも“なくした”って言うからには、もとはあったってことなんじゃ……」

「生まれてきた赤ちゃんを、育てられないから殺す……こんなこと、ほんとは絶対したくなかったに決まってるんです」

 わき上がるひらめきを懸命にまとめながら、水は宙を見つめて続けた。

「きっと辛くて悲しくて、泣いて暮らしてたと思います。そんなとき、生きている他の子供たちによく似た不思議な子が家に住みついたら……」

 黄緑が水の言わんとすることに気づき、大きく目を見開いた。

「そうね。きっと子供たちは楽しく遊んで、ご両親も喜んでお世話して、だんだん悲しみも癒えて……“幸せ”になったでしょうね」

「はい。色無さん、黒ちゃんと白ちゃんが家にいたころって、少しくらいお仕事が大変でも頑張ろうって気になりませんでしたか?」

「……ああ。家に帰ればあいつらが待っててくれると思ったら、疲れも嫌なことも吹き飛んだよ」

「黄緑さん。紫ちゃんが来てから、学園の子たちや黄緑さん自身も明るくなったんじゃないですか?」

「ええ。紫ちゃんのありあまる元気を分けてもらってる気がするわ」

「それで学園の雰囲気が明るくなったから、手助けしたいって人も増えたんだと思います。座敷童子が人を幸せにするって、たぶんそういうことなんですよ」

 興奮気味でまくしたてた水が、ほうと息を吐く。気がつくと、色無と黄緑がまじまじと水を見つめていた。

「す、すみません! なんだか私、根拠もないのに思いつきで余計なことを言っちゃったみたいで……」

「……いや。きっと水ちゃんの言うとおりだよ。やっぱり水ちゃんには、あいつらが見えるべくして見えたんだな」

「ふふ、そうですね。黒ちゃんに白ちゃん、ずいぶん色が薄くて心配でしたけど、水さんに任せておけばきっとすぐ元に戻りますね」

「うう……そんなことないです……」

 色無に感心され、黄緑に安心された水は、しばらくのあいだ真っ赤になって縮こまっていた。

 

 日が暮れるとすぐに戻ってきた座敷童子たちは、夕食を食べながら黒、白、紫の順に、メトロノームのように規則的に船を漕いでいた。

「うお、あぶねえ。白、箸持ったまま突っ伏すと怪我するかもしれないから、飯はそこまでにして今日はもう寝ろ」

「ん〜……まだ食べるぅ……コロッケ……」

「ちゃんと残しといてやるから。な?」

「黒ちゃんも一緒に寝た方がいいよ。さっきからずっとまぶたが落ちたまんまだよ」

「私は食事中に眠ってしまうような不作法な真似はしない……それにしても、この漬け物はずいぶん固いな……」

「黒ちゃん、それは箸置きだよ!」

 ぐずる白を色無が、身をよじる黒を水がそっと抱きかかえて布団に運ぶそばで、黄緑は紫の外堀を埋めにかかった。

「あらあら。外で遊んですぐおねむだなんて、あの子たちはずいぶん子供っぽいわね」

「ほんとだよ……私は全然平気だけど……」

「でも困ったわ。なんだか私も眠くなっちゃった。でも、よそのおうちで一人だとぐっすり眠れそうにないし、どうしましょう」

「黄緑はしょうがないなあ……私は眠くないけど、黄緑が眠いなら一緒に寝てあげても……いいよ……」

「あらうれしい。それじゃ一緒にお布団まで行きましょうか」

 茶碗を置いて立ち上がり、倒れ込むように黄緑の胸に突っ伏した紫は、すでに寝息を立てていた。

「さすがに扱いに慣れてますね」

「うふふ、紫ちゃんは意地っ張りですからね。花を持たせてあげるのがコツなんです。さて、それじゃ時間もいいころですし、そろそろおいとましますね」

 黄緑は紫を抱き上げて立ち上がると、そのまま器用に一礼した。

「え!? そんな、てっきり泊まっていくもんだとばっかり思ってたんですけど。今から帰ったら、学園に着くのは真夜中でしょう?」

「そ、そうですよ。狭くて寝苦しいかもしれないですけど、今夜くらいはゆっくりしていって下さい」

 口々に引き留める色無と水に、黄緑は意地悪そうな笑みを浮かべた。

「やっぱり学園も心配ですし……お二人の邪魔をしちゃ悪いですからね」

「ちょ……邪魔ってそんな、何言ってんですか!」

「そ、そそそそうです、私たちまだそんなこと何もしてません! 清く正しいおつきあいをさせていただいてるんです!」

「いや、水ちゃん。そこまで言わなくていいから……」

 赤い顔をして照れる二人の姿に、黄緑は愛おしそうに目を細めた。

「うふふ、冗談ですよ。ただ、学園が心配なのは本当ですし……紫ちゃんも、あんまり長居しない方がよさそうですし」

 黄緑が笑みを消し、二人に紫の手を差し出す。目をやった色無と水は同時に息を呑んだ——指先が、ほんのわずか透けていた。

「今までで一番遠くに来ましたし、黒ちゃん白ちゃんと一緒にずいぶんはしゃぎ回ったみたいですから……思ったより疲れちゃったみたいですね」

「いや、疲れちゃったって、そんな……そんな軽い話じゃないでしょう! 一刻も早く戻らないと——」

 声を荒げる色無の唇を、黄緑は人差し指でそっとふさいだ。

「みんな起きちゃいますよ。大丈夫、今から帰れば充分間に合います。一泊しても問題ないくらいですよ。早く帰るのは念のためです」

「なんでそんなことが——」

 分かるんだ、と続けようとして、色無は声を失った。黄緑の目に涙が浮かんでいた。

「分かるんです。何度も何度も学園を離れて遠出して、どのくらいまで保つのか試しましたから。今の黒ちゃんたちより透けちゃったことも……消える直前までいったこともあります」

 紫を抱く黄緑の腕に力がこもり、紫が眉根を寄せて少し身じろぎした。

「で、でも、今朝『慣らせば遠くに行けるようになる』って言ってましたよね? だから連れて来たんですよね?」

「それは気休め程度のことです。どこにでも気軽に行けるとは、とても言えません。『反対した』とも言いましたよね。本当に……本当に反対したんです」

 救いを得ようと同意を求める水に、黄緑は悲しそうに首を振った。

「……どうして……」

 色無はそれだけ絞り出すのがやっとだった。どうしてそこまでしたのか。どうして連れてきたのか。どうして、どうして——。

「色無さんに会いたかったからですよ」

 それがすべての答えだった。

「紫ちゃんは学園のみんなが好きで、私のことが好きで……同じくらいに色無さんのことが大好きなんです。きっと目を覚ましたら、なんで起こさなかったのかって叱られちゃいます」

 小さく鼻をすすると、黄緑はまたいつものように優しく微笑んだ。

「今度はまた、色無さんが学園に来て下さいね。じゃないと、また紫ちゃんを連れてこっちに来ちゃいますよ」

「……必ず行きます」

 色無は最後に紫の髪を撫でた。

「水さんも。紫ちゃん、水さんのことも大好きになったみたいですから」

「ほんとにそうなら、嬉しいです……きっと遊びに行きますね」

 駅に向かう黄緑の背中を、色無と水はいつまでも見送った。

 

 黄緑が見えなくなっても、色無はしばらく駅前の雑踏を見つめ続けていた。

「あいつらがいなくなった日からずっと考えてたんだけど……なんであいつら、ここまでしてくれるんだろうな」

 横で様子をうかがっている水に、色無は低い声でそう呟いた。

「紫は消える危険を冒してまで俺に会いに来てくれた。白と黒は、見えない人間と自分たちの板挟みになって俺が苦しまないよう、行くあてもないのに家を出た」

 無力な自分を責めるように色無はうつむき、拳をぎゅっと握りしめた。

「そこまでしてもらえる価値が俺にあるなんて、とても思えない。なんでここまでするのか。なんでここまでできるのか……全然分からないよ」

 固い拳の上に、水の柔らかな手がそっと重ねられた。

「理由なんて簡単です。さっきも黄緑さんが言ってたじゃないですか。みんな色無さんが大好きだから。それだけですよ」

「好きだからって……たったそれだけで? 消えそうになってまで? 人間なら死ぬってことだ。死んでも会いたい、死んでも幸せになって欲しいなんて……」

「きっとあの子たちは、そういうふうに考えちゃうんですよ」

「……そうかな」

「そうですよ。人間なら損とか得とか、いろんなものを天秤にかけちゃいますけど、あの子たちは好きな人のためなら何でもできるんですよ」

 色無と並んで雑踏を見つめている水の横顔には、まるで母親のような優しい笑みが浮かんでいた。

「見える人が減ったからかもしれませんけど……ううん、たぶんそんなこと関係なしに、あの子たちは色無さんが大好きなんですよ、きっと」

 色無を見上げ、自分の台詞に納得したように大きくうなずく水の姿に、色無は胸のつかえがすっと消えていく気がした。

「そっか。やっぱり水ちゃんはすごいな。座敷童子のことがそこまで分かるなんて」

 水は慌てて重ねた手を離し、突き出した両手をぶんぶんと振って否定した。

「そ、そんなことないです……すみません、また思いつきで適当なこと言っちゃって……」

「いや、うぬぼれてるようだけど、きっとそれが正解だよ。だから俺はその思いにふさわしい人間になって、あいつらのためになんでもしてやらないとね」

 色無にしてみれば、迷いを振り切るちょっとした決意のつもりだった。しかしそれは、水の心にいつも潜んでいるわずかな嫉妬心を刺激し——。

「わ、わたしだって色無さんのためなら何でもできますよ!」

 気づけば水はそう口走っていた。

「……えっと……」

 色無は呆気にとられ、水ははっと我に返ったが、風に流れた言葉はなかったことにはできない。

「ち、違うんです! 今のは私も色無さんに何かして欲しい、とかではなくて……私も色無さんのことが好き……いえ、そうでもなくて……そうなんですけど——」

 目を回しそうな水を抱き寄せ、色無はゆっくりと唇を重ねた。

「……そうだね。人間の女の子を幸せにできない奴が、座敷童子を幸せになんてできるわけないよな」

 これが初めてというわけではなかったが、いつものように失神寸前になっている水の耳元で、色無は優しく囁いた。

「あのさ、水ちゃん。前から言おうと思ってたことがあるんだけど」

「……はい」

「やっぱり黒と白にはもっと大きな家があった方がいいと思うし……いや、それを理由にするのはフェアじゃないな。今のはなし」

「はい」

「あ〜、その……今すぐ返事くれなくてもいいんだけど……もし水ちゃんさえよければ、近いうちに俺と……」

「はい……」

「俺と……」

 決定的な一言を口にすべく、大きく息を吸い込んだ色無の耳に小さな声が飛び込んできた。

「相変わらず愚図な男だ。水の気持ちは見え見えなのだから、さっさと言えばいいものを」

「少し間を置いて、ムードを作るのだって大事だよ。ね、水ちゃんがOKしたらまたちゅーってするかな? 私はすると思うな。ぎゅーっとしてちゅーって……」

「……お〜ま〜え〜ら〜」

 吸い込んだ息を低くゆっくり吐き出して、色無はずんずんと家の中に歩を進めた。

「ま〜たのぞきか! いっつもいっつも大事なところでくだらん茶々入れやがって! いったい俺になんの恨みがあるんだよ!」

「……え!? だって二人とも、さっきまでぐっすり寝てたのに……いつ起きたの? ていうか……ど、どこから見てたの!?」

「紫ちゃんたちが帰ったあたりからかなあ。急に力が流れ込んできたから、びっくりして起きちゃった」

「二人きりになったとたんに幸せな気分になるとは現金な奴だ。だがおかげで多少は色が濃くなったぞ。さっき接吻してたときなどは、力が多すぎて溢れそうに——」

「きゃー!! 言っちゃ駄目ー!!」

「はあ……まったく、お前ら俺と水ちゃんに幸せになって欲しいのかそうでもないのか、どっちなんだよ……」

 問題が何もかも解決したわけではない。

「色無はともかく、水には家主として幸せになって欲しいに決まっているだろう。お前に嫁いで幸せがあるかどうか、座敷童子として私には見極める責任がある」

 この先、いつまでも座敷童子が見えるという保証はどこにもない。いつの日か突然、二人の姿が見えず、声も聞こえなくなるかもしれない。

「私は二人がくっついたらいいなーと思ってるよ。色無さんが気にしすぎなんだよ。私たちここでこっそり見てるから、さっきの続きをどうぞ」

 水と共に歩む道を選んだとして、子供も見えるとは限らない。

「え!? あ、あの……色無さんさえよければ、私はかまいませんけど……」

 そしていずれは、二人を残して先に逝くことになる。

「いや、そんなわけにはいかないでしょ……タイミングとか、テンションとかあるからさあ」

 きっとこの先、黒と白は何度も辛い思いをすることになるだろう。それでも——。

「まったく……ク、ククククク」

「なんだ? 一人で含み笑いなどして、気持ちが悪いな」

「いや、ちょっとな……まあ、この四人なら何があっても何とかなるかと思ってな。なんたって俺たちは……」

「最強だもんね!」

「最強だ」

「最強だからな!」

 水を除く三人の声が重なった。

「……ふふふ」

「ふっ……ふふふ」

「あはははは!」

 はじけたように笑い出す色無たちのあいだで、水は不満げに頬をふくらませた。

「な、なんですか……何がおもしろいんですか? 私にも教えて下さい!」

 ——それでも、明日の悩みは明日に、その先の悩みはその先に取っておこう。

 やがて水も笑いの輪に加わった。今ある幸せを噛みしめて、色無たちはいつまでも、いつまでも笑い続けた。







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Last-modified: 2012-10-21 (日) 14:41:56