白メインSS

『そして明日の色鉛筆より——?』

無「なぁ、白。もし地球が明日で滅ぶとしたら、何する?」

白「うーん、それじゃあ……結婚式。おっきい教会でしてみたいなぁ」

無「白は洋式派なのか?」

白「だって、女の子なら一度はウェディングドレスは着てみたいと思うもん」

無「白のウェディングドレスか……すごく似合いそうだな」

白「そ、そうかなぁ……えへへ」

無「でも、白無垢ってのも捨てがたいぞ。なんだか凛々しそうな白が見れそうだし」

白「それもいいんだけど、あの頭に乗せるのって絶対に重いよね? ちょっと耐えられないかも」

無「確かにいろいろ飾りがついてた気がする」

白「それに、あーゆーのは黒ちゃんのほうが似合うよ。きっと、かっこいいんだろうなぁ……」

無「……クク、違いない」

白「だから、やっぱりドレス着てみたいなぁ。それに、ほら、指輪の交換もあるし」

無「あー、言われてみれば、和式よりは雰囲気あるな」

白「でも、いちばん大切なのは……その、ごにょごにょ」

無「ん?どうした、そんなに赤くなって」

白「えと、あの、ほら……結婚式で、いちばん大切なこと……あるよ、ね?」

無「一番、大切?」

白「ち、誓いの、き、き……」

無「あぁ、なるほど。あれだ、誓いの言葉だろ? 汝は病める時も健やかな時も、汝の夫を愛し続けることを誓いますか? みたいな」

白「ち、誓いますっ!!!」

無「えっ?」

白「ちょっと違うけど……な、汝は病める時も健やかにゃ時も、汝の妻を愛し続けることを誓いますか!?」

無「今、噛んだよな?」

白「誓いますかっ!?」

無「え、あ……うん、はい、誓います……なぁ、これどこまで本気」

白「で、では、誓いの、えと、……を。ちゅ、ちゅーを、して、ください……」

無「おいおい、白。ちょっと……あ」

白「ん……ちゅっ。えへ、もう神様に誓っちゃったよ?」

無「あのなぁ……あーその、今はまだ無理だから、本物のは、まだ待っててくれないか?」

白「……うんっ、待ってるよ。だから……だから、もう一回だけ……誓いますか——?」


無「風呂はさっぱりするんだけど、長風呂しすぎて熱いな……ふー、あちー」

白「あれ、色無くんお風呂は……ってわわっ、色無くん! せ、洗面所で裸なんて!」

無「おいおい、裸って……さすがに下はズボンはいてるから。ほれ、このとおり」

白「あ、あれっ?ほんとだ……えと、騒いでごめんなさい」

無「いや、気にしてないから平気。それに、悲鳴じゃなかったぶんだけマシだよ」

白「あ。もし私が『色無くんが裸!』なんて大声出したら……」

無「……」

白「え、えへへー……みんな、飛んできそうだね?」

無「……(ブルブル)」

白「だ、大丈夫だって! さっきはそんなに声は大きくなかったし……あ、色無くん、背中に」

無「ん、なんか付いてるのか? おかしいなぁ、さっきまで風呂入ってたのに」

白「違うよ、ほら、まだ拭ききれてなくて濡れてるよ? ほら、ここ」

無「うーん、見えない。白、どこらへんだ? まだ上の方?」

白「あ、私が拭いてあげるよ。それに、バスタオルも持ってきてあるし」

無「もしかして、白はこれから風呂なのか?」

白「うん。それで先に歯を磨こうと思って洗面所に来たんだ」

無「おい、白のじゃなくて俺のバスタオル使って。まだ使ってないのを使わせるなんて悪いって」

白「ううん、いいの。それにほら、もう結構拭いちゃったよ?」

無「むぅ……ほんとにごめん。気が付かなくて」

白「だからぁ、うんしょ……そんなことは気にしないでって……よいしょっと」

無「お、おい。何でそんなに気合入ってるんだ? ……わっ、頭はもう拭いてあるって!」

白「だって、背が高いからっ、なかなか届かないんだもんっ!」

無「そんなに体重掛けられると……く、ちょっ、倒れる——」

白「あれっ? ひゃわっ!」

 ドサッ、ボスッ

無「がはっ」

白「きゅう……はな打ったぁ……」

無「ぐっ、し、しろは、大丈夫か?」

白「うん、なんとかぁ。鼻はいたいけどね」

無「そうか、よかった……それじゃあ、とりあえずどいてくれないか?」

白「え?……あ! ご、ごめんなさい。私、背中から覆いかぶさって、そのまま……」

無「腹ばいで倒れこんだときは、息が詰まるかと思ったぞ……けほ」

白「えと、あの、ごめんなさい……下敷きにしちゃって」

無「怒ってるわけじゃないんだけどなぁ。まぁ、白に怪我が無くてよかったけどな」

白「うん、ありがと……やっぱり、色無くんの背中って、おおきいんだね」

無「そ、そんな風に触られると、くすぐったいって」

白「うん。でも、すごく広い。お父さんも、こんな風な背中だったのかなぁ?」

無「しろ……?」

白「私が覚えているのは、いつも病室を出るときに、悲しそうに丸まった背中だけ……」

無「それは……」

白「もちろん、お見舞いに来るときは元気な顔してたよ?でも、帰るときは決まってそうだった」

無「白の親父さんには会ったことがあるけど、いい人だったぞ」

白「うん、だから余計になのかな。お父さんが悲しそうに見えたのは……気のせいかもしれないけどね、えへへー」

無「馬鹿。それだけ白のことを大切にしていたってことだろ? それに、これからもずっとそうに決まってる。だから、」

白「色無くん……」

無「……今度会ったときは背中でも拭いてやれよ。きっと、俺よりしっかりした背中してるはずだから」

白「うん、そだね。お父さん、喜んでくれるかなぁ?」

無「当たり前だ。実際に体験した俺が保証する」

白「……ありがとう。でも、やっぱり、は、恥ずかしいよぅ……」

無「恥ずかしいって、さっきまで俺の背中を拭いてたじゃないか」

白「それは、だって、特別だから……も、もうっ、お風呂入ってくるねっ!」

 パタパタパタ

無「な、なんだったんだ?……ふぁ、くしゅんっ!」

白「うー、色無くんのばかばかばかっ! ……でも、嬉しかったなぁ……ありがとう、色無くん……」

 湿ったそのバスタオルをぎゅっと抱きしめてみると、彼の背中に抱きついているような気がした。

 背中を伝う指先が触れた、小さな安堵。いつの日か、また触れていたいと願って—— 


 一人暮らしをはじめて一年がたった。いつもは騒がしいほど楽しかったあの頃が、もう懐かしく思える。

 迷惑を掛けたくない一心で、なんとか一人立ちしようと思っていたけれど、結局はいつも誰かに頼りっぱなしなのが情けないままだ。

 だってほら、この部屋には俺しかいないはずなのに、さっきからキッチンの方でいいにおいがしている。

 きっと黄緑さんが作りに来てくれたに違いない。

「いざという時に合鍵は必要でしょう? きっと役に立ちますから」

 って迫られたんだっけ。

 カチャカチャと食器を動かす音も聞こえてきた。そろそろ起きないと。

 なんとかもぞもぞと布団から抜け出そうとするものの、なかなか出られない。何かが上に乗ってるみたいだ。

 また、昔みたいに朱色さんがふざけて上に乗っかってるんじゃないだろうか。それにしてはずいぶん軽いような。

 もしかしたらダイエットに成功したのかも……まさかね。

 なんにせよ、そろそろ黄緑さんが呼びに来る頃だ。急いで着替えないと。

 目を開ける。するとそこには、俺に覆いかぶさって上から覗き込んでいる、小さな女の子がいた。

「はい?」

「ひっ!」

「あ、ちょっと!」

 その女の子は俺が起きたことに気が付くと、ものすごい速さでキッチンへと走っていった。

 そして、ちょうど朝食を運んできた黄緑さんに隠れるようにしてこちらを覗き込んでいるのだった。

「あら、おはようございます、色無さん。朝ごはん、できましたよ」

「お、おはようございます、黄緑さん。いつもすいません」

「いえ、好きでしていることですし。それに、どうしても気になってしまって」

「結局自立できてないってことですよね……」

「そういうわけじゃないんです。ただ、習慣みたいなもので、しないと落ち着かないんですよ」

「そうなんですか?」

「はい」

「……じゃあ、まだお言葉に甘えておきます。黄緑さんが落ち着かなくて、仕事でヘマしないように」

 この人に限ってそんなことはありえないのだけれど、この人の厚意を無駄にしようとはどうしても思えないのだった。

「はい、お願いします。それじゃあ、ご飯並べますね」

「ああ、手伝います。それくらいやらせてください」

「とは言っても、もうほとんど終わってますけどね」

「あー、じゃあ食器洗いは任せてください」

「ではそういうことで」

「それより黄緑さん、この女の子のことなんですけど……」

「あら、そうでした。実は今日、お願いがあったんでした。ほら白ちゃん、おいで」

「……」

 黄緑さんに呼ばれた女の子、白という子は、うつむいたまま何も答えようとはしない。

「まさか、子供産んだんですか? 誰の子なんです?」

「……色無さん、私、そういう類の冗談は好きではありませんよ?」

「申し訳ありませんでした。『院』の子、ですよね?」

「はい、新しく入りました」

「そうですか……」

「それで、お願いがあるんです」

「黄緑さんのためなら、できる限りなんでもしますよ。お世話になってるお礼です」

「……では、しばらくこの子を預かってもらえませんか?」

「……はい?」

「……」

 そうして俺の一人暮らしはたった一年で終わりを告げ、奇妙な二人暮らしが始まった。

 

 我輩は孤児である。両親はもういない。そうなったのは俺がまだ小学校で無邪気に校庭を駆け回っていた頃のことだった。

 両親の突然の自殺。残されたのは少しの遺産と「ごめんなさい」と書かれた遺書だけだった。原因については聞かされていない。

 いや、小さな子供わざわざ説明するような人がどこにいるだろうか?

 ついでに言えば頼れる身寄りもなく、今となっては一生聞くことはできなくなった。別にもう聞きたいとは思わないけれど。

 そういうわけで、俺は孤児院に入ることなった。

 最初こそは環境の変化に慣れずに隅でかたまっていけれど、次の日にはもう笑って院の子供たちと遊んでいた。

 先生や子供たちが励ましてくれたから、というわけじゃない。俺はここに来て早々、笑顔で取り繕うことを覚えた。

 その方が楽だったから。周囲がかわいそうとか同情とかの目で見られることにうんざりしていた日々、笑っていれば何とかやっていける。

 でも、あの人がそんなことを許すはずがなかった。

「何、愛想笑いなんかしてんだ、気持ちわりい。そういうのは大人になってから覚えればいいんだ」

 俺を慰めるんじゃなくて叱ってくれたその人、朱色さんは学生服に煙草という犯罪的な格好で言った。

「ほら、泣けよ。みっともない笑った顔よりはマシだ。ほら、泣け」

 初めて掛けられた本当の優しい言葉に、俺は両親の自殺以来、はじめて泣いた。

「そりゃあもう、すげえみっともなかったぞ」と、朱色さん談。

 当時は園長の娘さんということで手伝いをしていたのだが、未成年が子供の前で煙草って……。

 それから、やがて朱色さんはここの院長となり、黄緑さんは新しいスタッフとして俺の面倒を見てくれた。

 俺はその孤児院ですくすくと成長し、気付けば成年になろうとしていた。

 いつまでも園の世話になっているわけにもいかないのでこうして一人暮らしに奮闘するのだが、黄緑さんが頻繁にご飯を作りに来てくれるのであった。そして、時は現在。

「……はい?」

「……」

 黄緑さんの隣に座る白は、さっきから小さくなったまま沈黙を守っている。

「俺が、この子を?」

「はい、色無さんにしか頼めないんです」

「で、でも、いきなりそういうわけには……」

「だめですか?」

「あー、その……俺、学生ですから。家にいないときもありますよ?」

「できる限りのお手伝いはします。ですから……」

 そう言うやいなや、黄緑さんは頭を下げた。こうなったらこの人は、俺が承諾するまでは頭を上げないだろう。

 目線を黄緑さんから白に移す。彼女は未だにうつむいたままで、その表情を窺うことはできない。

 どうしたものか、と考えを巡らせようとしたその時、ふと白がこちら見ていることに気が付いた。

 ゆっくりと触れ合う目線、そこから見えたものはまっすぐな瞳、その奥にあるものは——。

「わかりました。引き受けます、その話」

「……本当ですか? 本当に、いいんですか?」

「もちろんです。それに……今まで俺が黄緑さんの頼みごとを断ったことなんてありましたか?」

「……一回だけ」

「えっ。あれ、そうでしたっけ?」

「ふふっ、嘘です。一回もありませんでした。色無さんは自分には無理なことだって引き受けようとしてくれましたから」

「普段からお世話になりっぱなしでしたし、朱色さんの分まで働いてて大変そうでしたからね」

「朱色さんは朱色さんで、大事なときにはしっかり活躍してくれていますよ?」

「いつもそうならいいんですけどね……このことを朱色さんは何と?」

「色無さんに全部任せる、だそうです」

「まったく、ホント適当だなぁ。とってもらしいけど」

「うふふ、そうですね」

「……白?」

「……!」

 俺にいきなり声を掛けられて、彼女の肩がびくっと震えた。うつむいた顔が再びゆっくりと上がる。

「君は、どうしたい?」

「……」

 やはり返事はない。それもあたりまえ、相手はまだ子供、小さな女の子なのだから。

 無理を押しつけるのも酷な事だが、無理矢理にはできない。子供ゆえの難しい決断を迫らせなければならないのは苦しかった。

「……わ、わたしっ」

 ぐう〜。

「す、すいません。おなかすいてて……」

「もうっ、色無さん! こんな大事なときに……ふふ、とりあえずご飯にしましょう。あ、お茶入れてきますね」

「ありがとうございます」

 そう言うと、黄緑さんはお茶を取りにキッチンへと向かう。その間手持ち無沙汰だったので、なんとなく白の方を見てみる。

 すると、彼女がうつむいたまま肩を震わせていた。まずい、何があった?

 一瞬嫌な光景が脳裏に浮かんだが、慌てて振り切って白の顔を覗き込む。

「おい! どうした! ……?」

「……ぷっ、ふふっ、おなかがっ、ぐ〜だって……ぷっ」

「あ、あれ? 白ちゃん、笑って……?」

 どうやら、さっきの俺の腹の虫がツボに入ったらしく、必死に笑いを堪えているようだった。

 そして、俺が覗き込んでいることに気が付くと、慌ててその表情を隠すのだった。別に、普通に笑えばいいのに……。

「なんだよ、脅かすなって……嫌な汗かいた」

「あら、色無さん。どうしたんです? そんなにぐったりしちゃって」

「いや……ただ、拍子抜けしただけです」

「どういうことです?」

「大丈夫、何てことないですから。ほら、食べましょう。もう我慢の限界ですって」

「ならいいんですけど……では、いただきます」

「いただきまーす!……さ、白も一緒に。いただきます!」

「……いただきます」

 さっき笑っていたときとは打って変わって表情に乏しかったが、それでも初めに見た時よりはずっといい顔をしている気がした。

 そして、そんな白を見てニヤニヤしている俺を見ている黄緑さんは、心配そうな顔をしながら朝食の時間を始めるのであった。

 

「さて、食事も終わったわけだし、それそろ今後のことについて……」

「しーっ。色無さん、ほら、白ちゃんが……」

「すー、すー……」

「あー、寝ちゃったか……困ったな」

「きっといろいろ疲れたんでしょうね。これからどうしましょうか?」

「とりあえず、院に行きましょう。いちおう荷物取りにも行けるし、朱色さんに聞きたいこともありますし」

「そうですね……じゃあ、車まわしてきます。白ちゃんはお願いしますね」

「わかりました」

「それでは」

 車を取りに出ていった黄緑さんを見送ってから、改めて白を見てみる。

 子供の寝顔は本当に天使みたいだな、と思わせられるくらい綺麗な寝顔だった。

 とても孤児院に入っているとは思えない、普通の子供となんら変わりなく見える。

 しかし、院に入る子供はみんなそれなりの理由を持っているのだ。そう、俺も……。

「よし、帰るか……なんだか久々だな」

 と言いつつ立ち上がってみたものの、まずはどうやって白を起こさないようにして車へ運ぼうかしばらく考えなければならなかった。

 

「おー、久しぶりじゃねーか!」

「痛い、痛いですからぐーで殴るのは止めてください」

 手荒い歓迎で出迎えてくれたのは、この院で一応一番えらい人、朱色さんだった。

 小さい頃から黄緑さんと合わせてお世話になった人で、俺はこの人たちには一生頭が上がらない。

 とはいえ、この人は本当に適当な所があったりいいかげんだったりするので、大半は黄緑さんが忙しい目にあっているのだけれど。

「お久しぶりです。相変わらずですね」

「そうあれこれ変わっても困るだろ?」

「せめて真面目な方に変わってもらえればいいんですけど」

「いいんだよ、アタシはこれで。それで? 今日はどうした。ここが恋しくなったか?」

「とぼけないでください。本当は分かってるくせに」

「あー、そのことな……白は今どうしてる?」

「黄緑さんがここの部屋で寝かせてます。うちに来たときに疲れて寝ちゃったもんで……今もそのままです」

「丁度いいか……ちょっと付き合え」

 朱色さんはそう言うと俺に背を向け、院の廊下を歩き出した。俺はそれに習って少し後ろを歩く。

 朱色さんは話がある時、決まって自分の部屋に連れて行く。

 ちなみにこの院の唯一の喫煙スペースはそこなので(黄緑さんがここに来てから厳しく注意されたそうだ)、それは煙草を吸うことに他ならない。

「まだ煙草吸ってるんですか?」

「当たり前だろ。命の次に大切なものだからな」

「ちなみにその次は?」

「ククッ、言うまでもないだろ。よし、今夜は付き合え。飲むぞ」

「はぁ……ほどほどにしてくださいよ? 黄緑さんに怒られるのは朱色さんだけじゃないんですから」

「違いない」

 それでも朱色さんは楽しそうに笑う。こんな煙草と酒が大好きな人が、この孤児院の院長だなんて誰が想像できるだろうか?

 でも俺も、黄緑さんも、この院にいる人はそんな朱色さんが大好きだ。朱色さんがいなければ、この院はきっと成り立たない。

 そして、この人がいるから、俺やみんなは安心して暮らせる。そんな不思議な人なのだ。

「着いたぞ。ぼーっとしてないでさっさと中に入れ……何か悩んでんのか?」

「そりゃあいろいろありますけど……大好きですから」

「はぁ?」

 朱色さんが火をつけようとしていた煙草がぽろっと落ちたが、気にしないで部屋に入ることにした。

「それで、一体どういうことなんです? いきなり女の子を預かれだなんて」

「まぁ、座りな。ちゃんと話すから」

案の定、朱色さんは煙をふかしながら話し始めた。しばらく煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出してから言った。

「色無……正直、あの子のこと、どう思う?」

「どうって、普通……ではないんでしょうね。院に預けられているってことは」

「まぁ、な」

「でも、あの子だって寝顔はかわいいもんだし、笑ったり——」

「今何て言った!?」

 突然の朱色さんの大声に思わず肩がすくむ。大の大人も真っ青で大抵の人はこうなるが、今日はいつもとは少し違うようだ。

「何って、あの子も笑うって……」

「それ、間違いないか?」

「え、ええ。少しだけですけど」

「何に笑ったんだ?」

 めったに見せない真剣な表情が突き刺さる。その迫力に圧倒されつつも、何とか答える。

「その、俺のおなかが、ぐーっと鳴りまして……」

「……ぐーっと?」

「はい、ぐーっと。あれ、なんで鳩が豆鉄砲食らったような顔してるんです?」

「……ブッ、ははははっ、なんだそれ! あっはっは!」

「ちょ、ひどいですよ、そんなに笑うなんて」

「だって、たったそんなことで……プッ」

「こっちはとっても恥ずかしかったんですけど」

「ひー、笑い死ぬ……うわっち! 熱っ!」

 オーバーリアクションのせいで煙草が足に落ちていた。やーい、自業自得。

「ふーっ、まぁ冗談はさておき、笑ったのは間違いないんだな?」

「はい。でもそれってそんなに気になることなんですか?」

「……あいつな、笑わないんだよ」

「何言ってるんですか。さっき笑ったって言ったでしょう?」

「いや、そうなんだけどな……ここにいる間、アタシはあの子が笑っているのを見たことがない」

「まさか……」

「無理もないさ……あの子の両親も、お前と同じだからな」

「え?」

「子供を残して死ぬのと、子供と一緒に死ぬ……どっちも正しくはないが、どちらがまだ幸せなんだろうな……」

「……」

「一体どういう経緯でそんなことになったかは分からないが、その後のことはお前もわかるだろ?」

「……はい」

「だからだよ、あの子を預けようと思ったのは。アタシじゃあの子の力にはなってやれない」

「らしくないですよ。だって、現に俺はこうして生きている。それではダメですか?」

「ありがとな。でも、アタシじゃ届かなかった。そして色無はあの子に届いた。それは自身で見たんだろ?」

「それは……」

「それに、きっとあの子の抱えているものは、お前のものよりずっと重い。だから、頼む。あの子を助けてくれ」

 あの朱色さんが、俺に頭を下げるなんて……黄緑さんといい、今日は夢を見ているのかもしれない。

 けれど、二人の決意の重さが夢ではないと訴えている。二人とも白のことを大切に思っているからこそ、こうして頭を下げている。

 そんな二人の決心を受け止めきれるのだろうか? それでもあの子の、白の顔が忘れられない。ならば、俺は——。

「はぁ、二人してこうも頭を下げられちゃ、断ることなんかできませんよ」

「もともと断られるとも思ってないけどな」

「……はぁ」

「ククク、まぁ、頼むぞ?」

「はい。後は、本人の気持ちしだいなんですけどね……」

「そうだな……でも、大丈夫だろ」

「ずいぶん自信ありますね?」

「ただの勘だよ」

 そう言って煙草をふかす朱色さんの顔は、いつもより嬉しそうだった。

 

 翌朝目を覚ますと、見慣れない天井が目に付いた。辺りを見渡すと、中身のないビール缶の山と、数本のワイン瓶が散乱していた。

 そして、起き上がった時に、さっきまでかぶっていただろう毛布がするりと落ちた。

「昨日は確か……」

 昼間から貴重な男手として重労働をさせられた挙句、そのまま朱色さんの酒盛りに付き合ったせいで酔いつぶれたらしい。

 毛布はきっと黄緑さんのおかげだろう。

「今日が休日でよかった……」

 寝ぼけながらそんなことをつぶやくと、なぜか隣には缶を握りつぶしたまま寝ている朱色さんがもぞもぞと寝返りを打った。

 時計はまだ昼前を指しているが、朝というにはもう遅い。結局あれから白にも会えていないし、やるべきことも多い。

「その前に朝飯を……残ってるかな?」

 朱色さんを起こさないように部屋を出て、朝食を求めて院内をさまよう。朝食のことを考えながらも、頭の大半を占めるのは白のことだ。

 まずは、落ち着いて話し合うことからはじめないと。未だに会話らしいものもできていないのが痛い。

「まずはきっかけが欲しいな……とはいえ、何がある?」

 この院にはわけありな子供がいる以上、NGワードやら禁句は多い。わずかなことでも、子供の心は壊れてしまう。それをうまく避けるにはどうすれば……。と悩んでいると、正面から洗濯籠を運ぶ黄緑さんが見えた。俺に気付くと、パタパタと走ってきて挨拶をしてくれた。

「おはようございます、色無さん」

「おはようございます……あ、毛布ありがとうございました」

「いえ、お気になさらずに。朱色さんも久々に飲むって言って楽しそうでしたから」

「あの人は普段から十分飲んでるんじゃないんですか?」

「ええ。でも、誰かと飲む機会はあまりないみたいですし、私は下戸ですから」

「まぁ、たまには付き合ってあげてください。昨日はいくらなんでも飲みすぎですって……俺が来るたびにこれだと、体もちませんよ?」

「うふふ、前向きに検討させていただきます」

「どこの政治家ですか! ……これから洗濯ですよね? 俺も手伝いますよ」

「けど、朝ごはんがまだでしょう?」

「それに聞いてもらいたいこともありますし……」

「そういうことなら、早く済ませましょうか?」

「はい」

 そうして、黄緑さんと外の物干しへと向かう。外に出ると、もう高くなった日がまぶしかった。

 俺は代わりに運んだ洗濯籠を下に置いて、黄緑さんと手分けして干し始めた。

 量はちょっとしたもので、しかもそのほとんどが子供用のものなので、意外と数は多い。

 次々と手早く干しながら、俺は黄緑さんに思っていることを話し始めた。全てを聞いてしばらく考えた後、黄緑さんは口を開いた。

「色無さんなら、どうして欲しかったですか?」

「俺、ですか?」

「私達、この院の大人たちは長くこの仕事をしていますから、どうしてもその禁句を無意識に避けてしまうんです。そして、子供たちもそれを無意識に感じているんだと思います。きっとその辺りじゃないでしょうか?」

「というと?」

「そこが、私達と色無さんの違う所ですよ。私達が届かなくて、貴方だけが白ちゃんに届いた理由は」

「だから、俺だけが……」

「はい。それに、お二人は似た境遇でしょう? だからきっと色無さんが当時求めていたもの、それが答えなんじゃないでしょうか?」

「俺は、何を求めていた……?」

「難しく考えないで。案外答えは近くにあるものですよ」

 やっぱり黄緑さんには敵わないなぁ。というか、改めてこの人のすごさを知ることになった。

「黄緑さんって、やっぱりすごいですよ……他にも向いてる仕事があったんじゃないですか?」

「いいえ、そんなことありません。私だって支えられている側の人間ですし、それに、この仕事も大好きですから」

「でも、黄緑さんを支えられる頼もしい人なんていましたっけ?」

 ふとそんな疑問が湧いたけれど、彼女は楽しそうにこう返すだけだった。

「ふふっ、『答えは案外近くにあるものですよ』?」

 

 黄緑さんの助言を基に幼かった自分を振り返ってみる。あの頃の自分はどうだったっけ? どんなことを考えていた?何を望んでいた?

「難しく考えすぎか……これじゃあ駄目だな。一体どうすれば……ん?」

 歩いていた廊下の奥に光の漏れている部屋を見つけた。よく見れば部屋の扉が少し開いている。

 そして、ドアの傍らに立つ朱色さんは、俺を一瞥するとわずかに顔を伏せた。まるで、自分にできることはここまでだと言わんばかりに。

 ここまで来たら、もう後には引けない。俺は、その扉から中を覗く。そこは、なんてことのない、ただの部屋。

 しかし、ここに住んでいるのは女の子なのだ。普通の女の子の部屋を俺はよく知らないけど、それでも分かる。

 ここには何もない。小物も、人形も、そして部屋の主の心さえも。その中にぽつんと置かれた女の子はあまりにも悲しすぎた。

 顔を伏せたい、目を逸らしたい、こんな悲しい姿は忘れたい。でも、なんでだろう。不思議と幼い自分が彼女に重なって見えた。

 あぁ、悲しい記憶。けれど、当時の自分はそんな悲しみさえ感じる余裕さえなく、空ろな日々が続くだけだった。

 ただ、満たして欲しいと願い続けていた。誰でもいい、空っぽな自分を受け止めて、包んで欲しかった。

 そんなことをしてくれる、家族が欲しかった——。

 気が付けば俺はその小さな女の子を、在りし日の自分を、痛いほどに抱きしめていた。そして、あの日の自分の願いに応えるように囁く。

「一人じゃないよ、俺がずっと側にいるから」

「……っ」

「泣いていいよ。泣かないよりはずっといい」

 強く抱きしめた力を少し緩め、今度はその背中をゆっくりと撫でる。俺の気持ちは届いているだろうか?

 不安が幾度もよぎったが、しばらくして嗚咽が漏れてきたので少し安心した。俺は、この子が体を委ねられる程度の人間であったのだと。

 今度は頭ごと全てを包むように抱く。俺に、全てを任せて欲しい。きっと受け止めてみせる。だから、少しでいいから信じて。

 言葉には出さないけれどこの腕から、この体から伝えよう。噛殺そうとする嗚咽はもはや止まらない。せき止められた感情が溢れてくる。

「……おとう、さん……」

 一瞬、胸が締め付けられるような思いがした。けれど、俺はそれに心からの気持ちを返そう。

「うん、ここにいる」

「……っ! お、とうさん……」

「……うん」

「おとうさぁん……!」

「うん」

「……っ、おとう……さんっ!」

「うん」

「おとうさぁぁぁぁぁぁん!!!」

「うん、ここに、いるよ」

 気休めなんかじゃない、この時、俺は本当の白の父親になりたかった。白の望みに応えたかった。彼女の隙間を埋めたかった。

 自己満足でも、同情の類でもない。けれど、そこに俺は自分が満たされていくことを感じつつあった。彼女も、同じ気持ちなのだろうか?

 泣きじゃくる姿からは何もつかめなかったが、そうであったら嬉しいと思った。

「それじゃあ、また来ます」

「おう、今度は酒も持って来いよ!」

「はは、勘弁してください……」

「私たちは明日の朝にまた会えますね。明日から三人分の朝食ですか……腕が鳴りますね」

「それは期待してますけど、ほんとに毎朝ウチに来てくれるなんて、大丈夫なんですか?」

「はい。週四も毎日もあまり変わりませんし、それに私もお手伝いしますって言いましたよね?」

「げ、おい黄緑、お前そんなに色無のところに通ってたのか? もう立派な通い妻……」

「……本人にはまったく自覚無しなんですけどね……うふふっ」

「あー、ごほん! まぁ、頑張って手伝ってやってくれ……」

「はいっ! その代わり、朱色さんには一層、仕事を頑張ってもらいますからね?」

「……色無、頼むぞ」

「ぜ、善処します……そうだ、ほら、白。みんなに挨拶しないと」

「……あ、あのっ」

 慣れない言葉を紡ごうとする白は、まだまごついて苦しそうだったが、皆が暖かいまなざしで見つめていることに気づくと恥ずかしそうにしながら言った。

「ありっ、がとうございました……」

 最後のほうはもう俯いていたし、声も消え入りそうになっていた。少しびくびくしている所は以前とあまり変わらないようだ。

 朱色さんは仕方ないか、と言わんばかりに肩をすくめ、黄緑さんは苦笑いをこぼした。

 そして、朱色さんは白の頭をつかんだかと思うと、くしゃくしゃとかき回した。

「気にすることはないさ。あんたたちが幸せなのがアタシの幸せなんだ。だから、元気で、な?」

「私はいつでも会えますから。これからもよろしくお願いしますね」

「……はい」

 今度の声は、小さくてもやけにはっきりと聞こえた。

黄緑さんの車で家まで送ってもらい、二人で玄関の前に立ってみた。この小さなアパートのドアは、彼女にはどう見えているのだろうか?

 未だにコミュニケーション不足で、いまいち会話も成立しにくくあるものの、なぜか悪い心地はしない。

 これがどういうことなのか分からないけれど、今はまだこのままでいいと思う。まだ始まったばかりなのだから。

 不意に、傍らに立つ白が俺の手を握り締めてきた。伝わる感情は、戸惑い。それを包み込むように彼女の手を握り返す。

「さ、帰ろう。今日はもう疲れたろ?」

 そう言ってドアを開け、玄関へと足を踏み入れてから白へと振り返る。

「おかえり、白」

「……ただいまっ」

 バッと飛びついてきた白をかがんで抱きしめる。どうやら俺たちは、まだ言葉で伝えるのが苦手なようで、こうしてくっついていないと単純な気持ちさえ伝えられないらしい。不便というか、原始的だなんて思ったりもするけど、たぶん一番簡単で、一番精密なやり方なんじゃないかな。指先ひとつだけでも、思いは伝えられる。ただ、伝えられる相手は自ずと限定されるわけで、親しい間とか、信頼関係の上で成り立ったりとか、家族同士ぐらいだけしかできないって思う。けれど今の俺たちは、家族にはかなり遠い。血縁や親密さや二人が築いた時間さえ少なく、おまけに二人とも心のどこかが欠けたまま生きてきた。それでも、二人が願っていた『家族』の姿は俺たちを繋ぎ止めてくれた。一人では届かなかった願いも、二人だったからこそ届いた。だから、これが二人のスタートライン。

(……わたしたち、『かぞく』なのかなぁ?)

(白はどんな『かぞく』になりたい?)

(んーと、たのしくて、わらってて……ずっといっしょにいる)

(それならもう大丈夫だ)

(どうして?)

「だって、俺はもう楽しいぞ? 白はどうだ、楽しくないか?楽しければ自然と笑えるし、それに……」

「それに?」

「『家族』はずっと一緒だ。これからもずっと、簡単に消えたりはしない」

「……ほんと? ほんとにほんと? いなくなったりしない? わたしをおいていかない?」

「ああ、本当だ。だって俺は白の——」

 ぐ〜〜っ。

「おなかが……ププッ、あははははははっ!! またっ、おなかがっ……くくっ」

「いや、これはだな、その、安心したらつい」

「ふふっ、ふーっ、はぁー、おなか痛いよぅ……」

「な、情けない……」

 きゅー。

「えへへー……ねぇ、ごはんにしよう? わたしもおなかすいちゃった」

「ククッ、そ、そうだな」

「あ、あんまりわらわないで……おあいこだよっ!」

「うん、おあいこだ」

 ほら、気づいてるか? もう俺たちはこんなに笑いあってる。楽しいし、一緒にそれを共有してる。これが『家族』なんじゃないかな?

 あんなに一人で悩んでいたのに、一人で苦しんでいたのに、二人なら何てことないんだ。他でもない二人が『家族』を望んだから。

 少し拗ねた白の頭を、優しく撫でていく。この気持ちが伝わればいいと願いをこめて。

「これからもよろしく、白」

「うん……お父さん」

「! ……あぁ、よろしくな」

 立ちふさがる問題は多い。それこそ数え上げるのにきりがないくらいに。けれど、この一瞬に繋がった気持ちさえあれば何でも乗り越えられるんだ。それだけの力をこの小さな子からもらった。俺たちは歳も性別も血縁も違う。それでも繋がりあえる『家族』を今は持っているから、だから、生きていける。生きる喜びを、『家族』の暖かさを、ありがとう。


白「——うん、うん、大丈夫。心配ないから。それじゃあ、また……うん、バイバイ」

 ピッ

白「……ふぅ」

無「おつかれさま。缶ジュースだけど飲む? お茶かコーヒーしかないけど」

白「わ、ありがとう。じゃあ……お茶のほうで。それより、どうしたの? 何か私に用事でもあったの?」

無「いや、立ち聞きするわけじゃなかったんだけど、さっきからずっと長電話みたいだったからノド乾いてると思ってさ」

白「うん、実はお父さんからで……心配してくれるのは嬉しいんだけどね。小一時間はちょっと……あはは」

無「あー……ご愁傷様。そんなに長かったんだ?」

白「でも、仕方ないよ。お父さんの心配性はきっと私のせいだから。私の体がボロボロだったから、だから……」

無「……違う」

白「えっ?」

無「何でも自分のせいにしようとするな。自分の娘を大切にしない親父なんているわけないだろ。心配しすぎて何が悪いんだ」

白「そうかな?」

無「そうに決まってる。もし俺が白の親父だったら、電話だけじゃ不安だし、きっと離れてなんか暮らせないと思うぞ」

白「……ほんとに?」

無「あぁ、こんなに可愛い娘を一人になんてさせられるわけ……ってあれ? 俺、なんかおかしなこと言ったか?」

白「……ふふふっ。ううん、今頃、お父さんはとーっても心配してるんだろうなぁって思って」

無「んー? まぁ、白の親父さんの代わりとはいかないけど、安心してもらえるように頑張るから、いつでも頼りにしてくれよ」

白「色無君の場合、逆効果だと思うけどなぁ……」

無「何か言ったか?」

白「いーえ、なーんにも。頼りにしてますからね、お父さん?」

無「ブフッ!!! ……な、なんだって?」

白「もう、コーヒーこぼすなんて汚いよ。しっかりしてよ、お父さん」

無「ちょ、ちょっと落ち着こうか、白。確かに親父さんの代わりとは言ったが、決してそういう意味じゃなくて……」

白「うーん、パパの方がよかったかなぁ? パパ、今拭いてあげるから、ちょっと動かないでね」

無「あ、えと、うぁ、ま、待てって——!」

 ねぇ、お父さん。お父さんは私のことをとっても心配してくれてるけど、私はすごく元気です。

 だって、優しくて、頼れて、まだちょっと内緒だけど大切な人がここにはいるから。だから大丈夫だよ?

 お父さんにも、それからお母さんにも私の元気が伝わればいいなぁ、なんて。それじゃあ、また電話するね……。


『大人になる少し前』

 私だっておんなのこだから、いつだって綺麗でいたいと思う。特に……大好きな人の前では。

 けれど、私は普通の「おんなのこ」ではなかったから、これまで自分を着飾ることはできなかった。

 病院生活では成し得なかった——お化粧もおしゃれできなかった、別に必要もないと思っていたあの頃。

 でも今はもう違う。あの頃では知ることもなかった、大切な気持ちがあるから。人を好きになる、この気持ちが……。

「わわっ! もう待ち合わせの時間だっ。急がないと……」

 気が付けば、もう予定時刻の1分前だった。雨続きの週末も区切りが付いて、久しぶりに出掛けるので浮かれていたみたいだ。

 きっと色無くんは律儀に10分前ぐらいには待ち合わせ場所にいるんだろうなぁ。そう思うと気がせいてしまう。

「あーもう、もっと早くに起きればよかったなぁ……髪は、大丈夫かな?」

 髪のセットは念入りに。たぶんいつもの倍ぐらいの時間はかかっていると思う。長さもあるので相当なものだけれど。

 それでも、こんなに遅れてしまうのには少し違う理由があった。

「色無くん、気づいてくれるかなぁ……あ、もう出ないと!」

 急いで部屋を出て、待ち合わせ場所の寮の門の前まで。少し早足になるけれど、髪が崩れないように注意して。

 そのせいで余計に時間がかかってしまったけれど、色無くんはそんなに気にしていないように声をかけてきた。

「おはよう、白」

「お、おはよう……ごめんね、待たせちゃって。あのぅ、すごく待った?」

「いや、そんなに待ってないよ」

 きっと、嘘。でも、その心遣いがとても嬉しくて、妙にくすぐったくて、私は俯いてしまう。でも、感謝の気持ちを伝えて。

「うん、ありがと……」

「どういたしまして、ってのも何か変かな?」

「そうかも、ね……ふふっ」

「よし、それじゃあ行こうか。んー、久々にいい天気だ。ほら、こんなに太陽がまぶしい」

「……ほんとだ」

 そう言って、私は自分の手を太陽に透かしてみる。太陽光を遮る私の手は、何故だか今日はやけに綺麗に見える。

 いつもならやせ細って折れそうだなぁ、なんて感じてしまうのだけれど。今日だけは、少し違った。

「うん、頑張ったよね。結構練習したし、上出来だよ、絶対」

 思わず独り言をつぶやいてしまった、また遅刻の主な原因でもあるそれは、このマニキュアのせい。

 少しでも大人っぽく見せたくて、色無くんに褒めてもらいたくて。おんなのこなら、きっと誰でも思うはず。

 それでも、当の本人は未だにそのことに気付く様子はないようで、そのことに少し寂しくなる。

「でも、こういうことには鈍いからなぁ……色無くんのばーか」

「んー、呼んだ?」

「ううん、別に」

 悔しいけれど仕方ない、おんなのこの戦いは水面下の戦い。見えないところで戦ってこそのものなのかもしれない。

「あれ、白……なんかいいにおいがする」

「えっ? 香水とかはつけてないけど……」

「なんだろ、フルーツっぽい感じなんだけど」

「うーん……あ、もしかしてリップかな。この前、新しいのに変えてみたんだけど」

「あー、リップかぁ。なんか、言われてみるばそうかも。あれ、もしかしてちょっと化粧してる?」

「う、うん……」

「そのリップ、似合ってるよ」

「……ほ、ほんとに?」

「うん、綺麗だ」

「そ、そうかな……あー、ほら、そろそろ急がないと! 時間が……」

「それもそうだな。それじゃ、ちょっと急ぐか……白」

「なに?」

「手、繋ごう。走るから転ぶと危ないし」

「……はいっ!」

 今はまだ、私には早いことだったのかもしれないけれど、今はこれだけでも十分な気がする。

 これから少しづつ、だんだんと増やしていけばいい。きっとこの人は、少しづつ気付いてくれるはずだから。

 私は私のままで、色無くんの隣を歩いていこう。そう決心した、大人になる少し前のこと。


『猫』

白「あ、色無くん、見て見て! 猫だよ!」

無「ホントだ」

猫「にゃー」

白「にゃー、だって! 可愛いー!!」

無「こいつ、人懐っこいな」

猫「なー」

白「猫くん、君はどこからきたのかな?」

猫「にゃー」

白「きゃー♪ 返事してくれた!」

無「……」

白「肉球もぷにぷに〜」

猫「みー」

白「君はホントに可愛いねえ。ね、色無くん?」

無「……あ、ああ! そうだな! 可愛いな!!」

白「? なんでちょっと慌ててるの? 変な色無くん」

無(……猫よりも白のほうが可愛かったなんて言えないって)


 私は、生まれつき体が弱くて、だからこそ、周りのみんなに守られていると思っていた。

 実際は、みんな私を避けていただけだって気づいたのはいつだっただろう。

 本当の自分なんて、自分でもわかっていなかった。ただ、周りの意見に頷くだけ。

 あの人に会うまで、私はただの飾りだった。

「もうちょっと自分で主張しなさい。そのうち皆に忘れられちゃうわよ? 怖いなら私が一緒に手伝ってあげるから」

 単刀直入。一刀両断。そんな言葉がぴったりくる。

 思わず噴出してしまうくらい、ハッキリとしたヒトだった。

 あのヒトの隣で、私はやっと私を見つけられた気がした。

「私はここにいるの。気づいて」

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白「——ん、んっ……」

無「白、起きたか」

白「……あ、あれ、ここ……どこ?」

無「保健室。二限のときに倒れたんだ。覚えてるか?」

白「えっと……うっすらと」

無「最近調子がよかったから油断してたよ……気付いてやれなくてごめんな」

白「ううん。それより、私、また助けられちゃったね……」

無「気にするな」

白「うん。でも、ありがとう。今何時?」

無「そろそろ昼休み終わるとこ。まだ保健の先生は戻ってないみたいだけど」

白「じゃあ、そろそろ戻らないと」

無「まだだめだ。先生が戻るまではじっとしていた方がいい」

白「でもっ——げほっ、げほっ、カハッ!」

無「おい! 白! しっかりしろ!」

白「ゴホッ……あ、だいじょ、ぶ、だから……」

無「待ってろ、今、先生呼んでくる——」

 ぎゅ

無「えっ?」

白「ま、まって、すぐおさまるから」

無「何言ってんだ! 無理するんじゃない!」

白「カハッ、すぐ、おさまるから、おねがい、ゴホッ、ひとりに、しないで」

無「白……」

 ぎゅっ

白「おいていかないでよ……」

無「背中さすってやれば、少しは落ち着くか?」

白「……ごほっ……う、ん……ちょっと、らくになってきた……すぅ」

無「……寝たか。さて、先生を探しに——」

 ぎゅうっ

無「……動けないなら、仕方ないか。大丈夫だ、そばにいるから。だから今は、ゆっくり寝てろ……おやすみ」

白「……う、ん……」


白「ごめんね、色無君」

無「謝るなよ、白は悪くないんだから」

白「でも、せっかく一緒にお出かけしてくれるって」

無「いいって、まずは元気になろうな」

白「うん、ありがとう、色無君」

無「やっぱりその方がいいな」

白「え?」

無「ごめん、より、ありがとうの方がうれしいってこと」

白「……あ、うん」

無「りんごでも食べるか?」

白「え、えっと」

無「大丈夫、練習したからな、もう血まみれのリンゴとはさよならだ」

白「……うん、それじゃあお願いします」

無「じゃあ、ちょっと待っててくれな」

白「はい」

無「よし、なんとかできた」

白「あ、うさぎさん」

無「ウサギに見えるか?」

白「うん、見えるよ。なんだか食べるのがもったいないくらい」

無「いや、そこは食べてもらわないと俺の立場が」

白「うん、いただきます」

無「……」

白「おいしい」

無「そっか、よかった」

白「ありがとう、色無君。お礼に絆創膏つけなおしてあげるね」


無「ただいまー」

白「おかえりなさーい」

こんにちわ、色無です。こちらは奥さんの白です

無「ふー……」

白「?どうしたの?」

無「いや、なんでもないよ」

白「ふーん?」

言えません。最近何だか仕事がつまらないというか、やりがいを感じられないなんて

ぎゅっ

無「!?白さん!?どうしたの急に抱きついたりなんかしちゃったりして!?」

白「……話してほしいな」

無「白?」

白「私はずっと色無君に助けてもらってた。これからは、私も君を助けたいの」

そうなのです。白はずっと体が弱かったので、俺(と黒)がよく気にかけていました。

それが白との馴れ初めでもあったりします。今ではだいぶ体の調子が良いみたいですが。

白「何か迷ってるなら、言ってね?私達、ふ、夫婦なんだから」

赤くなっちゃって、とてもかわいいです。我が人生に一片の悔い無し。いや白を残して逝く訳ありませんが

白「私はとっても幸せだよ?君とずっと一緒にいられるから」

この笑顔の為なら。どんな白黒な日常も途端に彩りを加えたみたいにきれいに見えてきます

無「ありがとな、白」(ちゅっ)

白「こちらこそ、ありがとね」

この笑顔の為。そんなささいな、けど確かな生き甲斐が有るのなら。がんばっていける様な気がします

白「今度は、私達の子供にも優しくしてあげてね?」

無「おう、まかせろ……って、それはまさかそういう意味!?」

白「ふふ♪がんばって♪お・父・さん♪」

また一つ、生き甲斐が増えそうです


白「たまには散歩もいいね。最近は天気がちょっと残念だけど」

色「まあな。突然雨が降ったと思ったら、今度は晴天って……」

白「今日はちょっと暑いね……汗かいちゃう」

色「あっちの木陰で休もう。それと飲み物でも」

白「さーんせーい」

  わんわん!

白「あ、わんこだ。かわいい……」

 「ごめんなさい。この子が急に吠えてしまって」

色「あ、いえ、気にしないでください」

白「この子、なんて名前なんですか?」

 「シロって言うんです。毛が真っ白なんで」

白「君も、シロなんだね———————」

色「……うちのシロも、かわいいもんですよ」

白「え、ちょ、ちょっと、色無くん……」

 「まぁ、そちらもシロちゃんなんですか? 奇遇ですね」

色「ええ、うちのシロはいい子なんですけど、ちょっと危なっかしいところもあって」

白「えと、それって……」

色「だから、ずっと傍にいてやりたい、って思うんです。過保護すぎるなぁとは思うんですけどね」

 「よっぽど、大切に思ってるんですね、シロちゃんのこと」

色「はい」

 「それじゃあ失礼しますね。今度は、そちらのシロちゃんも一緒に」

色「ええ、また……くくっ、さ、そろそろ行こうか、白ちゃん?」

白「うー……わんわん……」

色「お、怒るなよ……デザートでもおごるから」

白「くぅーん……ほんと?」

色「ほんとほんと。ほら、行こう」

白「わん!」

色「……かわいいやつめ」

白「何か言った?」

色「なんでもないよ」


白「ちょ〜う〜ちょ〜、ちょ〜う〜ちょ〜、菜ぁのぉ葉ぁにぃとぉまぁれー♪ 菜ぁのぉ葉ぁにぃとーまったーら……えーっと……とーまったーらぁ……こぉのぉゆぅびぃとまれー」

黄「とぅっ」(はしっ)

無「よっと」(はしっ)

紫「ていっ」(はしっ)

空「はーい」(はしっ)

黄緑「ふふ」(はしっ)

白「……!(なんとなく歌っただけなのにぃ……)」

白「えと……このゆびとぉまったーらー……」

白「……その手を上にぃー」

 ススッ……

朱「おい、なんだあの集団。新手の宗教か」

黒「たとえ何があっても私は白についていきます」

朱「や、そうじゃねぇよ。っていうかそうなる前に止めてやれよ友達として」


無「おはよう、白。はい、体温計」

白「ありがと」

無「それじゃ血圧と脈拍測るぞ」

白「うん」

無「とりあえず熱もないし、血圧も脈拍も正常値だな。何か変わったことはない?」

白「なんだかお腹が……」

無「おい、白、先にそれ言ってくれよ! 大丈夫か!?」

白「お腹が、空いちゃった……」


『全裸待機とは何か』

「ねぇ色無くん、『ぜんらたいき』ってなあに?」

「……うん? ごめん白、もっかい言ってくれる?」

「『ぜんらたいき』。橙ちゃんから教えてもらった言葉なんだけど、意味がよくわからなくて。聞いてみたけど、『色無のほうがよく知ってる』って言われたから」

「白や、お前はそんなことのためにわざわざ俺の部屋までやって来たのか?」

「だって気になるんだもん。んー、『ぜんらたいき』って、やっぱり漢字で書いたら、その……」

 『全裸待機』しかないよな、もちろん。お前の考えてる通りだ。ああ、そんな恥ずかしそうにすんな。どうせ『こういう字を思い浮かべちゃう私ってやらしい子なのかな』とか考えてるんだろうけど、この音から連想する漢字なんて誰でも同じだ。

「と、とりあえずさ、漢字どうこうじゃなくて意味が知りたいんだろ? まあ簡単に言えば、『胸をときめかせながら期待する』ってとこかな」

「へ、へーそうなんだ。なんか全然普通の意味なんだね。でもじゃあなんでこんな、その……全裸なの?」

 実際のところ、俺は『全裸待機』なんて言葉の意味をしっかり知ってるわけではない。要するに白も俺も、橙にハメられてるわけだ。

 でも、それで終わるならなんのための知性だろうか。『想像力』を働かせなければ、人として生まれてきた意味の六割方は失われると、偉い人が言ってたような気がする。

 さてこれを『全裸待機』についてあてはめた場合……とてもじゃないけどこの純真な少女に言えるもんじゃない。でもとりあえず、橙が期待するような結果になることは意地でも回避してやる。これは間接的な知恵比べだ。バカ対バカの。

「白は風呂好きだよな?」

「お風呂? うん、大好き! いつもついつい長く入り過ぎちゃうんだ」

「だよな。じゃあ前のヤツが長湯すぎて、『んー、もう白待ちきれない!』ってなったことないか? 気がついたら部屋で全裸になって、いや全裸までいかなくてもいい。半裸になってたことないか?」

「な、ないよそんなの。いくらお風呂好きでも、それじゃただの変な子だよ」

「あ、それ失礼だぞ。日本にはとんでもないレベルの風呂好きがいてな、風呂が沸くまで全裸で待ったり、前の奴が上がるのをパンツいっちょで待つ奴がいるんだよ。彼らいわく、『風呂に入ってる時の姿になることで、擬似的に入浴感を得たり、今日はどこから洗おうかといった予行演習をしている』らしいぞ。毎日の入浴は五分を超えないと決めてる俺からしたら、信じられない話だけどな。これが転じて、今の『全裸待機』になったらしいな」

「……私、自分ではかなりのお風呂好きのつもりだったんだけど、そうなんだ、そんなすごい人たちがいるんだ……」

「ドラゑもんのしづかちゃんなんかも、カメラの回ってないところでは常に全裸だそうだ」

「うう、なんか悔しいなぁ。私だってお風呂大好きなのに……」

 あれ? なんかヘコんでらっしゃる? でもまあ、なんとかかんとかごまかせたみたいだし、よしとしよう。さすがに俺のゲスい想像をそのまま開陳するよりは、はるかにマシな逃げ口上だったな。知恵比べ、俺様の勝利。

 

「え? し、白……? あんた、そんなカッコで、な、何してんの?」

「だって、青ちゃんお風呂長すぎるんだもん! 私、もう待ちきれなくてぜんらたいきしちゃってたんだから!」

「な、何? 私が上がるのを待ってたってこと? え? ちょっと待って。白って……」

「そうだよ。だって我慢できなかったんだもん。私、ぜんらたいきしちゃうくらいお風呂大好きなんだよ」

「え? あ、ああ……お風呂のほうね。はぁー、よかったぁ。白がソッチ系の子なのかと思って……ちょっとそんな雰囲気あるし……ってそれよりなんなの、『全裸待機』って」

「あ、青ちゃんも気になる? えへへ……」

 

「色無ぃぃぃぃぃぃぃっ! こんのドスケベがぁぁぁぁぁぁぁっ! 白に何教えたのよぉぉぉぉぉぉ!」

「え? どう——ぴぎぃっ!? げふっぎはっのべっぶっらうっぶろっ!?」

 ほとんどわけもわからないまま、俺は青から降り注ぐビンタの雨を顔面で受け止め続けた。どうやら、やらかしてしまったらしい。俺自身も、そして俺の話を一途に信じ込んでしまった、純真無垢な白も。

 ああ、さすがにもうダメだ。途切れそうな意識の中、最後に浮かんだのは、まんまと俺を罠にハメた橙の、満足そうなニヤニヤスマイルだった。よお、よかったな。今回もお前の期待通りの結果になっただろ? なんとかそれだけ伝えて、俺は意識を閉じた。


「色無さんちのメイドさん」



「さてさてさてさてー。じゃ色無、おやすみー。いい夢見てね、ってゆーか、嫌でもいい夢しか見ないはずだけど」

「……なあ、灰さんよ。ほんっとに大丈夫なのかこの装置?  正直どっかの新興宗教の洗脳マシーンにしか見えないんだけど」

「ちょっとー色無ー。この天才発明家灰ちゃんのしわだらけの脳みそが創り出した傑作を疑うのかね?」

「いやいやいやいや! これまでお前の発明品がどれほどの悲劇を巻き起こしてきたとゲフゥッ!?」

 ガクッ

「フヒヒ。つべこべ言わずにお休みなさいな、色無さん。じゃ今度こそ……いい夢見なさいな」







『色無家のかわいいかわいい息子へ お父さんとお母さんはしばらく世界を何周かする旅に行ってきます』



 目覚めたときから、妙に静かな朝だった。母さんが台所でせわしなく動き回りながら朝飯を作る音も、父さんがその朝飯を待ちながら、見てもいないテレビをBGMにして新聞をめくる音もなく、ただ時計の秒針の音だけがひどくはっきりと聞こえる朝だった。違和感を抱きつつリビングまで来たところで俺が見つけたのが、テーブルに置かれた一枚のメモ。内容は……冒頭のアレだ。



 俺の両親がこんなに冒険者精神あふれる人々だったことを初めて知った。それ自体はむしろ感心してやりたいところだが、こんな大事なことをしょぼい手書きのメモ一枚(しかも事後報告)で片付けようとするサプライズ精神はかなりいただけない。「かわいいかわいい」なんつー枕詞は間違いなく嘘だと断言してしまっていいだろう……うん? 



 何気なく裏返して見ると、そちらにもなんやら書いてあった。

『ちなみに、お料理もお掃除もお洗濯も入浴も睡眠も一人では満足にできないかわいい息子のために、お母さんたちがいない間はヘルパーさんを頼んであるから、何も心配しなくていいからね♪』

 などと、やはり手書きでしたためてある。さて誤解のないよう釈明しておくが、というか必要ないと思うが、俺は断じて一人で入浴や睡眠ができないかわいい息子ではない。つけ加えておくと料理も別にできなくはないし、掃除だって掃除機くらい使えるし、洗濯だって——って、誰か来たみたい。インターホンインターホン。



「はい。どちら様ですか?」

 ……返答なし。まさかこんな朝早くからピンポンダッシュか。

「もしもーし。ピンポンダッシュですかー」

 ……あえて挑発してみるもやはり返答なし……とここまで来てようやく思いだした。

「……そういやこのインターホン壊れてんだった。アホじゃん俺」

 送話ができないというまるで役立たずのインターホンをちょっと乱暴に置いて、玄関に急ぐ。

「はーい。どちら様です……か?」

 ドアを開けた瞬間、俺は言葉を失いかけた。

 儚げに白く、まるで西洋人形のように綺麗な少女が、そこにいた。薄く微笑を浮かべたその顔は、俺と同じ人間とは思えないほどに上品で、清楚。あまりに陳腐な表現だが、天使が実在すればきっとこんな姿なんだと思う。

 でも、天使としてはあまりにも似つかわしくない点がひとつあった。彼女がその体を預けているもの——車椅子。

 ただその無機質な金属体は、彼女の儚げな印象と相まって、妙な一体感とリアリティを醸し出してもいる。

「えっと、色無さんのおうちですよね?  わたし、ご依頼を受けてこちらで働くことになりました! どうぞよろしくお願いしまゴホゴホゴホッ」

 期待を裏切らない(誰の期待だって話だが)透き通るような声で話し始めた彼女だったが、不意に激しくせき込む。いや、大丈夫なのかこの子。働くとか言ってるけど、車椅子だしせき込むし、なんか呼吸がヒュウヒュウ言ってるし……

「いやあの……大丈夫?」

「だ、だいじょうぶです! 少し肺と心臓に爆弾を抱えてるだけですので!」

「いやいやダメだよね!?  肺と心臓に爆弾抱えて働いちゃダメだよね!?」

「へいきです! 今日ここに来る途中で心臓が5秒ほど動かなくなっちゃいましたけど、気合いで乗り切りましたよ」

 気合いで乗り切っちゃったか。そうかそうかそれならなんとか——
「ならねーよ! 気合いで乗り切るなよ! お医者さんいらなくなっちゃうよ!」

 ボケが凄まじすぎて、思わず大きな声でツッコんでしまった。でも、彼女としてはそれは真剣だったんだろう。だから俺のツッコミを勘違いして受け取ってしまったみたいで。

「……やっぱり、車椅子に乗った病弱な女の子なんかに、お仕事なんてできないですよね」

 見るからにシュンとなって、か細い声で呟いた。同時に大きな瞳にうるうると浮かぶ涙。さあこうなるともうダメだ。男は女の子を泣かせた時点で負け確定。それを狙って涙を垂れ流す汚い女がいるのは間違いないけど、この子の場合はたぶんそんな計算と打算に塗れた黒い涙じゃないだろう。だから俺はもうこう言うしかない。

「で、でかい声出してごめん。あの……そんなに働きたいの?」

「う、はい。お仕事したいんです」

 溢れる涙をきれいな人差し指でこしこしと拭いながら話すその姿は、もはや大量虐殺クラスの破壊力を備えていた。合間にも小さくせき込むのがまたいっそう庇護欲を刺激する。もはや俺は完全に陥落していた。だが最後に、俺も一応の足掻きをしてみる。

「あのさ。さっき心臓が5秒ほど止まったのを気合いで乗り切ったって言ってたけど、あれ本当?」

「本当です! これを乗り切ったらおいしいクリームパン食べるんだって念じながら!」

 もう涙はない、でも少し充血した目をしっかりと俺に向けて、彼女はきっぱりと言い切った。だから俺も決めた。心臓が5秒も止まるのを気合いでどうにかできるような子なら、車椅子で働くことだって気合いでなんとかしてくれる気がする。

「君の名前は?」

「はい! 白っていいます!」

「白ちゃんか。じゃあ、車椅子に乗った見るからに病弱そうな君だけど、俺は君に働いてもらうことにするよ」

「え!? ほんとですか!? やったー! 色無さん、ありがとうございます!」

 白と名乗った車椅子の少女は、まるで明日遊園地に連れて行ってもらえることになった子どものようにキャッキャと上半身だけではしゃいでいる。純真で無垢なその表情に俺はしばらく見とれた……が、新たにひとつ疑問が浮かんだ。

「あのさ。この家でする仕事って、何?」

「え? 何って……メイドですよ?」

「……はい?」

「だから、メイドです。メ・イ・ド。わたしはメイドとして、色無さんにお仕えしに来たんですよ」~ 簡潔にそう言って、車椅子の少女はにぱっと朗らかに、つぼみが花開くように綺麗に笑った。



 こうして、車椅子を駆る肺と心臓に爆弾を抱えた病弱な美少女が、なぜかメイドとして俺の家で働くことになったのだった。


「だーれだ」

「おわっ!?  って、なんだこりゃ?」

「だーれだ!」

「ああ、はいはい。白だろ」

「えー? 色無君、なんでわかったの?」

「分かるだろ、声とかさ」

「声変えたもん」

「それでも分かんだよ」

「なんで?  他にもする娘いるよ、灰ちゃんとか紫ちゃんとか」

「あいつらじゃ白くらいしか手届きそうにないもんな……」

「色無君?」

「いっいや、なんでもない」

「それで?  なんで私だって分かったの?」

「声ってのもあるんだけどな、一番の理由は……白の匂いがしたんだよ」

「えっ」

「やっぱ嗅ぎ慣れた匂いってのかな。白の匂いってすぐ分かったんだ」

「色無君……」

「ん?」

「女の子に対して『におい』の話は失礼じゃないかなって思うよ」

「なんでだよ、いいじゃん。白の匂いってすげえ安心するんだぞ。保健室の匂いっていうかさ」

「色無君はやっぱり失礼だよ、もう」







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Last-modified: 2012-10-21 (日) 02:58:43