緑メインSS

緑は図書館で読書にふけっていた。

メガネのレンズ越しに視覚に飛び込んでくる文字の列は一文字一文字が節句となって意味を成し、緑が理解する。

その間は尻に掛かる椅子の反発力や、手に持つ本の重みなどはすっかり消え失せ、さらには時間の感覚まで奪い去ってゆくのだ。

そんなわけで、今日も今日とて図書館の警備員に肩を叩かれるまで読書を辞めなかった緑だった。

「あら?」

強面の警備員さんの慣れ親しんだ笑顔に見送られて図書館の自動ドアを跨いだ緑がまず感じたのは風だった。

昼間のうちは陽の光に当てられ、柔らかな風当たりであったというのに。今、緑に吹き付けるのは、切り刻まれるような冷たい鋭さを帯びていた。

ふと、空を見上げると、そこには軽快な青などではなく、灰と鉛が混ざり合った、重くじっとりとした雲が広がっている。

「雨が降りそうね……急がないと」

前を見据えた緑を煽る様に寒風が横殴りに吹き付ける。緑はそれに二、三回震えて、急ぎ足で図書館を後にした。

案の定、雨は降り出した。灰鉛の空は地上にまで降り注ぎ、世界を染める。しかし、緑のメガネのレンズは濡れ、その世界をまともに見る事はない。

とりあえず、近くにあった喫茶店の日除けに退避する。

メガネを外し、スカートのポケットからハンカチを取り出して濡れたレンズを拭き、次にフレームから水滴を拭きとって再びメガネを掛ける。

「どうしようかしら。傘もお財布もないし」

そう言う緑の口調は案外落ち着き払い、困っている風には見えない。表情も同様に平生と同じであり、むしろその鋭い目つきが今の事態に対して静に憤慨しているようにも見えた。

実際は、その通りに状況はあまり良いとは言えなかった。服は濡れ、ブーツには少量の雨水が浸水し、冷気に当てられた素肌は冷たく、悴んでいる。吐く息も白い。

「困ったわ……」

「言う割にはあんまりそうはきこえねぇぞ」

寒さに震える緑の頭上に、ビニールのコンビニ傘が沸いて出てくる。

「ま、寒そうには見えるけどな」

「あら、色無じゃない」

ビニール傘と共に緑の背後から現れたのは色無だった。雨が降り出してから外に出てきたのだろうか。ロングコートにマフラー、手袋と充分な装備。これにニット帽か耳当てをつければフルアーマー色無の完成、といった容貌だった。

色無はそれの中から、マフラーを外して、緑の肩に掛けた。それなりに幅広のそれは、女性にはショール代わりににもなるだろう。

「ああ、ありがと」

緑の反応は薄いものだったが色無は気にしない。それが緑なのだ。

「黄緑さんからの出動命令でな。緑ちゃんが図書館からまだ帰ってきてないから、傘もって迎えに行ってきてください、って」

そう言いながら、色無は寒さに悴んだ緑の指先を見つけると、手袋も外して緑に手渡す。

ありがと、と再び淡白な返事の後、緑は毛糸のそれを自分の手にはめる。今まで外気に晒されていた両の手には、人肌の温もりが残る手袋はとてもありがたい物だった。

まあ、今までそれを着けていたのが色無だから、というのもその要因の一つであるのかもしれないのだが。

「そう。心配掛けちゃったわね」

マフラー越しに両肘を抱いて、少しばかり溜息。空を見上げて憂いに染まる級友の顔を思い浮かべて申し訳ない気持ちになる。

そのまま暫く時間が過ぎ去る。ふと、さっきからずっと立ち止まったままの色無を見上げる。

「どうしたの。帰らないの?」

「いや、実はな……」

非常に申し訳なさそうな表情で色無は、両腕を緑に晒すように軽く挙げた。その腕には、片方は広げられた傘が見て取れたが、もう片方には見受けられなかった。

「持って来た俺の傘、パクられちまった。コンビニでこの傘買ってきたんだが、傘建てに差してた傘、盗られちまっててな。また金使うの嫌だったし、そのまま……」

無念の表情で、両腕と共に口調も落とす色無。

緑は再び軽く溜息をつき、

「まあいいわ。帰りましょ。それで」

と、さっさと色無から傘を取り上げて、雨の中を歩き出す。

「お、おい。まってくれよ」

慌てて色無は緑を追いかけ、ビニール傘にもぐり込み、緑から傘を受け取る。

「あら、持っててくれるの」

「当然だろ」

寒さにほんの少し赤らめた顔が微笑む。

(でも……)

緑は、傘の取っ手を持つ、外気に晒された色無の右手を見止める。顔面と同様にほんの少し、寒そうに赤みが差していた。

なんとも無しに手袋で覆われた自分の両手で、色無の右手を握ってみた。男の色無の手は大きく、女の緑の手では両手でやっとだった。

そうした行動の為に、緑は色無に寄り添うような形になったわけだが、

「な!み、緑?!」

突然の緑の行動に別の意味で赤面する色無。しかし、緑はいつもの調子で、

「こちらの方が暖かいでしょ」

と、事も無げに言った。いや、心なしかほんのり顔が赤い。

「いや、まあ、うん、その……はい」

二の句が告げないでいる色無。これまたほんのり顔が赤かった。

そんな色無の様子が相当可笑しかったのだろうか、珍しく緑は笑顔を浮かべていた。

「ま、ちょっとしたご褒美ってとこよ」

暫く、二人は寒さを忘れ、お互いに赤面しあったままほんの少しの甘く、暖かいムードを楽しんでいた。


無「お、いたいた。よぉ、緑」

緑「どうしたの?」

無「ほら、外見てみ。雪降ってる」

緑「あ、本当。寒いと思った」

無「雪も積もってることだしさ。ちょっと外出てみないか」

緑「いや。今読んでるところがいいところだから」

無「即答だな……ほら、小さいころはよく遊んだじゃんか」

緑「……」

無「それに、こういう雰囲気の中を緑と歩いてみたいなーなんて……」

緑「っ!」

無「やっぱダメか。じゃ、おじゃま——」

緑「いいわよ。一緒に歩いてあげる。ちょうど区切りもいいところだし」

無「え?~でもさっきから一ページも読んでない……」

緑「いいから!」


緑(暇だから辞書でも読もうかな……ん、ことわざ辞典発見)

『働かざるもの食うべからず』

朱色「ぐかー……ぐかー……」

群青「……」(ピキピキ

緑(まさしくあれのことね……)

『二兎を追う者は一兎をも得ず』

桃「えー?こんなの肩が凝るだけでいいことないってぇww」

紫「……」

赤「あ、なんかこの服もうちっちゃいかもー」

青「またあんた背ぇ伸びたの?ほんっとスタイルよくって羨ましいわぁ」

赤「青だって似たようなもんじゃんw」

紫「……」

緑(あれのこと……とはちょっと違う?)

『人の噂も七十五日』

男「やっとSMフェチ疑惑が収まってきたと思ったら今度は純白スリップフェチ疑惑……勘弁してくれ」

空「水色先輩とのレズ疑惑……もう、勘弁してほしいですよ……!水色先輩のことは好きだけどそういうのは……そういうのは……いいかも」

緑「(これもちょっと違う……)

『時は金なり』

男「来週の土曜日は桃とデート……日曜は黒の買い物に付き合わされて、月曜は学校終わってから紫の誕生日プレゼントを買いに行かなきゃ……。時も金もねぇよ……」

緑(……)

げしっ

男「痛てっ!やめろって!なんで本投げるんだよ!」


緑は眼鏡をはずして目薬を点した。

何度か瞬きすると透明なそれは頬を伝って落ちていった。

もともと細かい作業が苦手……というわけではない。どちらかというと緑は器用なほうだ。

しかし、彼女はもうそれを三時間以上している。疲れるのも無理もない。

ノックの音が、した。

緑の人付き合いの悪さは異常だ。寮のみんなと打ち解けるのにも、何ヶ月もかかった。

当然、ノックにこたえる気もしなかった。

しかし、ここでふと気付く。

ほとんどの寮生は緑が部屋にいても、ノックなんか気にしないことを知っている。だから、だいたいの奴らは部屋に勝手に入ってくる。

では何故?何故今ノックした奴はすぐに入ってこない?

『いや、だって一応女の子の部屋だし』

奴は前にそう言った。

手にもっていたものを急いで引き出しにしまう。

椅子から跳ねるように軽快に立ち上がり、急いでドアにむかう。

扉を開けると、そこにいたのは緑の想い人だった。

「よっ。居るなら居るで早く開けてくれよ」

屈託のない笑顔で喋る色無。

いけないと思いつつも、悪い口は勝手に動く。

「……何の用?こんな夜中に」

「まぁ、とにかく中入れてよ。やっぱ寒いな。立春とか言っても」

思わぬ一言に心の中でガッツポーズ。

ああ、やっぱり私って単純。と緑は心のそこでちょっと自分にあきれた。

「で、何の用?私忙しいんだけど。あんたと違って」

ああ、また悪い口が……。

「いやぁ俺今日誕生日じゃまいか」

「……それが?」

「なんかくれよ」

「……自分から頼みにくるなんて情けないわねぇ……」

「え?なんかないの?俺あと二時間で誕生日終わっちゃうんだけど」

ああ、何でこんな浅ましい男を好きになったのだろう。

「じゃあ一時間五十九分後にまた来なさい」

ああ、また私の恥ずかしがりやが出た。いや、そんなかわいいもんじゃないか。

「よしっ!約束な」

また屈託のない笑顔で……。だからあんたの事嫌いよ。

扉の閉まる音……。それと同時に緑は再びその作業をはじめる。

「一時間五十九分後……間に合わせなきゃ……」

扉1枚向こうで、色無と黄緑がひそひそと会話をしていた。

「うわぁ……。ほんとにマフラー編んでる……」

小さなドアの隙間から、こっそりのぞく色無。

「ね?言ったでしょ?」

「しかし……黄緑さん」

「?」

「俺への誕生日プレゼントが『緑の誕生日プレゼントがなにか教える』って……」

「あら、いけなかった?」

「GJです!」

「……」

「あの本当は純情なのと、それをごまかそうと口を悪くしている所がたまりませんな」

それから一時間五十九分後、色無はラッピングもされていない緑色のマフラーを、鉄拳と共に手渡されることになる。


ドタバタドタバタギャースカギャースカ……

あまりの騒音に私は思わず読んでいた本から目を離した。

メガネレンズ越しに展開される日常はもはやいつもどおりとなった色無争奪合戦。全く……落ち着いて本も読めやしない。

「ねぇ、色無くん。私、なんだか眠くなってきちゃった〜」

「お、おい桃。おもむろに寄りかかってくるんじゃない!なんか……いろいろ、ヤバイ……」

桃の色仕掛け。私には無理ね。

「あ〜らお客さん。こうゆう所初めて?そんなに慌てちゃって……ウブねぇ」

「コラそこ橙。この寮はいつからそんないかがわしい場所になった。ってかお前も擦り寄ってくるんじゃねぇ!」

今度は橙。無理ってゆうより理解できないわ。キャラじゃないっていうのかしら。

「お〜い色無!野球しようぜ!」

「中島か!赤、バット振り回すんじゃない!」

そのツッコミはタカトシね、色無。

「出来た!黄色特製カレー。おいしいよ!」

「うまぁいぞぉ〜。って違う!お前コレで三日連続じゃないか!」

ルネッサンス情熱。ご愁傷様色無。でもおいしい事にはおいしいのよね。

それにしても、桃にしろ橙にしろ赤にしろ黄色にしろ私とは全然違うわね。私はあんなに元気に、積極的になれはしない。想っていることは同じなのにね。

「おい紫。口元にカレーついてるぞ。ふき取ってやろうか?」

「……!ば、ばかぁ!子ども扱いすんな!」

「いたぁ!ぐーで殴ることないだろ!」

ああ……どうして紫はああ可愛いらしいのかしら。本人は嫌がってるみたいだけど。

「ひあぁ……か、カレーが……服に……」

「あ、ああ、ゴメン水!ああ、ほら、泣かないでくれよ」

吹き飛ばされた色無に弾かれて、水の服にカレーが付着してしまう。可哀想に、水の服は白。

「あらあら……ダメじゃないですか色無さん。女の子はいじめちゃだめですよ」

「い、いや違う!これは不可抗力で……もとはといえば紫が……」

「責任転嫁はもっとダメ。お仕置きです」

「ぎゃあああぁぁぁぁ」

愛暗苦労……。どうでもいいけど技も古いわね。

ミシミシと頭を軋ませて持ち上げられる色無の周りに我も我もと群がる皆。

「全く……皆元気なものね」

不意に隣で呆れ果てた声が聞こえた。見てみれば、軽くこめかみを押さえた黒。彼女はこの騒ぎに辟易しているみたい。

「緑もそう思わない?」

つくづく、私と彼女は似ていると思わされる。それほどと言うわけでもないけれど、いつも傍観者な辺りとか。決して表には出てこない。出てこれない。

そうこうしている内に、色無リンチはどんどんエスカレート。

ドタバタドタンバタン……

「けほっ」

突然響く咳き込み。白だ。

「えほっ、けほっ……ハウス……ダストが、えほっ……」

「白?!ごらぁぁぁぁ!!あんたらぁぁああぁ!いいかげんにせんかぁぁあぁいいい!!!!」

黒の咆哮。前言撤回。彼女も充分アグレッシブだわ。

黒の参戦により混迷を極める居間。正直迷惑。

すると、業を煮やした青が手のひらを机にバァァン!と打ち付ける。

「あんたたちいい加減にしなさい!緑も白も困ってるじゃないの!」

あらありがとう青。でもあなたの声が一番大きいわよ。

「それに……色無が……悪いわけじゃないでしょ」

「青……ありがとう……」

「ば、バカ!私は責任の問題をしてる訳であって、アンタの心配なんかこれっぽっちもしてないんだからぁ!」

「ぐふう!」

青の鉄拳。結局こうなるのね。いいツンね、青。

ツンといえば内藤よね。青がツンだとしたら、色無は内藤なのかしら?私はぼっこぼこのほうが可愛いと思うのだけれど……

「もう!バカ!バカ!」

「ごふ、がは、げべ」

ぼこぼこぼこぼこ……

「ただいま〜ってアレ?!青ちゃんストップ〜!ケンカはダメ〜!」

帰ってくるなりでしゃばってくる茶色。気持ちは嬉しいけれど走らないで。そんなことしたらアナタ……

「あ」

つまづいた。

走り出した勢いでフライングする茶色。そのまますてみタックルを色無にかます。

「あじゃぱぁ〜」

青にボッコボコされていた上にタックルを喰らった色無は私の足元にまで吹き飛ばされてくる。

「あら」

ボッコボコね。

「顔?痛くなんかねぇよ」

「私は好きよ」

「ありがとう」


『再現』

緑「……」

無(どうしてこうなったんだっけ?)

緑「色無、そっちは?」

無「ああ、スポンジ台は出来たよ」

緑「……でも意外ね、色無が料理上手なんて」

無「独り暮ししても困らないように鍛えられたから……寮に入れるとは思ってなかったし」

緑「……あまり人に言わない方がいいと思うわ」

無「なんで?」

緑「この寮の料理長になりたいなら止めないけど」

無「?」

緑「わからないならいい」

緑「……完成したわね」

無「……ほとんど何もしてないけどな」

緑「……材料量ったもん」

無「いや『もん』て……」

緑「上手な人にまかせた方が確実だし」

無「とりあえず切り分けたけど、ここまで再現しなくても」

緑「食べさせて貰ったら味は変わるっていうこの本の記述は正しいのか、協力してくれるって言ったのは色無よ?」

無「……今では後悔してるよ。本格的なんだもんな、よりによってデコレーションケーキとか」

緑「出来るだけ書いてある通りにしないと」

無「でもその本は恋人同士じゃないか、そこはどうするんだよ?」

緑「それは大丈夫……それじゃ色無、食べさせて?」


緑「今日はなにを読もうかしら……あら、これは」

  『風林火山』

緑「また当てはまるのかしら……」

  『其の疾きこと風の如く』

青「こら、待ちなさい! 黄色!」

黄「待てといわれて待つ人なんかいないよ!」

青「あんたが私のノートに落書きするのがいけないんでしょ!」

   バタバタッ!

緑「似たようなものかしら……」

  『其の徐かなること林の如く』

桃「もう……追いかけるにしても静かにして欲しいよね」

水「あはは……そうだね」

緑「ちょっと違うわね」

  『侵掠すること火の如く』

黄緑「うふふ、黄ちゃん。イタズラはダメですよ〜」

黄「あ、黄緑……さん。ちょ、やめ……」

緑「攻撃という面では当てはまるかも」

  『動かざること山の如く』

灰「も〜うるさいなぁ……コタツでゆっくりゲームできないじゃん」

黒「あなたはもう少し動きなさい」

緑「ぴったり……?」


いろなし「なぁ、緑。本読んでないと先生に怒られるぜ?」

みどり「いいのよ、本は嫌いだから」

いろなし「あーえっと、じゃあ読むふりだけでもさ。ほら」

みどり「分かったわよ……これでいい?」

いろなし「……」

みどり「……なによ」

いろなし「本読んでるときの緑ってかっこよくて綺麗な感じがするな」

みどり「……馬鹿じゃないの」

無「なぁ、緑。お前いつからそんなに本読むようになったんだっけ?~昔は全然読もうとしなかったのにさ」

緑「……忘れちゃったわ、そんなこと。気が散るから離れてくれない?」


私達が彼にそれぞれの形で気持ちを伝えてからはや一ヶ月、来て欲しいようで欲しくない日がついに来てしまった。

気にしていないフリをしていても、皆彼の動きを追っているのがよく分かる。目の前に開かれている本よりもそちらに集中している私が言うんだから間違いない。

朝一番から観察を始めて、いつの間にか昼休み。……そろそろ動いてくれないと、睨むを通り越して殺意を持った視線を彼に向けてる紫が怖くて仕方がないんだけど。

実際の所、前の席に座る紫だけじゃなくクラスの女子の半分以上から出されている不穏な空気を今更感じ取ってか、やっと彼が動き出した。

「紫、メリーホワイトデー」

「何言ってんの? 普通に渡しなさいよね」

紫の口調は不機嫌そうでも、笑みの形になりつつある口元と真っ赤な耳は隠せていない。これだけ分かりやすかったらあげる方としても嬉しいだろう。

「緑にはこれ。メリーだ」

「ありがとう」

続けて私に渡された箱はやけに軽かった。ハンカチでも入ってるのかしら?

「……もうちょっとありがたがってくれよ。とりあえずわざわざメッセージカードつけたんだから、それぐらいは見てくれよ?」

確かに、ある。箱の軽さに気をとられて、ラッピングのリボンに挟まれたカードに気付かなかったとは私もかなり舞い上がてるみたいね。

「ちょっとナニソレ!? 私にもぎぶみ〜! ぎぶみ〜! ぎぶぎぶみ〜!!」

裏返しに挟まれたカードを見る間もなく、黄が乱入してくる。

「うるせぇな。ほれ」

「はっはっは、苦しゅうない。ナニナニ、『これでも食ってろ』? 全くあんたも大したツンデレね〜」

「勝手に言ってろ。んじゃ、俺は他の皆に渡しに行くから」

「な〜にが出てく——バーモンツッ!?」

ビリビリと派手に破かれたラッピングから覗いているのはまごうことなきカレーのルーの箱。

吹き出しそうになるのを咳込む事でごまかしてみる。まさかこんな物を渡すなんて、私にくれた物も大丈夫じゃない気がしてきた。

「おぉっ……おぉっ……」

「あ、チョコだ」

「なっ!? うがぁ——あぁ〜っ!!」

きっかけは紫の能天気な一言。うめき声をあげていた黄がついに臨界点に達し、ルーの箱を壊さんばかりに中身を取り出す。

その手に握られているのは独特のにおいを放つルー——ではなく、紫の手に持たれている物と同じチョコレートだった。

「全くアセらせてくれちゃって〜。もうあいつに教える事はないわねぇ……」

「何訳のわかんない事いってんのよ……あ、美味しい」

うんうんと頷きつつチョコレートを食べる黄と紫。二人に渡されたものを見る限り、彼は皆に同じものをあげたのだろう。

確かに全員に違うものをあげていたらかなりの手間になるでしょうね。変なものを渡されていないとわかってほっとした反面、ちょっと寂しい気がする。

……ちょっと待った、何かおかしい。一旦机の中に片付けた、私宛のお返しを取り出す。その感想はさっきと同じ、軽い——いや、軽すぎる。

耳の近くで振ってみても、中で何かがぶつかるような音は全くしていない。メッセージカードを読まずに机に入れ、箱に巻かれたリボンを乱暴にのけ、ラッピングを取り除く。

薄々その中身はわかっている。それでもひょっとして——といった、僅かな望みに全てを託して長方形の箱を望遠鏡の様に覗く。やっぱり空。

反対側から覗いてみると不思議そうな顔をした紫と目が合った。これは箱の中に障害物が無いということな訳で。

「ふふっ」

思わず笑みがこぼれてしまう。まさか、私だけに対して彼がこんな扱いをしてくるなんて考えてもいなかった。

「ふふっ、うふふふっ……」

早く放課後が来ないかしら。彼にお礼を言わないと。

何故か震えながらルーの箱を差し出してくる黄と紫を残し、私はくしゃりと握りつぶした箱を持ったまま百科事典を2冊ほど借りに図書室へ向かった。

 

今日は一日やけに過ごしにくかった。午前中は色んな所から視線を感じるし、午後は午後でその数は減ったものの午前中よりキツいプレッシャーを受けてた気がする。

やっぱ、今日最後の大仕事が残ってるせいだろうな、プレッシャーを感じてんのは。一度は後にした教室に戻り、待ち合わせをしていた緑に声をかける。

「よう、待たせたか?」

何でこいつがわざわざ俺をここに呼び出したのかマジでわからない。

「あら、来てくれたの?」

緑は俺が声をかけるとゆらりと立ち上がってこちらに向かってくる。ってか、両手に持った辞典は何なんだ? そんなの持たれてたらちょっと困るんだが。

「なあ、何で俺を呼び出したんだ?」

「……わかってないの?」

「おう。だから聞いてるんじゃねぇか」

「あれよ」

そう言った緑の視線の先には机の上に置かれたゴミクズ——じゃなくて、あれは潰された箱か?

「俺が渡した箱、だよな?」

「えぇ」

「……で?」

「あれ、空だったわ」

「ま、そうだな」

そりゃ当然だ。空箱渡したんだから。

「空だったのよ」

「だからそうだって」

念を押すように言われても、俺の答えが変わる訳がない。

「わかっててやったのね?」

「おう」

そう答えた瞬間、確実に教室の温度が下がった。俺の本能が逃げろと警鐘を鳴らす。いやいや、何から逃げるんだよ。

「そうなの……ふふっ」

緑が目の前に来て気付いたんだが、笑ってるけど笑ってないこいつが近づいてくるごとに冷気が強まってきてないか、これ?

「ってかさ、聞きたい事あるんだけど」

「最後なんだし、聞いてあげるわ」

「何でわざわざここで待ち合わせって俺に言いに来たんだ? 俺からした約束なんだから忘れる訳ねぇだろ?」

さすがにそこまで俺はボケちゃいない。……それだけボケてる様に見えるって言われたらそれまでだけどな。

「……は?」

緑の声と共に、教室の空気が張り詰めたものから一気に普段の放課後のそれへと戻る。

「メッセージカードに書いてただろ、この時間に教室にいろって」

「……本当ね」

急ぎ足で自分の机に戻り、カードを見る緑。その顔が驚きの表情になる。他のやつらに色々言われたくないからカモフラージュの箱まで渡したってのに、見てないって事はないよな?

「お前、まさか——」

「知ってたわ」

目を合わせて言え。何だかここに来るまで緊張していた自分がすごくバカな存在に思えてきた。

「はぁ、もういい。とりあえず改めまして、メリーホワイトデー」

「あ……」

「今度はちゃんと入ってるからな」

「あ、ありがとう。……開けてもいいかしら?」

「もちろん」

皆に渡した箱より一回り以上小さい箱を緑が恐る恐る開く。中から出てきたのは、木の葉をモチーフにしたガラス製のペンダントトップだ。

「綺麗……」

日に透かし、目を細めてペンダントを眺める緑。その表情を見る限り、気に入ってもらえたみたいだ。

「これ、本当にいいの?」

「悪かったら渡さねぇよ。気に入ったか?」

「勿論」

おぉ、即答。たまたま見かけた時、緑に似合いそうだな〜、なんて思ってたらいつの間にか衝動買いしてた過去の俺にグッジョブの称号を与えよう。

……その分、皆のお返しのグレードがちょっと下がったのは秘密だ。

「折角くれたのは嬉しいんだけど」

ちょっと困った表情で緑が言う。おいおい、ここまで来て問題発生か?

「どした?」

「これ、どうやってつけるの?」

「……」

マジでか。膝から崩れ落ちそうになるが何とかふんばり、一応確認する。

「……チェーンとか皮紐とかに通して首からかけるんだけど。持ってないのか?」

「持ってない」

確かにペンダントとかつけてた覚えはなかったけど、そういうオチが待ってたか……。

「……ごめんなさい」

俯き、申し訳なさそうに謝る緑。俺がその行動に弱いってわかってやってるだろ!?

「あ〜、よしっ!~まだ先の話だけどお前の誕生日プレゼントはチェーンに決定っ!! 来月はそれ買いに行くぞ!!」

「いいの?」

「俺に二言はないっ。お前が嫌ならやめとくけど」

「喜んで行かせてもらうわ」

またもや即答。何か、こいつにいい様に操られてる気がしてきたぞ。

「緑、他には特に用事ないだろ?~帰ろうぜ」

「ちょっと待って。これ、違う角度から光当てたら全然違う色に見えるわ。ほら、貴方も見て」

「いいから帰ろうぜ〜?」

……ま、こいつと一緒に出掛けるのも中々楽しいし別にいいか。緑に引っ張られるまま一緒にペンダントを覗き込みつつ、俺は来月の予定を考え始めた。

 

「……いい感じね」

彼からもらったばかりのペンダントをチェーンに通して首から下げ、鏡の前に立つ。帰ってきてから何度同じ事を繰り返したかわからない。

私も、仮にも女の子なんだしペンダント用のチェーンの一つや二つ持ってる。……先週オレンジに薦められるままに買ったものだけど。

というか、私がチェーンを持ってないと言ったのをあっさり信じる彼も彼だ。そう思いつつも罪悪感が頭をよぎるが、私を過小評価したのは彼なんだしイーブンのはず。

無理矢理自分を納得させながらペンダントを外す。チェーンはちょっと勿体無い気がするけど、併せて買ったシルバーのトップと一緒に机の引き出しの奥の方へ。ごめんなさいね、オレンジ。

部屋の電気を消し、ペンダントを握り締めてゆっくりと目を閉じる。後一ヶ月と少し——か。これからしばらく、熟睡できそうにはないわね。


無「なにも花見にまで本を持ってこなくても……」

緑「何かしら本を持っていないと落ち着かないの」

無「でも……」

緑「でも?」

無「いや、何でもない」

緑「?」

色(「そんな風に本を両手で抱えるように持ってたら手をつなげない」なんて言えないよなぁ……)

緑(ほんとは腕を組んで歩いたりしたかったんだけど……やっぱり恥ずかしいわ)


 私は自他共に認める読書家。物心ついたころから書に親しみ、早く寝なさいとうるさい母に隠れ、布団の中で読んだりもした。おかげで随分と目が悪くなったけど、後悔はしていない。

(……この本はちょっとハズレだったかも)

 本のジャンルにはこだわらない。興味が湧いたことに関する本を片っ端から読む。最近は論理学がお気に入りだけど、今読んでいる本はちょっと専門的すぎたみたい。

(でも途中で放り出すのは著者に失礼だし、頑張って最後まで読もう……それにしても、最近ペース落ちてるなあ)

 最近というか、高校に入ってから読書量ががくっと減ってしまった。もちろんいろいろと多忙なせいもあるけど、何よりこの寮の環境は読書に向いてない。

(騒がしい子が多すぎるのよね、ここは。でも今日は出かけてる子も多いし、日ごろの遅れを取り戻して——)

「あれ? おはよう緑。本読んでると子悪いんだけどさ、ちょっと隣座らせてもらうよ。借りてきたDVD見たいからさ」

「……元凶の一人が来たわね」

「え? なんか言った?」

 私の読書を妨げる一番の障害——それが色無。この男が近くにいると、あっという間に活字に集中できなくなる。

「別に。もうお昼過ぎだし、おはようって時間じゃないわ。それにDVDなら自分の部屋で見なさいよ。気が散るでしょ」

「しょうがねえじゃん、俺ビデオデッキしか持ってないし、パソコンにもDVDドライブついてないしさ。緑こそ自分の部屋で本読めばいいだろ。食堂は共有空間なんだから」

「今日は両隣がうるさくて、食堂の方がまだましだと思ったのよ」

 障害その二とその三のことを思い出し、私は肺の奥底からため息をついた。

「両隣って……あ〜、黒灰姉妹と青空姉妹か。何、ケンカしてんの? 両方とも?」

「何してるかは知らないけど、ステレオで大騒ぎしてるのだけは確かよ。行って確かめてみたら? 色無が仲裁すれば両方とも静かになるかも」

「それだけは勘弁。まあなんだ……ご愁傷様」

 同情を示しつつも、DVD鑑賞を取りやめにする気はないらしい。さっさとディスクをセットし、私の隣にどさっと座り込む。

「……せめて音は小さめにしてよね。あと、もうちょっと離れてよ」

「ここが一番よく見えるんだよ。お、始まった」

 テレビに再生された映像が映る。これは……あのやたらと権利関係にうるさいネズミの会社が作ったアニメ?

「何よ、子供だましじゃないの。こんなの見るの?」

「いや、最近ちょっとはまっててさあ。これがけっこう馬鹿にできない出来なんだぞ。ちょっと見てみろよ」

「遠慮しとくわ」

 やたらクネクネと気持ち悪い動きをするキャラクターから目をそらし、私は再び難解な論理学に勝負を挑んだ。

 

 ——身体を軽く揺さぶられ、私は覚醒した。

「ん……」

「起きろよー。俺DVD返却に行かないといけないんだよー」

 どうも本を読みながら眠ってしまったみたい。テレビにはスタッフスクロールが流れていたから、ちょうど終わったとこらしい。

「……」

 色無の肩と掛けられた膝掛けの温かさが心地よくて、私は少し意地悪をしてみた。もう少し色無の困った声を堪能したら起きてやろう。

「起きろー、いい加減重いよー」

 ……作戦変更。絶対起きてやらない。返却期限に遅れて延滞料金取られればいい。

「うーん……しかしあれだな。さすがに寝てるときは目つき悪くないんだな。かわいい緑の顔ってのもレアかもしれん」

 びくっ。不意を打たれて、ほんの少しだけ震えてしまった。め、目つき悪いとか、まったく失礼な奴ね……。

「さしずめ『美女と野獣』ってとこか。いや、それだと俺が野獣役か……まあそれでもいいけど。どっちかって言うと『眠れる森の美女』か? あれのラストはどんなだったっけ」

 呼吸が乱れ、顔に血が上る。野獣役でもいいって……何するつもりよ! それに『眠れる森の美女』って……あれのラストは確か……。

「ああ、思い出した。あれは王子が近寄ったら勝手に王女が目を覚ますんだったな。それじゃつまらんなあ。やっぱここは『白雪姫』路線で行くか」

 し、ししし『白雪姫』!? それって私とキ、キキキ——。

「でもあれも初版だと、王子の家来が姫をぶん殴って目覚めさせるんだよな。うーん、原書に忠実にいくか、ポピュラーな方法でいくか、悩むなあ」

「……色無、とっくに私が起きてることに気づいてるんでしょ」

「あ、ばれたか」

 肩からがばっと身を起こして分厚い本を振りかぶると、色無はさっと立ち上がって身をかわした。

「おっとあぶね! 大切な本をそんな乱暴に扱っちゃだめだろ。緑だって寝たふりしてたんだからおあいこってことで。じゃあな、返却に行ってくる」

 DVDをケースにしまい、ひらひらと手を振って色無は出て行った。

「もう!」

 腹の虫が治まらず、閉じた扉に肩掛けを投げつける。ソファに寝そべって行儀の悪い姿勢で本を開いたけど、全然頭に入ってこない。

「全部、冗談だったのかな……」

 胸の動悸が収まらない。書いた人には悪いけど、もうこの本は読めない気がした。

「……次は、童話にしようかな」

 たくさん読んで、充分な知識を蓄えて、もとになった物語の背景を理解したら……あいつと一緒にアニメを見てやってもいいかもね。


『ため息と笑顔」

「……ふぅ」

 遠くに放課後の喧騒を聞きながら、私はため息をついた。

落とした視線の先には先輩達が創った会誌。

詩や物語が綴られているそれを見ながら、もう一度ため息をつく。

「……私1人なのよね」

 そう、先輩達が卒業して2年の部員がいなかった我が文芸部は、部長兼会計……その他諸々兼の——つまり自分1人しか居なくなってしまったのだ。

「一応少しの猶予はあるけど、勧誘する気がない私しかいないんじゃ廃部よね」

 先輩達には悪いけど、口下手と目つきの悪さを併せ持つ私だけじゃどうにもならない。

いっそのこと顧問に言ってさっさと廃部にしてもらおうかしら。

 そう思った私が立ち上がるのと同時に、部室のドアがノックされた。

「……はい」

 入学式で勧誘もろくにしなかった部に用があるなんて誰だろう?

そう思いつつ私は扉を開けた。

「何か用——」

 そこで言葉がとまる。

「よっ、緑」

「色無、どうしてここに?」

「文芸部の危機だって聞いて」

「危機って、誰に聞いたのよ」

「橙と白に聞いて、お世話になったから助けてあげて、ってな」

 あの二人か。

 確か橙は宿題の読書感想文の手助けをしたことがあったし、白は入院中に何度か

図書室の本を代わりに借りて届けた事があったっけ。

「ありがとう、でも別に困ってないからいいわよ」

「……そうか?」

「そうよ」

「そっか……だったらなんで寂しそうな顔してるんだ?」

「えっ! 嘘?」

 思わず顔に手を伸ばす。

「嘘だよ、でも素直じゃない奴は見つかったけどな」

「……あ」

「ほら、勧誘に行くぞ」

 色無に手を引かれて私は廊下に出ると、そこには

「ほら、緑。ポスター作ったんだから」

——橙と

「私も頑張るから」

——白がいた。

「2人とも、バスケとテニスはどうしたのよ」

 そう、2人とも自分の部活があったはず。

「友達のピンチだしね」

「大事なお友達だもの」

「人気者だな緑は」

 さっきまで塞ぎ込んでいた自分が馬鹿みたいに思えてきた私は思わず。

「ありがとう、みんな」

 と、つぶやいた。

「うわー」

「緑ちゃん……」

「なんだ、可愛く笑えるんじゃないか」

「……からかわないでよ」

 ——部長・緑、副部長・色無になった文芸部が、兼部した他の生徒や一年生で賑わうようになるのは少し後の話。


緑「……(ちょっと薄味だけど大丈夫かしら)」

無「あのさ、みどり——」

緑「あっち行ってて」

無「ごめん」

緑「……(でも、男の子だから濃い目のほうが)」

無「いただきます」

緑「どうぞ」

無「……」

緑「……」

無「うん、美味しいよ。味も俺好みだし」

緑「そう。食べられるものになって良かったわ」

無「そうは言ってもお前料理失敗したことない——」

緑「私、読みかけの本があるから。食器は片付けておいてね」

無「あ、緑、待って」

緑「何?」

無「いつもありがとな」

緑「……どういたしまして」


今日は私の誕生日。そして、一月前の約束通り彼とペンダントのチェーンを買いに行く日。というか既に買って済んで、現在進行形でお店の中にいるところ。

別に、彼は特別な感情を持って私と出掛けてなんていないのは分かってるけど、それでも隣で一緒に何となく商品を眺めている彼を意識してしまう。

「それにしても緑よ」

「何?」

何の前触れもなく彼が話しかけてくる。やっぱりアクセサリーより彼を見てたのがばれたのかしら? 
「周りを見て、どう思う?」

「カップルばかりね」

「だよな」

ため息混じりに答える私に同調してか、彼も呆れを含んだ口調で答える。

元々そういう所なのか偶々なのかは分からないけど、ここは見事にカップルしかいなかった。一人でこの空間にいるのはちょっと無理だろう。

実際、そういった関係じゃない私達としても肩身が狭い。

「と、いう事で。俺達もそれらしくした方がいいと思う訳だ」

「はぁ?」

話の流れが唐突過ぎて頭の処理が追いつかない。どういう事? 
「ほれ、このペアリングなんてどうだ? いかにもそれっぽいだろ」

そう言いながら彼がペアリングの片割れを無造作に私に差し出してくる。……ええっと、これを私につけろと? 
……このリングをつけるっていう事は、つまりその、そういう事よね? まさか彼に私とそういった関係になりたいなんていう気持ちがあったなんて。私としては望むところだけど、いいの? 
「あ、あぅ……」

読書で語彙力だけはついていても、こういうときには何を言っていいか分からない。動きも手を出したり引っ込めたりで、傍から見たら不審者以外の何者でもないだろう。

とはいえ、このままじゃ彼に恥をかかせるだけ。ちゃんとその気持ちに応えないと。

「いや〜、悪い悪い。お前こういうの極端に苦手だろ? 悪いって分かっててもついからかっちまうんだよな〜」

私が意を決して手を伸ばした瞬間、彼はあっさりネタばらしをしてリングを持っていた手を引っ込めた。そのまま何事も無かったのように私に背を向け陳列されたアクセサリーを見る彼。

「……」

 落ち着きなさい私。ここで彼に手をかけてもいい事なんてないわよ? 
 いえいえ、ここで一回意識を失わせた方がいい結果になるんじゃないかしら? 
ついさっき買ってもらったばかりのチェーンを握り締め、一歩ずつ危険な考えへと近づいていく。

そうよね、いっその事ここで亡き者にした方が——じゃないでしょうが。

どうもここ最近、クラスメイトの短絡的な思考が伝染してきたみたい。頭を2、3度振って軽く深呼吸をする。よし、もう大丈夫。

ある程度気持ちが落ち着いた所で、珍しく真剣な顔をしてペンダントを見つめている彼に近づく。

「どうしたの?」

「ん? ああ、これなんだけどな」

私の声に答える彼の視線の先にある物は十字架をモチーフにしたペンダントトップだった。シンプルな作りだけど、私としても好きなデザイン。

「買えばいいんじゃない?」

「……俺がこんなのつけてたらバカにされないか?」

よく分からない所で不安がるわね。今までアクセサリーなんかつけていなかった分、皆興味を持つだろうけど馬鹿にはしないだろう。

「そんな事ないから。早く買いなさい」

「よく見ろ、もっと重要な問題があるんだ。……ペアじゃないと売ってないんだよ」

「……そうみたいね」

確かに彼の言うとおり、カップル専用なのかセットでしか売らないと書いてある。

「欲しいけど、ペアの買うのはちょっとなぁ……」

本気で悔しそうに言う彼。簡単なことなのに、何を困ってるんだろうか。

「だから、買えばいいじゃない」

「だ〜か〜ら、ペアじゃないと買えないって」

「私がいるじゃない」

頬に熱を感じながら、なるべく何でもない様に言ってみる。うん、我ながらいい答えを思いついたものね。

「……いやいや」

彼は私の精一杯の言葉を苦笑いで流そうとする。こっちこそ『いやいや』と言いたくなってしまう。

「何が不満なの?」

「不満って言うかさ、これカップル用じゃんか」

「そうね」

「……俺達、カップルか?」

恐る恐るといった感じで予定通りの答えを返してくる。

「さっき言ったじゃない。カップルらしくした方がいいって」

だから、私も予定通りの答えを返す。

「うぇっ!? ち、違うって、アレはちょっとしたジョークで——」

「郷に入っては郷に従えって言うじゃない。ほら、半分出すから早く買ってきて」

半ば無理矢理彼にトップとお金を渡す。何だかんだ言ってもやっぱり欲しいのだろう、彼はあっさりと引き下がってレジに向う。

彼と一緒に出掛ける事ができただけでも僥倖なのに、おそろいの物まで手に入るだなんて。誕生日も捨てたものじゃあないわね。

会計を済ませ、早速ペンダントをつけようとしている彼から私の分を受け取り、彼と同じ様にいそいそとペンダントをつけながら私達はお店を出た。

「緑? どこに行こうとしてるんだ?」

「……家だけど?」

家に向かって歩き出した私を彼が不思議そうな声で呼び止める。買い物も済んだし、当然の行動じゃない。でも、何故か彼の向いている方向は私達の家とは逆方向だ。

「おいおい、せっかくデートに出てるんだから今すぐ帰るってのはなしだろ?」

「デッデデデ——!?」

心の中ではそうであってほしいと期待していたものの、実際彼の口から聞かされるとかなりの破壊力ね。

「ま、それは冗談としてもだ。せっかく出てきたんだしもうちょっと色々行こうぜ?」

またもやあっさりと言ってのける。何か言い返してあげたいけれど、後半の提案が魅力的過ぎて結局言える事は無い。……何というか、単純すぎて自分でも笑いそうになる。

「……いいわよ」

「それじゃ、とりあえず適当にブラブラするか」

「えぇ」

単純でも、嬉しいんだから仕方ないじゃない。誰に言い訳するでもなく小声でこぼしてから、私は踵を返して彼の横に並んだ。

……・

「むぅ……」

お店を出てから、彼は何故かやけにきょろきょろと辺りを見渡して挙動不審になっている。あのペンダントが何かよくない影響でも与えてるのかしら? 
「どうしたの?」

「クラスの奴等がいないか見てるんだよ。お前とペアの物なんてつけてるし、見つかったら何言われるか分かったもんじゃない」

「……それもそうね」

「だろ? ってワケで緑も注意しといてくれ」

自分が外す、なんて発想が出てこないぐらい彼はペンダントを気に入っているのだろう。当然、私も外す訳が無い。

「分かったわ」

「頼んだからな?」

確かに彼の言う通り。見つかったらどうなるか——。

彼とは違う理由でクラスメイトの姿を探し始めた私の今の顔は、かなり悪い笑顔を浮かべてるんでしょうね。


『図書室』

無「緑」

緑「色無、なに?」

無「にらまないでよ」

緑「にらんでないわよ」

無「そうなの?」

緑「そうよ。それで何か用?」

無「図書室の本を借りたいんだけど、緑、図書委員でしょ?」

緑「借り方を教えればいいのね?」

無「うん」

緑「はい、これで次からは大丈夫でしょ?」

無「ありがと、緑」

緑「これくらい大した事じゃないわよ」

無「緑ってもっと怖い人かと思ってたよ」

緑「目つきのせいね、私も気にしてるのに」

無「ごめん、でも何でも知ってるから、カッコいいなーって思ってたよ」

緑「女の子にカッコいいはあんまりほめ言葉にならないわよ」

無「でも、かわいいよりカッコいいって感じだし」

緑「……そう」

無「あ、そうだ、面白い本があったら今度教えてよ」

緑「……いいわよ」

無「じゃあ、またねー」

緑「カッコいい、か。変なの、いやな気分じゃないわね」


『休日』

 読み終わった本を閉じると私は深呼吸した。

「……さてと」

 一息入れると次の本に手を伸ばす。

「ふーん、そっかー」

 隣から聞こえてくる無意味な声。

「色無、少しは静かにしてもらえないかしら」

「え?」

「声、出てたわよ」

「そっか、すまん緑」

 謝りはするものの、少しするとまた声を出し始める色無。

「はぁ……」

 私は聞こえないようにため息をついた。

 休日に私の部屋で本を読むのが習慣になりつつある色無を見つつ、思考を巡らせる。

 だいたい年頃の異性の部屋にきて、本を読むだけなんてどういうつもりなんだろう。

「……なるほど」

——今度はなにやら感心している。

「……ねえ」

——話しかけてみた。

「ん?」

「面白い?」

「ああ、ここだと普段より早く読めるから面白いよ」

 普段より早く? こっちは色無が気になって、ペースが半分くらいに落ちてるって言うのに……

「早く読むことと、面白さは違うでしょ?」

「え?」

「大体速読なんて出来るの?」

 少し八つ当たり気味に喋る。

「いや、なんて言うか頭にすんなり入ってくるんだよ」

「静かな所が良いなら図書館にでも行けばいいじゃない」

 気味と言うより完全に八つ当たりだ。しかも出て行けなんて、思っている事と正反対な言葉が口をついて出る。

「緑の読んだ本がある、この部屋がいいんだ」

「は?」

 この男、今なんて……

「緑が読んだ本を読めば緑の考え方が解るかな、と思って」

「!!」

——ああ、どうしよう!? 今、間違いなく顔が赤くなってる。

「そ、そ、そうなんだ」

——声まで動揺してる。

「……そう言う事だから」

 そう言って本に視線を落とす色無。

「……」

「……」

 カチカチと、壁掛け時計の音だけが響く。

 そう言う事って……そう言う事よね。

 一方的にやられたみたいで面白くない私は

「じ、じゃあ今度色無の部屋で本を読んでも良いかしら?」

 と聞いた。


 プルルルル プルルルル ピッ

『お客様がおかけになった電話番号は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため、かかりません——』

「はあ……またかよ、あいつ……」

 無機質なアナウンスに大きなため息をつくと、色無はつながらない携帯電話を忌々しげににらみつけた。

「つながんなかったらケータイの意味ないだろ!」

 同じ場所で待ち合わせていたカップルたちが次々と合流していくのを横目に見ながら、色無はイライラと吐き捨てた。

 

 結局、緑が息を切らせて待ち合わせ場所に現れたときには、約束の時間からたっぷり一時間は過ぎていた。

「……で? 今日は何か斬新な言い訳を聞かせてくれるんだろうな?」

「ごめんなさい……少し早めに出てきてしまったから、新刊をチェックしようと思って本屋に寄ったら——」

「ついうっかり時間を忘れて立ち読みにふけり、映画の時間に遅れてしまった、と。はいはい、つまりいつも通りってわけね」

 色無は不機嫌な様子を隠そうともしない。とりあえず入った喫茶店で、仏頂面をして窓の外を見ながらコーヒーをカチャカチャとかき混ぜる。

「ごめんなさい……」

 少しうつむき、緑は消え入るような声で謝罪を繰り返す。その表情は普段とあまり変わらないが、それでも猛省していることが分かるくらいには、二人のつきあいは長かった。

「……まあ、遅刻したことはもういいよ。次から気をつけてくれればさ。それより、なんでケータイ繋がんないの? 何回もかけたんだぜ」

「え? そんなはずないと思うけど……」

 びっくりしたように目を大きく見開き、緑は膝の上のポーチから携帯電話を取り出す。ウィンドウを見た瞬間、きゅっと眉根が寄った。

「あ……ごめんなさい、電源が落ちてたみたい」

「電源が落ちてた? 入れ忘れたんじゃなくて、勝手に落ちたのか?」

「うん。前から調子悪かったんだけど、ここのところ特にひどくて。電源ボタン押してもなかなかオンにならないし、なってもちょっとしたことですぐに落ちちゃうし」

 角度を変えたり、力を込めたりして電源ボタンを相手に奮闘する緑の様子に、色無は呆れてぐったりと脱力した。

「いや、そうなったらもう換えどきだろ。ケータイで話してるとき、やたらと聞き返すと思ったらそういうことだったのか……。よし、次の上映開始までけっこうあるし、ショップ行こうぜ」

「い、いいわよ別に。まだこれだって使えるし……」

「全然使えてねーじゃん。言われてみればずいぶん古い機種だよなあ。もっと早く気づけばよかった。ちょうどいいや、オレも一緒に機種変するから、お互いに指定番号割引つけてさ——」

「いいってば!」

 伝票を手にし、席を立ちかけた色無の手を取り、緑は驚くほど強い調子で制止した。店内が一瞬静まり、他の客やウェイトレスの視線が集まる。

「お、おい緑! あはは、すんませんお騒がせして。なんでもありませんから、大丈夫ですから……」

 引きつった笑いを周りに振りまき、座り直した色無は緑に顔を寄せてささやく。

「急におっきな声出すなよ。痴話喧嘩してるみたいだろ!」

「ご、ごめんなさい……でも、本当にいいから。これ、まだ使えるから……」

 我に返り、さすがに恥ずかしくなったのか、緑の頬がわずかに赤く染まる。それでも、携帯電話は大事そうに胸に抱えたままだった。

「なんだよ。どう考えたって使えてないのは緑だって分かってるだろ。そのケータイになんか思い入れがあんの? 初めての機種ってわけじゃないし、俺には心当たりないんだけど」

「……」

「言ってくれなきゃ、俺も納得できないよ」

 気まずい沈黙が二人のあいだを支配する。秒針が三週ほどして、色無が追求を断念しようとしたそのとき、緑がぼそりと呟いた。

「プリクラが……もうないから……」

「……なに? すまん、もう一回言ってくれ。ちょっと聞き取れなかった……ていうか、意味が分かんなかった」

 本当にまったく分かってない様子の色無にカッとなった緑は、噛みつくような勢いでまくし立てた。

「だから! 中学のときに色無と一緒に取ったプリクラが、電池カバーの中に貼ってあるの! ほら! 機種変するたびに新しいの貼ってて、これが最後の一枚なの!」

 緑はがちゃがちゃと携帯電話の電池カバーを外し、乱暴に色無の目の前に突き出した。反射的にのけぞった色無は寄り目になって焦点を合わせる。

「んーと……あー、思い出した。みんなと一緒にゲーセン行ったとき、一回だけ緑とツーショットで取ったことあったっけ」

 今と比べるとずいぶん旧型のマシンで取ったそれは写りも悪く、フレームなどの飾りも簡素なもので、色味も抜けて白っぽくなってしまっていた。

「うはー、俺の髪型すげえな。当時はこれがかっこいいと思ってたんだよなあ。緑は照れてうつむいちゃって、全然顔写ってないし。それにしても……中学生の緑、めちゃめちゃかわいいな」

「う、うるさい! そんなのどうでもいいのよ! とにかく、これが最後の一枚なの! 剥がそうとしてもうまくいかなかったから、ケータイ変えるわけにはいかないの! 分かった!?」

 普段のクールな姿からは想像できないほどに声を荒げ、はあはあと肩で息をする緑。その呼吸が整うのを待って、色無はことさらに神妙な顔で口を開いた。

「えー、緑くん。つまり君は、この色無との大事な思い出であるプリクラが惜しくて、携帯電話を新しくすることができない、と言うんですね?」

「……そうよ、悪い? いいでしょ、別に。大切なものなんて人それぞれなんだから……」

 先ほどまでの醜態を恥じているのか、緑は努めて声を抑えていたものの、視線は落ち着かず、顔は耳まで朱に染まっている。

「いやいや、そういうことなら話は簡単じゃん。今から新しいの撮りに行って、それから機種変しよう」

「え? い、嫌よ、そんなの……若い子に混ざってプリクラ取るの、恥ずかしいし……」

「若い子って、俺たちだって充分若いだろ。よし、急いで行くぞ。お勘定お願いしまーす。あと、この近くでプリクラ置いてあるゲーセンとかってありませんか?」

「ちょっと、ホントに嫌だってば!」

 

 渋る緑をなだめすかしてゲームセンターに引っ張り込み、大きく様変わりしたプリクラマシンの操作方法に二人でまごつき、フレーム選びや書き込みメッセージの一つ一つに大騒ぎして——。

 結局、その日の映画は見られなかった。


桃「見て見て!これ、かわいくない?」

橙「超かわいいし〜どこで見つけたの?」

緑「……」

無「どした?緑なんか不機嫌じゃね?」

緑「……なんか、みんなめったやたらに、『かわいい・かわいい』って言いすぎだと思って」

無「うーーん?そ言えばそうかもなあ?」

緑「語源は違うんだけど、今は当て字でも漢字で書けば『愛』って入るし」

無「ふんふん」

緑「だから、言葉は選んで欲しいっていうか……大切にして欲しいって言うか……」

無「なるほど……」

緑「まあ、私が細かい事気にし過ぎって事もわかるんだけど……」

無「……」

緑「気難しい女だなあって思ったでしょ」

無「可愛いよ」

緑「……ッ。馬鹿ーーー!!『馬を見て鹿と言った』」


「ふぅ」

少女は読んでいた本を閉じ、顔を上げた。

毎年この季節は憂鬱だ。

毎日、雨ばかりで空気がじめじめしているというのもある。

しかし彼女を憂鬱にさせるのはそれだけではなかった。

「これじゃ落ち着いて本も読めやしないわ」

図書室は何も本を読んだり借りたりするためだけの場所ではないのだ。

この季節、クーラーのきいた快適なこの空間には外の蒸し暑さから逃げ延びてやってくる輩も大勢いるのだ。

(さっさといなくならないかしら……)

心の中で悪態を吐きつつ、時計に目をやる。

(あ、もうすぐ来る時間だわ)

すると少女は急に身だしなみを気にしはじめたのだった。

(制服の乱れなし、髪も変なふうになってないよね?)

そして最後に先ほど閉じた読みかけの本を開いて準備完了。

戦闘態勢はすべて整った。

—ガチャ

彼女の予測通りしばらくして『彼』が扉のかげから顔を出した。

「おっ、いたいた」

それが自分に向けられた言葉であることは明確だったが彼女は気づかないフリをする。

「やっぱここはクーラーがきてて涼しいな〜」

そんなことを言いながら彼は彼女のいるカウンターのところまでやってくる。

彼女は目だけでチラリと彼のほうを見て、また視線を本へと戻す。

「みーどーりっ♪」

「今日は何しにきたの、色無?」

「いや、これといった用があるわけじゃないんだけど、ただ緑がいるかなぁと思って寄ってみた」

色無は当然のことのように言ってのける。緑はやっと本を閉じ視線を色無のほうへと移す。

「本、よかったのか?読んでたんじゃ……」

「話をしながらじゃ効率が悪いの。どうせなら一人で落ち着いて読みたいし」

「そうか……何か悪いことしちゃったな……」

(あ〜もう!私ったら。もっと他に言いかたがあるでしょ!何でこうなっちゃうのかしら……)

こんな自分が本当に嫌になる。

(普段から本ばかり読んでいるから語彙量は人よりも多いはずなのに……肝心なときに限って……)

そんな彼女の悩みをよそに色無は続ける。

「なに読んでんだ?」

今度は緑の手の下に隠れている本に興味を持ったようだ。

「色無には難しくて言っても分からないわよ(あぁ……また……)」

「ふ〜ん。緑は読書家だからな〜それに比べて俺は本なんて全然読まないから」

緑が心配するほど色無は気にした様子はない。

「なぁ、本読むのっておもしろいか?」

「その本がおもしろければ楽しいし、そうじゃなければ楽しくないわ」

「そりゃそうだ。じゃあ俺はまだおもしろい本に出会ってないってことか」

「そういうことになるんじゃないかしら」

「じゃあさ……」

そう言うと、突然色無の顔がカウンターを越えて緑のほうに近づいてくる。

(な、なに!?)

「緑が俺におもしろい本を紹介してくれよ」

「な、なんで私が?」

「ほら、やっぱ専門家に頼るのが一番手っ取り早いかなと思ってさ」

「う〜ん……」

「いやか?」

「そういうわけじゃないけど……人に本を紹介するのって難しいわ」

「じゃあ緑が好きな本を紹介してくれよ」

「えっ!?」

「緑がどんな本を好きなのか興味あるし」

「!!!!!」

pencil_1884.jpg

「な、頼むよ」

「……わかったわ」

「本当か!サンキュー」

「……あんまり期待しないでね」

最後まで聞かずに色無は図書室を飛び出していってしまった。

緑のなかに新たな悩みの種を残して。

それから閉館時間までに、緑は半ページも読み進められなかった。


 がちゃ

「!?」

「お、緑」

「い、い、い、色無!」

「鏡にむかって何してたんだ?」

「……」

「?」

「……言ってもいいけど、笑わない?」

「おう」

「ほら私って目つき悪いし、無愛想に見られがちじゃない?」

「そうかなぁ?」

「だから鏡の前で『笑顔』の練習してたってわけ」

「練習なんかしなくても、今のままで緑の笑顔は十分魅力的だと思うぞ」

「なっ!?」

「どうした?顔赤いぞ?」

「な、なんでもない!!」


『とある文芸部の禁書目録』

男「ん……朝か」

?「すーすー」

男「……」

?「すーすー」

男「朝起きたら知らない女の人がベッドで寝てるって良くあるよね? そうそうあるあr……ねーよ」

?「すーすー……うぅん」

男「……オーケー落ち着け俺、今最大の問題はもう少しで侍黒がやって来るってことだ」

?「男……」

男「……今寝ながら人の名前呼びやがりましたよこの美人は、ちょっとハスキーな声が素敵……」

?「すーすー」

男「ってどういうつもりっすか色無のダンナ」

無「……バレたか」

男「いやびびったんすけどね、見事に女装してるし」

無「一言で言うと……ドッキリ?」

男「首謀者は?」

無「橙が侍黒をそそのかして」

男「なる程、でもお陰で特殊な趣味に目覚めそうですよ」

無「まて! 謝るからにじりよるな」

緑「……と言う展開に」

無「何してるんだ、緑」

緑「……頼まれものの創作を」

無「……副部長やめて良いか?」

緑「すぐに廃棄する」

無「もう少し普通なのは書かないのか?」

緑「それは色々問題があって(どうしても私と色無の甘甘な話になっちゃうし)」

無「そうか、でも出来るだけ努力する方向で頼む」

緑「……努力はするわ」


 鍵のかかる音に橙が振り返ると、そこにはロープを手にした色無が立っていた。

「どうしたの色無?」

 だが色無はその声に応えず橙に飛びかかった。

緑「えーと『何をするの色無! や、やめて』」

無「あー、部長さん?」

緑「『色無は手早く橙の両手にロープを』……何ですか副部長」

無「やたらと不穏な言葉が聞こえてくるのは気のせいですか?」

緑「失礼ね、今度はれっきとした部活動よ」

無「……どの辺が?」

緑「活動費の調達」

無「売るのかよ!」

緑「無差別に売るなんてしないわよ?」

無「じゃあ誰に売るんだよ」

緑「依頼主」

無「だからそれが誰かって聞いてるん——」

ガチャ

橙「緑、出来たー? ……い、色無! どうしてここに」

無「文芸部の副部長が部室にいちゃまずいのか?」

緑「色無に邪魔されてるからもう少しかかるわよ」

橙「そ、そうなんだ。あ、用事を思い出した。じゃあまたね」

無「……」

緑「ふぅ……せっかちね」

無「……」

緑「色無どうしたの?」

無「……オレってそんなキャラなのか?」

緑「ちょっと激しくってリクエストだったから」

無「全面改定を要求する!」

緑「仕方ないわね、じゃあこれはこっちのフォルダに……」

無「その禁書フォルダってなんだよ?」

緑「……陽の目を見られないかわいそうな私の子供達」

無「テキストファイルで……10800個……」

緑「色無がダメとか言うからまた増えたわ」

無「……」

緑「いつかまとめて本にしてあげるからね」

無「やめてくれ頼むから」


無「えーと、今日は健全な部活動について話し合いたいと思います」

緑「具体的には?」

無「妖しげな個人誌を作らない」

緑「妖しげとは失礼ね、男女の美しい心の交流じゃない」

無「部長の言う美しい心の交流というのは、ヤバげな薬を盛ったり、放課後の教室で

いきなり押し倒したりする事ですか?」

緑「実際やったらまずいでしょ?」

無「犯罪確定だからな」

緑「副部長、口調が戻ってるわよ」

無「いや、同い年なのになぜか部長に丁寧語な幼なじみの副部長、って設定は何か意味があるのか?」

緑「体験した方が書きやすいじゃない」

無「この知識をどんなことに活かすんだよ」

緑「何事も経験よ」

無「……」

緑「実は部長に弱みを握られてる、なんてどうかしら」

無「……なんだよ、その意味ありげな笑い方は」

緑「なんでもないわ。……実際は逆だしね」

無「は? オレが緑の弱みを握ってるってのか?」

緑「……」

無「なんだよ、その信じられないものを見つけたような目は」

緑「なんでも……さすが自動フラグ生成機にして鈍感王なだけはあるなって」

無「……意味はわからないけど、どう考えてもほめてないよなそれ」


男の子とおひめさま

 あるところに、とてもやさしくてきれいなおひめさまがいました。

 おひめさまはみんなにしたわれて、しあわせな毎日をすごしていました。

 ある日のことです。森にでかけたおひめさまは、そこでさびしそうにしている男の子にであいました。

 男の子は森をまもるために、かみさまからふしぎなちからをもらっていました。

 森の木やどうぶつたちがケガをしても、すぐになおすことができるのです。

 でも、そのふしぎなちからはまちの人はこわがられていて、男の子は友達ができずにさびしい思いをしていました。

 でもおひめさまはふしぎなちからを見てもおどろいたりしませんでした。

 それどころか、わたしとあそびましょう? とあそびにさそってくれます。

 はじめはあそばなかった男の子も、毎日さそいにきてくれるおひめさまのことがだんだんきになってきます。

 そんなある日のこと、森を見まわっていた男の子はけがをしてしまいました。

 じぶんのケガだけはなおせない男の子は、ケガがいたくてないてしまいます。

 すると、そこにおひめさまがやってきました。

 ないている男の子を見たおひめさまは、きていたドレスでほうたいをつくると男の子のてあてをしてくれました。

 男の子は、てあてをしてくれたおひめさまがとてもすきになってしまいました。

 それからは男の子とおひめさまは毎日あそぶようになりました。

 でも毎日森にあそびにきていたおひめさまは、ある日とつぜん森にこなくなります。

 近くのまちからやってくることりが、おひめさまがおしろから出られなくなったことと、おひめさまのおむこさんを決めるために、きょうそうをすることに決まったと教えてくれました。

 男の子はなやみます。

森のことしかしらないじぶんが、おひめさまのおむこさんになれるかな?

 たくさんかんがえた男の子は、まずまちに行くことをきめて森の木やどうぶつたちにおわかれをいいました——

 

「……あれ? これで終わり?」

 読み終わった彼の第一声は予想通りのものだった。

「だから言ったでしょう? 未完成だって」

 だから準備していた答えを返す。

「そうなのか?」

「そうよ、大体色無が過激だなんだって文句を言うから仕方なく一番古いのを見せてあげたんじゃない」

「ふーん、でもこれどこかで見たような話だな」

「題材も珍しいものじゃないし、どこかで見たとしても不思議じゃないわよ」

 言いながら自分の鼓動が加速するのを感じる。

——当然だ、性別と立場を逆転させているだけでほとんど昔の色無と私の事なんだから。

 本の虫になって外に出なかった私に、外で誰かと遊ぶ楽しさを教えてくれたのは貴方。

 怪我をした私のために、お気に入りのシャツを破って手当てをしてくれたのも貴方。

——貴方は気付いているだろうか。

 貴方に話しかける話題を探して本を読むあまり、眼鏡を掛けるほど視力を落としてしまった私の事を。

——貴方は気付いているだろうか。

 周りの人が「緑、なんだか怖い」と言って、目つきの悪くなった私を少し敬遠する

ようになっても、変わらず接してくれた貴方に毎日惚れ直している事を。

——貴方は気付いているだろうか。

 貴方と会話する時間を増やしたくて、文芸部の副部長に半ば無理矢理なってもらった事を。

「じゃあ未完成ならさ、完成させないか?」

「……先の事なんてわからないもの」

「いや、現実じゃなくてさ、お話だろ? これ」

「……今は思い付かないわね。色無ならどうしたい?」

「やっぱりハッピーエンドが良いんじゃないか? これだけ男の子の所に来てたんだから、好きなんだろ? このお姫様の方も」

「……やっぱりそう思う?」

「ああ。というか物好きだよな、このお姫様も」

「そうよね、城の中とか街にも良い男はたくさんいるはずなのにね」

「……で、どうするんだ?」

「そうねマイペースで頑張ってみるわ」

——二重の意味で私は答える。

「ああ、頑張れ。緑ならできるさ」

 と、彼は私に笑いかけてくれた。

——男の子の行く手には結構な困難が待っていそうだけどね。


俺の彼女はかわいい

「なぁ緑、何見てんだ?」

傘をさし、紫陽花を見つめている。

「お、紫陽花か」

「ん」

彼女の指先には2匹のカタツムリ。

「仲いいんだな」

「ん」

俺の右手を握る彼女。柔らかい手の彼女。

「帰るか?」

「ん」

「だから擬人化カタツムリのふたなりレズの同人はやめて」

かわいい彼女です。


『冷暖房完備?』

無「……あの、緑?」

緑「……」

無「……緑さん?」

緑「……」

無「……ふぅー」

緑「ひゃあ! なにするのよ色無!」

無「それ、どちらかというと俺の台詞じゃね?」

緑「どうして?」

無「ここはどこ?」

緑「クーラーの効いた色無の部屋」

無「あなたはなにをなさっていらっしゃいますか?」

緑「……読書」

無「それはいいんだけど」

緑「なら問題ないじゃない」

無「いや、なんで俺の膝の上で、しかも俺にもたれ掛かって読んでるんだよ」

緑「寒いから」

無「自分の部屋に——」

緑「クーラー壊れてて暑い」

無「じゃあ設定変えるから離れ——」

緑「今良いところだから動けない」

無「さっきもそう言って——」

緑「色無のおすすめだから続けて読みたい」

無「……」

緑「……ほかには何か?」

無「……ありません」

緑「……ふぅ」

無「終わったか? じゃあ——」

緑「もう一回」

無「……もう好きにしてくれ」


『夕餉の一時』

無「黄緑さん、今日の夕飯の当番なんですか?」

黄緑「ええ」

無「でも確か今日は朱色さんじゃ」

黄緑「なんでも頭痛が酷くて起きられないとかで」

無「……二日酔いですか?」

黄緑「かもしれないですね、後でお粥でも作りますね」

無「……ついでに黄緑さんの爪の垢でも煎じて飲ませたいですね」

黄緑「でもいいんですか? 手伝っていただいて」

無「大したことは出来ないですけど、高い所にあるものくらいなら取れますから」

黄緑「ありがとうございます、じゃあそこのお鍋を取っていただけますか?」

無「はい……どうぞ」

黄緑「ありがとうございます。ふふ、なんだか新婚の旦那様みたいですね」

無「え!」

黄緑「後は大丈夫ですから」

無「そうですか? それじゃあ夕飯楽しみにしてます」

橙「……豪華」

黄「……ホントに」

緑「黄緑がいないと、この寮は多分だめになるわね」


ざざ〜ん。ざざ〜ん。

始まったばかりの夏休み。青い空。白い雲。照りつける太陽。そして目の前に広がる海。今日は文句のつけようのない、絶好の海水浴日和だ。

少し離れた所から楽しそうに騒いでいる声が聞こえてくる。それなのに。ああそれなのに。何故俺は着替えもせずに海を見続けているんだろうか。

足元に打ち寄せる波を見ながら疑問を投げかけても、当然誰も答えてくれない。

事の始まりはクーラーの壊れた部屋から脱出して、コンビニへでも行こうと家から出たところで緑と鉢合わせになったことだ。

基本的に、というかほぼ常に家で読書をしている緑がわざわざ外へ出かけるなんてめずらしいので、思わず俺は行き先を聞いた。

「お、どこに行くんだ? 珍しいじゃねぇか」

「ちょっと海へ行こうと思って」

「俺も行く」

その言葉を聞いた瞬間、反射的に答えてしまった俺を誰が責めることが出来ただろう? ついさっきまで外より暑い部屋の中にいたんだぞ? 
……緑の水着姿が見れるかもっていうのも健全な男子としてちょっとは期待してたけど。

「別にいいけど、私一人だし何も楽しいことなんてないわよ?」

「海に行くだけで十分楽しいって。準備してくるから、ちょっと待っといてくれ!」

俺の無茶な要求に動じることもなく、いつも通り冷静に返してくる緑。その言葉を聞いた瞬間、俺は海水浴の準備をしに出てきたばかりの家へ再び飛び込んだ。

そう、本来ならここで気付いておくべきだったんだ。緑が一人で行くと言った事と、その手荷物がやけに少なかったって事に。

電車に揺られて数十分。俺達はこの一帯では有名な海水浴場へと着いた。駅を出た瞬間からする潮の香りに俺のテンションは上がりっぱなしだ。

尻尾があったなら間違いなく千切れ飛んでいるぐらいに振っていただろう。

「どうする!? 早速行くか?」

「そっちじゃない。こっちよ」

返事を待たずに海の家へ向かって走り出そうとしている俺を制して、緑が歩き出す。

「へ? こっちでいいのか?」

「えぇ」

その足が向かっているのは何故か海の家がある砂浜とは逆方向だった。少し不思議に思ったものの、緑のすることだし、何か意味があるんだろうとタカをくくってついていく。

しばらく歩いてたどり着いた場所は磯釣りを楽しむ人達がまばらにいる防波堤だった。当然、泳ぎに来るような場所じゃあない。

「……ここ?」

「そうよ」

念のために確認を取ってみるが、どうも目的地はここで間違いないらしい。俺が呆然としている間に、緑は既に座ってバッグの中から本を取り出して読み始めようとしている。

「いや、お前、泳ぎに来たんじゃねぇの?」

「……何でわざわざ一人で海に泳ぎに来ないといけないの?」

軽く不審そうな顔で緑が答えるが、全くその通り。俺だってこの辺りが地元でもない限り一人で泳ぎにこようとは思わない。

「でもさ、読書だったら家ででも——」

「毎日家にいるばかりじゃあ芸もないし。時々気分転換に使ってるのよ、ここ」

第一、たまには外に出ろって言ったのは貴方じゃない、と少し拗ねた様な表情をしつつ緑が付け足す。確かにそんな事を言ったような気もするけど、外で読書しろって意味じゃねぇよ——っていうか、今重要なのはそこじゃない。

「じゃあ海水浴は……」

「私はしないわよ。水着も持ってきてないし」

何当たり前な事を聞いてきてるんだって感じの顔をしている緑の横に置いてあるバッグの薄さは、改めて見ると泳ぎに来たとは考えられない。

はい、これで気分転換の気分転換をするという可能性も消えました。つまり、泳ぐ可能性はゼロになった訳ですね。泳げないと分かった途端、がっくりと膝から崩れ落ちる。

「ちょ、ちょっと大丈夫? ……そんなに泳ぎたかったんだったら、私を気にせずに泳ぎに行ってきて?」

緑が気を使った事を言ってくれるが、こちらに視線を合わせずにどこか寂しさを含んだ声で言うこいつを残して行ける訳がない。

「気にすんな、勝手についてきたのは俺だし、今日はここでボーっとしとく事にする」

「……でも」

「お前も言ってただろ? 俺だってわざわざ一人で海に入ろうだなんて考えねぇよ」

体育座りの体勢からきちんと緑の横に座り直し、軽く彼女の頭を小突く。

「……そう」

相変わらず何事も無かったかのように俺の方を見ずに答えているが、その唇がちょっとだけ笑みの形になっているのを俺が見逃す訳がない。

……とりあえず、めったに見る事のない緑の嬉しそうな顔が見れたからここに来た意味もあったかな? 

——と、ここに至るまでの経緯を意味もなく思い返してもそんなに時間は経ってない。

隣に座っている緑は日傘をさしていつも通り黙々と本を読み続け、俺を視界に入れる気配はない。……やっべ。びっくりするぐらいヒマ。

読書中の緑に話かけても会話にならないのはわかりきった事だし、ここまで来て寝るのもなんとなくシャクだ。

何かする事がないかと意味もなく辺りを見回すと、少し離れた所に自販機が見えた。よし、とりあえずあそこに行くか。

「緑、ちょっとジュース買いに行ってくるからな」

「……ん」

聞いてるのか聞いてないのか、こちらを見る事なく明らかに適当に返事をしてくる緑を置いて、俺は自販機に向けてダラダラ歩き始めた。

……何しに来たてるのかは俺が一番聞きたいんだから、放っておいてくれ。

……本当に何してるんだろうな、俺。緑のいる防波堤に向かって歩きつつ、ため息をつく。

いやいや、悪いのはあの自販機の方だ。何だよ全部売切れって。ふざけてんの? ともかく、気付いたら海の家に向かって全力疾走していた俺。

間違っても俺は汗だくになってまでジュースが買いたかった訳じゃない。でも、右手のタコ焼きと左手のペットボトルが全てを物語っている。

いやあ、これが若さか——ってバカ。緑が呆れた顔で俺を見る姿が容易に目に浮かぶな。……いや、読書中だし気付くこともないか。

よかったよかった、と全く何も解決していないのに、今度は安堵のため息をついて更に歩を進める。

……あれ? ある程度緑の近くまで戻ってきたが、彼女がいつの間にか読書を中断している。そして何故か日傘をさすのもやめて、待ち人来たらずといった感じの不安そうな表情で海を眺めている。

「何してんだ? 日射病になるぞ、お前」

その表情を見ていると声をかけるのがためらわれたが、そのままにしておく訳にもいかない。とりあえず、なるべく何でもない風を装ってジュースを渡しつつ声をかける。

「……あ、泳ぎに行ったんじゃ、ないの?」

緑はこちらを振り向いて一瞬驚いた顔をしたものの、すぐに安堵の混じった柔らかな笑みを浮かべる。

「さっき否定したばっかなのに、そんな事しねぇよ。ジュース買いに行ってくるって言っただろ?」

「……そう?」

相変わらず視線を逸らしてとぼけたように言う。ま、読書中のこいつの事だし、分かりきってたけど。

「それより珍しいな、読書中断してるなんて。何かあったのか?」

「ちょっと……ね。考え事をしたかったの」

「ありゃ、邪魔したか?」

「ううん、ちゃんと解決したから。大丈夫」

そう答える緑の表情は晴れ晴れしたもので、確かに悩みがあるようには見えない。これ以上特別俺から聞くこともないし、緑から話しかけてくることもない。

ただ、たこ焼きを頬張りながら波の打ち寄せる音を聞く。二人でゆっくり食べていたたこ焼きが無くなってからしばらく経った時、突然緑が俺に寄りかかってきた。

「ぅえっ!? ど、どうした?」

「何となく」

肩に感じる緑の感触に軽くパニックを起こしながら話しかけるが、あっさり受け流される。

「何となくってお前なぁ……」

「別にいいでしょう? 何処に行く訳でもないんだし」

これで話はおしまいとばかりに目を閉じ、体重を俺に預けきってリラックスした状態の緑がこの体勢から動く気配はない。

会話が全く無く、何もしていないのはさっきと同じはずなのに、何故か今はヒマだと感じない。というか、このままの体勢でしばらく居たいと思ってるのは何でだろうか。

……ま、いっか。確かにこの状態はリラックスできるし、深く考えるのは俺の性にあわない。俺は考えることをあっさり放棄して、俺の方からも軽く緑に寄りかかって再び海を眺め始めた。

「じゃあ、私こっちだから」

地元の駅に着いた所で、緑はそう行って俺達の家とは逆方向に歩き出した。

「ん? どっか行くのか?」

「……海、泳ぎに行こうかなって。だから、水着」

ちらちらとこちらを伺いながら言う緑。分かりやすすぎて、思わず吹き出しそうになる。

「俺も行っていいか?」

「仕方ないわね、いいわよ」

緑が望んでいるであろう答えを返すと、予想通り間髪入れずにオッケーが出る。今こいつの顔が赤いのは日焼けのせいだけじゃないだろう。

「……何ニヤニヤしてるの?」

「何でもないって。ってか、海いつ行く?」

「明日」

「早っ!?」

とりあえず緑と並んで歩き始める。いつもより近い距離が、何故か自然に感じているのがちょっとだけ嬉しかった、夏休みのある一日の出来事。


紫「あついなぁ」

橙「誰か三矢サイダー買ってこーい」

黄緑「みんな元気ないですよ。ほら、緑ちゃんを見てみなさい。汗一つかいてないわよ」

桃「本なんか読んで暑くないのぉ?」

緑「慣れてるから」

友「列長いねぇ!」

緑「もう少し早く出ればよかったわ」

緑(夏コミのほうが暑いからかしらね)


「緑、ちょっとお願いがあるんだけど。私の代わりに白のお見舞いに行ってくれないかしら」

 廊下で顔を合わせた途端にそんなことを言われ、緑はしばし返答に詰まった。

「……別にいいけど。突然どうしたの? いつだって白の面倒はあなたが見てきたのに」

「私だって自分で行きたいけど、今日は生徒会の打ち合わせで学校に行かなきゃいけないのよ。病院とは反対方向だし、面会時間内に戻ってこられるか分からないから」

「だったら一日くらい……」

 お見舞いに行かなくても——とは続けられなかった。黒の刺すような視線に気圧され、緑は口をつぐんだ。

「夏休みになってすぐに入院した白には、それしか楽しみがないのよ。読書好きのあなたになら、それを理解できるだけの想像力があると思ったんだけど」

 確かに、病室で漫然と時を過ごす身を思ってみれば、見舞いは嬉しいものだろう。それに自分が行けない悔しさを全身からにじませている黒を前に断ることなどできなかった。

「そうね、分かったわ。何か持って行くものとかある?」

「昨日お花と果物を届けたから、今日は手ぶらでいいわ。それじゃ私はもう出るけど、よろしくね」

 急ぎ足で玄関に向かい、靴を履いて駆けだしていく黒の背中に、緑は手を振った。

「いってらっしゃい……夏休みだっていうのに、執行部は大変ね。さて、それじゃ私も準備しなきゃね」

 部屋に戻り、身支度を調える。ポーチに財布と携帯を入れ、少し考えてから読みかけの文庫本も持って行くことにする。

「お見舞い、か……そう言われてもね……」

 別に白のことが嫌いなわけではない。しかし入院しがちな白と、積極的に他人と関わろうとしない緑のあいだにはあまり接点がない。正直、気が重かった。

「……今日も暑いなあ……」

 冷房の効いた寮から一歩外に出ると、真夏の日差しが容赦なく照りつける。ますます重くなる二本の足に気合いを入れて、緑は病院目指して歩き出した。

 

「いらっしゃ……緑ちゃん!?」

 うろ覚えだった病室を受付で確認し、ドアの脇につけられた名札を二度ほど見直してから病室に入った緑を、白が病人にあるまじき大声で出迎えた。

「久しぶり、白。今日は黒が学校の用事で来られないから、代わりに私が来たわ。お邪魔だった?」

「う、ううん、ううん! そんなことないよ!」

 白はつきだした両手をぶんぶん振って否定し、かたわらに立てかけてあったパイプ椅子をがたがたと音を立てながら広げ、緑に勧めた。

「ありがとう。思ったより元気そうね。安心したわ」

「う、うん。お医者様が言うには、今年は梅雨が明けて急に暑くなったから、身体がびっくりしただけだろうって。もう少ししたら退院できますよって」

「そう。よかったわ」

 会話がとぎれる。病室にいたたまれない空気が漂った。

「えーと、寮のみんなはどう? 元気?」

「そうね、みんな元気よ。灰は相変わらずだらけてるけど、今に始まったことじゃないし」

「そうなんだ……」

 再び、沈黙。

「……体調はどう?」

「え? うん、その、暑さにやられただけみたい……」

「……そういえばさっき聞いたわね」

 三度、沈黙。

「……この花、ちょっとしおれちゃってるわね。水を換えてくるわ」

「あ、う、うん」

 花瓶を抱え、病室のドアを後ろ手に閉めた緑はゆっくり大きくため息をついた。

「やっぱり無理だわ」

 

 水替えにできるだけ長い時間をかけた緑が戻ると、ナイフとリンゴを持った白が必死の表情で手を動かしていた。

「なにしてるの?」

「あ、おかえりなさい。せっかく緑ちゃんが来てくれたんだから、おもてなししなくちゃって思って。リンゴ剥いたから食べて」

「普通そういうのは見舞いに来た人が病人のためにするものよ。それにしても……」

 白が満面の笑顔で差しだしてきた皿に載ったものを見て、緑はあきれ顔になる。リンゴはサイズが半分くらいになり、剥いた皮を食べた方が満腹になりそうなくらいだった。

「あなた不器用だったのね。ううん、ここまで分厚く皮を剥けるなんて、かえって器用なのかも。ほら、貸しなさい。私が剥いてあげるわ」

 白の手からナイフと二つ目のリンゴを取り上げ、緑はみるみるうちに皮を剥いていく。細く薄い皮が途切れることなく続いていくのを、白は感嘆のまなざしで見つめた。

「すごい……緑ちゃん器用〜!」

「これくらい普通よ」

 きれいに八等分にし、さらに並べられたリンゴたち。しかし白はそれに手をつけようとはしなかった。

「どうしたの? 食べないの?」

「あの、ごめんね……せっかく来てもらったのに、退屈だよね」

 申し訳なさそうに詫びる白から、緑はつい視線を逸らしてしまった。

「そんなこと……ないけど」

 慌ててそう取り繕っても、その態度から緑の本心を察知した白はますます縮こまってしまう。

「本当にごめんなさい。私、黒ちゃんしか友達いなくて……その黒ちゃんが来てくれたときもお話を聞くばっかりで。自分からどんなお話ししたらいいか分からないの」

「それは……私も同じようなものだし」

「今日緑ちゃんが来てくれて、私とっても嬉しかった。私いっつも、寮のみんなともっと仲良くなりたい、緑ちゃんとも友達になりたいって思ってたから。それなのに……」

 ここに来てようやく、緑はなぜ黒が自分に代わりを頼んだのか分かった気がした。そもそも、黒が生徒会の用事ごときで白の見舞いを諦めるはずがなかったのだ。

「もっと早く気づくべきだったわね……黒も、それならそうと言えばいいのに」

「? 何、緑ちゃん?」

「なんでもないわ」

 不思議そうな顔で見つめてくる白に、緑は椅子を寄せて近づき、にじんだ涙をハンカチでそっとぬぐってやった。

「無理に話をしなくてもいいじゃない。私も人とおしゃべりするのは苦手だし。ほかの人たちに比べて時間はかかるかもしれないけど、少しずつ分かり合っていけばいいわ」

「緑ちゃん……」

「それに、共通の話題がないってわけでもないみたいだし。ほら」

 緑が指さす先を、白が目で追う。そこには枕元に置かれた文庫本があった。

「白、そのシリーズ好き? 私いま二冊目を読んでるところなのよ。ほら、これ」

「! う……うん! 同じ作者の前作がおもしろかったから黒ちゃんに頼んで買ってきてもらったんだけど、主人公の女の子がとっても可愛くて——」

 その後、白と緑は『女の子が幼なじみと転校生のどちらと結ばれるべきか』で大いに盛り上がった。

 

 それから数日。

「おい、黒。お前、人に荷物持ちさせといてさっさと先に行っちまうとはどういう了見——黒?」

 見舞いの品を抱え、涼しい院内でもなお汗の引かない色無の文句を、黒は身振りで制した。病室の中をうかがう黒につられ、色無もそっとドアの隙間をのぞき込む。

「……」

「……」

 室内では、ベッドに半身を起こした白と椅子に腰掛けた緑が、一言も会話を交わすことなく黙々と本を読んでいた。時折視線を合わせると笑みを交わし、また本に目を戻す。

「何やってんだ、あの二人? つーかお前も何やってんの?」

「……今日は帰るわよ」

 そっとドアを閉じ、足早に立ち去る黒の背を、色無は慌てて追った。

「はあ!? 帰るってお前、この荷物はどーすんだよ!」

「仲良く二人で本読んでるところを邪魔するわけにはいかないでしょ」

 仏頂面で歩く黒の横に並び、色無は荷物を抱えたままで器用に肩をすくめて見せた。

「なんて顔してんだよ……お前がこうなるようにし向けたんだろうが。妬いてないでお前も仲間に入れてもらえばいいじゃん」

「妬いてなんていないわ! 私は甘ったるい恋愛小説なんて読まないのよ! いい色無、明日は緑より先に来るわよ!」

「明日も俺が荷物持ちするのかよ……」

 二人の騒ぎが病室に届くことはなく、白と緑は相変わらず黙々と本を読んでいた。

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無「今日はまた一段と暑いなぁ。お、緑出かけるのか?」

緑「ちょっと図書館にね。返さなきゃいけない本があるの」

無「ふーん。俺も行っていいか?」

緑「あら。めずらしいわね」

無「図書館ならクーラーが効いてて涼しいかなぁと思って」

緑「ま、そんなことだろうと思ったわ」

無「そうと決まれば早く行こうぜ!」

無「行く道中は暑いってことをすっかり忘れてた〜」

緑「……」

無「緑、お前暑くないのか?」

緑「暑いに決まってるじゃない。だからって暑い暑いって騒いでどうなるものでもないでしょ?」

無「確かに……。てか、その本もう読んだんじゃないのか?」

緑「そうよ。でも返す前にもう一度軽く読んでおこうと思って」

無「本当に好きなんだな」

緑「あなたのこともね」

無「え?」

緑「何でもないわ」

無「それにしても暑い。図書館まだ〜?」

緑「もうすぐよ」


緑「い、色無」

無「どうした?」

緑「ちょ、ちょっといい?」

無「?」

緑「あの……色無にお願いがあるの」

無「お願いって?」

緑「……」

無「……」(ドキドキ)

緑「そこの棚の上の段にある本を取って欲しいんだけど」

無「えっ?」

緑「どうしたの?」

無「い、いや……そんなことならお安い御用だ」(ハァ……)

緑(いつもフラグを折られてばかりだから今回はこっちがフラグを折ってやったわ)


『不器用な2人』

貴重な夏休みを潰して補習を受けている色無は学期中と変わらず、昼休みには図書室へと足を運んでいた。

渡り廊下を越え、古めかしい扉を開けるとひんやりとした空気と共にすえた紙の匂いが鼻を衝く。

「ちわーっす」

「あら色無、また涼みにきたの?」

色無がカウンターに座る見知った顔に挨拶すると、その相手である緑はつっけんどんに返事を返してまた手元の文庫本へと視線を戻した。

「いやー、補習フケて女の子に告白したのに振られたって奴が教室でわめいててさ。うるさくて避難してきたのよ」

「そう、それは災難だったわね」

会話をしつつも緑はこちらを見ようとしない。まるで何かに追い立てられているかのようにじっと目線を本へと向けている。

「で、一つ聞きたいことがあるんだけど」

いつもと変わらない緑の様子に色無はカウンターに片手を付き、いつもの如く勝手に話し始めた。緑が頁をめくる音が静かな図書室の中で響く。

「新刊ならまだ入ってないわよ。あとマンガを入れる予定は——」

先手を打って話題を逸らそうとする緑の言葉を遮って色無は言う。

「何で振ったの?」

「……っ!」

色無がここに来れば多分言うと予測していたのだろうが、それでも緑の手先は小さく震えた。

「勉強も出来て顔も上等、悪い噂も聞かないし付き合ってみても良かったんじゃない?」

その言葉に、バネ仕掛けの如く緑は本に向けていた顔を跳ね上げ、立ったままの色無の目をじっと睨み付ける。

級友達は見たこともないだろう、力のこもった緑の眼が色無を射抜く。

「……じゃぁ聞くけど、貴方は全く興味を持てない相手を好きになれる?」

「あらら、手厳しいことで」

それで言う事は終わったとばかりに目線を本に戻す緑を見ながら、様相を崩した色無がおどけて言った。

その言葉に返事はなく、仕方なしに色無は閲覧席から椅子を一つ動かしてカウンターの前に陣取った。

緑はその間もずっと本を読みすすめ、色無はそれをじっと見ている。

「なぁ緑、今度は何を読んでんの?」

大分前から緑が愛用している使い込んだ革の文庫カバーに包まれた本を指さして問う。

「下らない恋愛小説。男の方が鈍感でアプローチに気付かないから苛々するのよ。

間違って買っちゃった上に内容がこれだから、余り楽しくはないけど読み始めちゃったしね」

ちゃんと読むわ、頭を上げ首の付け根を本の背で叩きながら緑は答える。

滅多に見ないその様子に色無は本の内容が心底緑に合わなかったのだと察した。

「緑って律儀だよな。昔っから義理堅いというか頑固者というかね」

「もう、読書の邪魔をするなら出ていってくれない?さっさと読み終えたいのよ」

眼鏡を押し上げ、眼の付け根を親指でマッサージしながら緑は言う。

苛々し始めている緑にちょっかいを出すのが楽しいのか色無はニコニコしながら、こう言うのだった。

「休み時間の間構ってくれたら当分は黙ってあげる」

休み時間が終われば色無は補習へと戻っていく。

緑の都合を全く聞き入れないその様子に緑は慣れた手つきでカウンターの後ろの棚にある禁帯出ラベルの付いた大型本の一冊を手に取った。

「そんなに貴方は百科事典が好きなのね」

「いえいえ滅相もありません緑様」

以前からかいすぎて本当に殴られた所を防ぎながら色無は白旗を上げた。

そんな色無に気付かれないように緑は口の端を持ち上げ、しょうがないなと薄く笑うのだった。

「ならせめて静かにしてなさい」

「はぁぃ」

昼休みも終わりに近づいた頃、色無はまた緑に話しかけた。

「じゃぁさ、誰ならみーちゃんのお眼鏡に適うのかな?」

色無がそう言いながら緑の眼鏡の頼りないフレームをちょん、とつつくと、

緑は心底うんざりとした顔で顔を上げ、ほんの少しだけずれた眼鏡を指で軽く押し上げた。

「静かにすると、言ったわよね?」

読まないままに頁はめくられてゆき、最早残りの頁は残り少なかった。

「んー、やっぱり興味あるんだって。付き合いの長い相手が誰を好きになるのかって」

「幼馴染みとはいえ、貴方に教えなきゃいけない理由はないでしょ」

ぱらり、ぱらり。口元に笑みを浮かべながら色無は問いかけ、緑は眉間に皺を寄せながら残った頁を適当に繰りつつそれに答えた。

2人の間でじりついた視線が絡み合う。

手元の本が、残りの頁をすべて無くして、緑の手の中で最初の形を取り戻した。

「あそだ。取り敢えず俺の好きな子を教えてあげよう」

「いいわよそんなの。聞きたくない」

これぞ妙案といわんばかりの表情で色無は返事も聞かずに矢継ぎ早に次の言葉をつなげていく。拒絶の言葉を聞き入れずに。

「俺の好きな女の子はだな、みど——」

「——聞きたくないって言ってるでしょうッ!」

バンと両手でカウンターを殴りつけるようにして立ち上がった緑は、1メートルも離れていない幼馴染みに向かって怒りのままに手の中の本を投げつけた。

角がみごとに色無の頭に直撃し、それに合わせて色無も立ち上がる。

「ってぇ!緑!文庫本とは言え投げつけるな馬鹿ッ!」

「ここまで怒らせたのは誰よ!さっきから何度も邪魔をしてッ」

先に視線を外した方が負けというように2人は視線を逸らさない。

緑は顔を真っ赤にして怒りのままに、今まで押さえていたものまで総てを吐き出す。

「なんで私が誰と付き合うかまで詮索されなきゃいけない訳?それに何?悪くなさそうだから付き合え?ふざけないで!」

感情を制御できなくなった緑の瞳の端から、一筋涙がこぼれ落ちる。

「いいわそんなに知りたいなら教えてあげる。何故私があの子を振ったか!」

緑は色無のゆるく締めたネクタイを思い切り引っ張って身長差を帳消しにすると、これまで言えなかったその一言を絞り出した。

「私が貴方の事を好きだからじゃないっ!この鈍感!」

今度は逆に色無を突き飛ばすと、乱暴に図書室のドアを開けていずこかへと駆けていった。

我に返った色無は、取り敢えず遠くまで飛んでいった文庫本を拾い上げ、二三枚めくった後にようやく、

自分がいやに焦っていたことに気が付くのだった。

「……痛ぇなぁ、畜生」

——始業の鐘が、選択を迫るように鳴り響いていた。

 

 幕間・屋上にて緑

 色無は、いつだって私の側にいてくれた。

 会えたことが嬉しくても気恥ずかしくて笑えない、可愛げのない女の側に。

 いつも彼は、なんでもないよと笑いながら私の少し前をゆっくりと歩いていく。

 私は色無の背中ごしに世界を見てきたようなものだ。

 だからこそ私は知っている。

 私をかばって付いた傷があることを。

 彼はもっと早く先に行けるのに、私なんかに歩調を合わせてくれていることを。

 強すぎる北風に私の体が冷えないように、いつだって優しいあの人は両手を広げて身を切る風を少しでも減らそうとする。

 今まで幾ら問いかけても困ったような顔ではぐらかされてきた。だからこそ、辛い。

 万難を排す魔法の杖でもあればいいのに。そう願ったこともある。

 元から問題を無くせばいいと、人を遠ざけたこともある。

 それでも何かしらの問題が起きて、その度に彼は傷ついてきた。

 どんな問題が降りかかったとしても、彼の周りには男女問わずに佳く人が集まり、彼らに向けて彼はにこやかに笑う。

 その笑顔を見るたびに、私は胸が締め付けられる。

 あの人にはきっと似合いの女性が居て、もっと自分を活かせる場所があって。

 頭ではそう解っているのに、私は彼の服の裾を掴んだまま放せない。

 ……こんな女を誰が好きになってくれるというのだろう。

 知悉する自分の愚かさ浅ましさを、このままここで切り捨ててしまいたい。

 それに私はあの人を傷つけてしまった。それも自らの手で。だからこの恋はここで終わるのだ。

 どれだけ拭っても両目から涙があふれるのを止められない。

 ならばこのままいっそ、この想いごと枯れてしまえばいい———。

 

 色無が屋上の給水塔の影で緑を見つけたのはたっぷりと2時間以上経ってからだった。

 文庫本をポケットにねじ込み、そのまま緑を捜して駆けだした色無は運悪くも最初の曲がり角で教師とぶつかった。

 上手く切り抜けられれば良かったが、首まで垂れた血を見咎められて保健室、補習と連行されてしまったのだ。

 乱暴に小テストの設問を答え、授業が終わった瞬間に飛び出して学校中をかけずり回り、最後の最後に色無は屋上へとたどり着く。

 色無のシャツは肌の色が解りそうなほどに汗で透け、校内を往復した膝は力が入れにくくなりかけていた。

 ここが最後とふらつく足に活を入れて屋上への扉を開けて歩き出す。

 屋上の端まで歩き、給水塔の影から白い足が出ているのを見つけた色無は小走りで給水塔の裏に回り込む。

 その間、色無は緑が何か早まったことをしてないかと心配だった。

 そして給水塔を背にすぅすぅと寝息を立てる緑を見つけたとき、色無は胸をなで下ろした。

 半分髪で隠れた顔を覗き込み、割れないように眼鏡をそっと外して涙の跡を手の甲で拭い去り、緑の正面に腰を下ろす。

 もう一度緑の寝顔を見て、それから目を瞑ってこの不器用で愛しい幼馴染みのことを考える。

 人付き合いが苦手で、本ばっかり読んでて、意地っ張りで頑固でどうしようもなく不器用で。人の気付かない善行をしていつも損している。

 嘘がつけなくて話しかければ大抵つっけんどんで、でもたまの笑顔は凄く可愛いくて、その手を握ればいつだって暖かで。

 緑がいればどんな困難でも笑って乗り切れる気がしてくる。

 多分自分は、緑が居なければもっと駄目な人間になっていただろうと色無は常々考えていた。

 降りかかる面倒ごとを捌いて、色々な相手と付き合って時々ぶつかりあう。迷っても傷ついても構わずにいられるのは緑が居てくれたからだ。

 どんな事になろうともせめてこの真っ直ぐな少女にだけは恥じぬように、嘘を付かぬように。

 そう決めたことで自分はまぁまともな人生を送れてきたのだ、そう締めくくってまた色無は緑の顔を眺める。

 雲の切れ間からゆるりと射す光に照らされた緑を見て色無は思う。

 今まではずっと側にいるものと思っていた。けれどそれは子供の幻想でしかなかった。

 なら誰の所にもいかない今の内に、絡め取ってしまいたい———。

 自分勝手な願いだと知っている。けれどこの思いだけは止められない。

 

 いつの間にか泣き疲れて眠ってしまった緑が目を覚ますと、目の前に色無の顔があった。

 泣き腫れた瞳でぼんやりと色無を確認する。

「あれ、色無……?」

「おはよう」

 片手を上げて眠そうに挨拶をする色無をたっぷり眺めてから意識が覚醒した緑はこれまでのことを思い出して、色無から逃れようと力一杯立ち上がった。

「あ、馬鹿ッ」

 緑は背にしていた給水塔に頭をしたたかに打ち付け、ゴッという鈍い音が屋上に響きわたる。

「あうっ!」

 バランスを崩して倒れかかる緑を色無は抱き留め、そのまま逃がさないように抱きしめた。

「ベロかんでないな?」

「……うん」

 色無は打ち付けた緑の後頭部をゆっくりと手でさすり、

「いたくなーいいたくないー。痛いのーとんでけー」

 と子供をあやすように緑の頭をなで続ける。文字通りの手当てに緑の頭の痛みはゆっくりと引いていった。

「いいかげんに離してっ」

 おどける色無に抱きしめられていた緑は我に返り、色無を突き飛ばすように腕の中から逃れて給水塔に体を預けると、触れ合った熱を消すかのごとく荒く息を吐く。

 高鳴る動悸を押さえこむように胸を押さえて緑は言う。

「どうして来たのよ」

 眼光は鋭く色無を射抜き、誰の目にも明らかな拒絶を示していた。

「そりゃ言いたい事があるからだろ」

「……怪我の事は謝るわ、ごめんなさい」

 一度目を伏せた緑は棘のある声で謝罪を口にするも、頭を上げた時には元の眼に戻っていた。

「これでいいでしょう?もう帰って頂戴」

「俺はさっきの返事をしにだな」

「もう良いから帰って」

「俺は!」

「聞きたくない!お願いだからさっきの事は忘れてもう私に近づかないで!」

 色無を見据えたまま、階段へと続く扉を指さす緑に色無はなんとか自分の言葉を伝えようとするも緑は拒絶の姿勢を解こうとしない。

 そんな緑に業を煮やした色無が吼える。

「そんな馬鹿な事が聞けるか!」

 普段聞く事のない怒気をはらんだ声に緑は脅えたように身をすくめた。

「俺はお前を他の奴に渡したくないんだよ!」

 覚悟を決めた色無の眼が緑の眼を離さない。

 緑は一瞬だけ赤くなったかと思うとすぐに色を無くし、あさっての方向にそっぽを向いた。

 そして拗ねた調子でこう切り出す。

「私なんか彼女にしたって何も良い事なんてないわよ」

「こんな事、損得で言いやしない」

「赤とか白とか仲の良い娘は幾らでもいるじゃない———橙とは先週だって映画に行ってたでしょう。あの子達の方が色無には似合ってるわ」

 苦虫を噛みつぶしたような顔で眉間に皺を寄せたまま、自分の思いごと吐き捨てるように緑は言う。

「あいつらは友達だし、橙には前に振られてるからなぁ」

 その言葉に緑は顔を上げ、気まずそうに頭を掻く色無を見ると、緑の眼は鋭さを少しずつ失ってゆき、替わりに今にも泣き出しそうな表情になっていく。

「私、偏屈で頑固で可愛らしい所なんてないし、今までだって貴方に迷惑かけっぱなしで怪我までさせちゃったのにどうして、どうしてっ!」

 そんなに優しいのよ。緑は消えそうな声で呟きながらその場にへたり込んだ。

 緑の正面に色無も座り、緑が沈黙に耐えきれなくなりかけたところでようやく色無がぽつりと漏らす。

「なぁ緑、ちっちゃいの時の事覚えてるか」

 それから色無は返事が戻ってくることを期待してないといった風で話し始めた。

「幼稚園の入園式の時さ、あの時ウチの親は急用で帰って俺すっごい心細かったんだよ。引っ越してるから友達居ないし」

「教室でみんな親がいるのがまたキツいんだけど、ちびでもプライドがあって必死に泣くの我慢してたんだ」

 そういって色無は苦笑した。

 緑は色無の顔をまともに見れずに色無の額に付いた真新しい絆創膏だけをじっと見つめながら昔話に耳を傾けている。

「けどもういいか泣いちゃおうって思った時に、俺の隣にいた女の子が凄い力で俺の手を握ったんだよ」

 緑が喉をコクリと鳴らす音が色無の耳に届く。色無はそっと緑の手を握った。

「手は痛いわ、何がしたいのかわかんないわで、その子の顔を見るとさ」

 そこで一旦言葉を句切り、色無は空を見た。ゆっくりと夕日がビルの陰に隠れていく。

「その子、笑ってたんだわ。俺の方見て———ないちゃだめだよって自分もブルブル震えて泣きそうな声なのにな———にこって、笑ったんだよ」

 緑が何か確信を得たかのようにまた少し震えると、色無は緑の手を離さないように力を込める。

「すごい嬉しかったんだ。一人じゃないんだって言ってくれてるみたいで」

 色無は遠い目をしながらも嬉しそうな顔でそう言いきると、色無は握った手を引き寄せて、されるがままに腕の中に飛び込んでくる緑を抱きしめた。

「だから俺その時決めたんだよ。次にその子が泣きそうな時、今度は俺が笑ってあげようって———こんな理由じゃぁ駄目か?」

 その言葉を聞いた緑は自分でも気付かずに少しだけ泣いた。

「ばか、そんなだから私なんかに捕まるのよ———ほんと、ばかなんだから」

 かすかに震える声を聞きながら、色無は言う。

「好きだよ、緑」

 色無は緑の顔を見ながら朗らかに笑った。

 色無の屈託のない笑顔を見て、緑はほんの少し色無の気持ちが分かったのだった。


『快適な背もたれ』

無「あー、すいませーん」

緑「……」

無「緑さーん」

緑「……」

無「……」

緑「……」

無「……眼鏡っ娘(ぼそ)」

緑「……」

無「こら、いきなり辞書の投擲体勢に入るな」

緑「眼鏡が悪い?」

無「そうじゃなくて、そう呼ばないと反応しない緑が悪いんだろ」

緑「それで、なんの用?」

無「それを聞きたいのはこっちだ、どうしてわざわざ俺の部屋に来て本読んでるんだよ」

緑「……」

無「だいたい今クーラー壊れてるんだから暑いだろ」

緑「……別に暑くない、平気」

無「……その割には鼻の頭に汗が浮いてるけどな」

緑「!」

無「そんなに驚くことかよ」

緑「何でそんなことばっかり気付くのよ」

無「そんなことって、こんなに近くなら気付いて当たり前だろ」

緑「!! な、なんで私の後ろにくっついて座ってるのよ」

無「逆だ、逆。緑が俺の前に移動してくるんだよ。風があるからまだ良いけどな、

 そうじゃなかったら2人とも汗だくになってる所だぞ」

緑「……ちょうど良い背もたれがない色無の部屋が悪いのよ」

無「椅子でもベッドでも使えばいいのに、俺が避けても段々近寄って来るヤツのセリフじゃないだろ、それ」

緑「……」

無「いきなり無視かよ……まあ良いけどな、耳赤いぞ」

緑「……」

無「ますます赤くなってるんだが」

緑「……」

無「……」

緑「……」

無「……ぱく」

緑「っ! ひゃああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

橙「……」

青「橙、壁に耳をつけて何してるの?」

橙「……あお」

青「……鼻血出てるわよ」


『とある文芸部の禁書目録』

無「……緑」

緑「っ! 離れてよ色無」

無「緑に掛けろって言われたメガネのせいで、視界がぼやけて立ってられないんだから仕方ないだろ」

緑「だ、だったら外せば良いじゃない」

無「『色無はなんでも乱暴に扱うからダメなのよ』とか緑に言われたから自分じゃ外せないな」

緑「だ、だったら私が外すからその手を離して」

無「だから手を離したら倒れるって言ってるだろ」

緑「じゃあ、じゃあ、えっと……」

無「あー、照れてる緑も可愛いなー」

緑「だ、だからくっつかないでって」

無「……耳も赤くなってきた、冷やしてやろうか?」

緑「ど、どうやってよ」

無「こうするんだよ……」

緑「……」

無「何だよ、こっちをチラチラ見たりして。早く原稿上げろよ部長さん」

緑「……はぁ、そんな訳ないわよね」

無「なんだよ、俺は4コマとクロスワード作ったんだからもうお休みだぞ」

緑「もう少し雰囲気の出ること言いなさいよね……ばか」(ぼそ)

無「今『バカ』って言っただろ」

緑「……なんで余計なことだけ聞こえるのよ」

無「余計な事しか言わないからだろ(何だよ雰囲気って、2人っきりでそんな事いわれたらこっちが困るっての)」


「色無、帰りましょう」

「OK、帰ろうぜ」

 俺と緑は図書館を後にする。

 読書に没頭する緑を待っていたらすっかり辺りは真っ暗になってしまっていた。

「それでさぁ、紫が足元に居たのに気が付かなくて……」

 俺の話に緑はうなずく素振りも見せない。

 でも俺は、緑がちゃんと話を聞いているのが分かっているから話す。

 なんでもない世間話を一方的に緑に話しながら、図書館の敷地から出る道を歩く。

「色無……あれ……」

「ん?」

 急に緑が立ち止まって前方を指差した。

 俺は真っ暗な道の先にベンチあるのを見つけた。

「あ……あれって……」

「……」

 そこには全身ラップで覆われた、首のない人が横たわっていた。

「……」

 ドサッ

「み、緑! しっかりしろ!」

 緑が卒倒。

「け、警察!」

 俺は携帯で警察を呼ぼうと携帯を取り出す。

 そこで気が付いた。

「ん? なんだ?」

 暗闇に目が慣れてきたのでもう一度ベンチを見てみる。

「……」

 そこには全身銀色の保温シートに包まり、顔にタオルをかけて眠っているオッサンがいた。

「な、なんだ……、本当に死体かと思った……」

 俺は卒倒した緑を背負い、寮に帰った。

 しばらく緑は夢で首のない死体に追いかけられる夢を見たという。


 前略。緑が風邪をひきました。隣の家に住む優しい俺としては、お見舞いに行かないといけないと思うワケです。

「とゆーわけで緑〜、入るぞ〜」

 始業式のみだった学校を後にして、全く前置きになってない前置きをしつついつも通りに窓から緑の部屋に侵入。

 今日から新学期だっていうのに間が悪い奴だな。いや、今日行ったところで何か重要な事があったわけでなし、ある意味運がいいっていうのか?

 ガラガラと窓を開けた所で俺の目に飛び込んできた光景は、ベッドの上で制服に着替える途中の緑だった。

「……だれ?」

「おいおい、隣に住んでる俺を忘れるってどういうことだよ?」

「……あぁ、あなただったのね、ごめんなさい」

 普段なら10冊と言わず俺が死にかけるまで本が飛んでくるはずなのに、飛んでこない。これだけで緑がかなり無理をした状態だっていうのがわかってしまう。

 緑の部屋に入る時の条件反射になりつつある防御体勢を解き、緑に近づいて声をかける。

「何してるの、お前?」

「なにって、がっこうにいくじゅんび。きょうからでしょ」

 頭を前後に揺らしながら、熱に浮かされているというより軽く幼児退行したような口調で答える緑に、いつものピシっとした雰囲気はまるでない。

「確かにそうだったけど。お前本気で行くつもりか?」

「くすりのんだからだいじょうぶ。そろそろきいてくるでしょう」

 今の時間も理解してないみたいだし、これはかなりマズくないか? この状態じゃあ、薬だけで大丈夫とはちょっと思えないし。

 病院にでも行かせるべきかと俺が迷っている間にも、緑は着々と制服に着替え——てない。どうやら熱でフラフラになった頭では、ネクタイを結ぶ事さえ難しいみたいだ。

「……できない」

 唇をとがらせて不満気に言う緑なんて、滅多にどころか今後一生見る機会なんてありそうにない。ラッキー、なんて場違いなことを思っていると、緑がとんでもない事を言いだした。

「かわりにやって」

「へ?」

「ねくたい。むすんで」

「お? おう」

 そう言いつつ手に持ったネクタイを差し出す緑。そしてそれを思わず受け取ってしまう俺。

 相変わらずの流されっぷりは我ながら情けない気がするけど、目の前にいる不機嫌全開な緑に逆らうのはちょっと怖い。……訂正、かなり怖い。とりあえずやってみるか。

「……まだ?」

「う〜、結構難しいな」

「はやくして」

 首をこちらに突き出しながら、ねだるように言ってくる緑に少しだけ勘違いをしつつも俺の挑戦は続く。

 人に結んだ事がある訳でなし、やっぱり正面からネクタイを結ぶのは正直レベルが高すぎる。自分で結ぶならやりやすいのに——ってそれだ。

「緑、ちょっと動くなよ——っと」

 ベッドに上がり、ゆらゆらと微妙に揺れている緑の身体を支えるために彼女の後ろから抱きかかえるような体勢になる。この状態なら、普段自分で結ぶようにできるはず。

 なるべく緑の柔らかい身体を意識しないように努力しながら、俺は再びネクタイを結び始めた。

「よし、出来上がりっ」

「……ん。ありがとう」

 雑念のおかげで多少時間はかかったものの、ネクタイはきちんと結ぶことができた。こうして緑に礼を言われるのも悪い気はしない。

「……よいしょっと」

 ちょっとオバさん臭い掛け声と共に緑が立ち上がろうとする。あ、さっきまでの感触といい匂いが遠ざかっていく。いやいや、背中が汗で透けて見えるのもエロくていい——じゃねぇよ!!

 ネクタイを結ぶ事に夢中になりすぎて、緑が風邪ひいてることをすっかり忘れてた俺。相変わらず目先のことしか覚えていない。

「ストーップ!!」

「……なにするのよ」

 慌てて緑の腕をつかみ、ついさっきまでと同じ体勢になるように座らせる。……とりあえず緑を座らせようとした結果で、狙ってやった訳ではないのであしからず。

 俺の心の中の言い訳を知るはずも無く、またもや唇をとがらせて不満気に言う緑。一生見れないかも、とか思いながらあっさり見れたのは何となくさびしい。

「お前、熱があるんだろ。今日は休め」

「いや。がっこうにいく」

「もう終わってる」

 不満気な顔から一転してぽかんとしている緑に携帯をつきつける。緑はあぁ、と呟いてから一瞬間をおいて宣言した。

「いってきます」

「うおーい!!」

 再び立とうとする前に、後ろから抱きついて立てないようにする。みるみるうちに機嫌が悪くなる緑。

「なにするのよ。いいかげんにしてくれない?」

「学校終わってるって言っただろ? 行っても何もないぞ」

「いいから、わたしはいくの」

 そう言いつつ何とか立とうともがく緑。しかし俺も行かせる訳にはいかないので羽交い絞めに近い感じで緑を抱きしめる。……見様によってはかなりアウトの構図だけど、気にしたら負けだ。

「だーかーら、意味ないって。わざわざ何しに行くんだよ」

「あなたのかおをみるためにきまってるでしょ」

 何か、熱の勢いでかなり恥ずかしい事を言われた気がする。緑がどういった意味で言ったかはわからないけど、あまり素直に喜べない。

「ってか、今会ってるじゃん」

「……」

 その今気付いたって顔はどうかと思うぞ、俺は。まあ、そのおかげで無理に立ち上がろうとしなくなったのはありがたいけど。

立ち上がる事をやめるのにあわせて、こちらに身体を預けてきた緑を軽く抱きしめる。

「何だ?」

「ん……。べつに」

 病気の時は心細くなるとは言うけれど、まさか緑がここまで甘えキャラになるとは想像できなかったな。というかそれよりも、この態勢で我慢できるほど俺は大人になってない。

「緑、その格好苦しくないか?」

「……ちょっと」

「じゃあネクタイ外してやるよ」

「それぐらい、じぶんでできるわ」

「結べなかった奴が何言ってんだ。任せとけって」

「んっ……。やぁ……」

 緑の拒否を聞かなかった事にしてネクタイに手をかける。とりあえず、そんな可愛い声を出されたら男として完璧に止まれなくなります。

「は〜い、脱ぎ脱ぎしましょうね〜」

「だめ、だってば……」

 そう言いながら緑が首を振るたびにその髪からいい匂いがして、それがまた俺を止まれなくする。

 ネクタイを解き、続けてシャツの第一ボタン、第二ボタンを外して緑の胸元が後ろから覗きこめる所まできて気がついた。

 俺がしようと思った事を他の奴らがしないと思うか? ……まさか。あいつらに限ってそんな訳がない。マズイマズイマズイ、今すぐ離れないとあいつらが来た瞬間に俺の命が危険で危ない。

 ってか緑、何で人が離れようとしたら『……やめるの?』みたいな顔で見上げてくるんだよ!?

 結局、混乱した状態の頭で緑のシャツに手をかけたまま、理性と煩悩の間で迷っている時に審判は下った。軽いノックの音と共にガチャリと開けられる部屋の扉。その向こうにいるのは当然見慣れたクラスメート。

 無駄とはわかっていても、とりあえず顔を伏せて緑から離れホールドアップ。

 しばらく待っても無言のままの皆を不審に思い、顔上げると目の前はスカート姿のままヤクザキックを俺に向かって放つ青でいっぱいだった。

 ……明日は俺が休む事になるかもな。せめて病院で目が覚める事はありませんように、とだけ祈って、俺は夢の世界へ旅立つ事にした。


『幻想空間』

赤「色無」

無「どうしたんだ、珍しく真剣な顔で」

赤「私って運動しか取り柄ないのかな?」

無「……赤?」

赤「どうしよ、このままじゃ誰かに色無とられちゃう」

無「大丈夫だよ」

赤「え?」

無「俺はちゃんと赤のことが好きだから」

赤「い、色無……ホント?」

無「ああ、だから目を閉じて?」

赤「色無……」

緑「続きが読みたければ駅前でワッフル買ってきなさい」

赤「えー」

緑「貴女の暇つぶしにつきあい続けるほど私は暇じゃないのよ」

赤「わかったわよ」

ガチャ

緑「直接言えばいいものを……でも私も人のことは言えないか」

灰「なにこれ『幻想空間』? テキストファイル?」

緑「!」

灰「なによ緑、冗談……! や、やめ百科事典はやめ——」

赤「ただいまー、買ってきたよー。あれ灰? 何してんの?」

灰「ゴメンナサイゴメンナサイモウシマセンダカラリョウキヒャクモノガタリハヤメ……」

赤「どしたの?」

緑「……お仕置き」

 

青「だから……何回言えばわかるのよ」

無「スマン寝坊した」

青「あれほど普段から規則正しい生活をしなさいって言ってるでしょ!」

無「悪かったよ」

青「まったく、家族にプレゼント贈りたいなんて珍しく殊勝なことを言ったかと

思えば遅刻なんて」

無「悪かったって、お詫びに何かおごるから」

子供「おかーさん、あのおにーちゃんだよ」

母親「先ほどは車に轢かれそうになったうちの息子を助けていただいて本当にありがとうございます」

青「え?」

青「馬鹿じゃないの色無」

無「いや、だってな」

青「人助けで遅れたんならちゃんと言いなさいよ……怒ったりなんてしないのに」

無「せっかく青が付き合ってくれるってのに遅刻したのは事実だし、人助けしてた

なんてカッコつけた言い訳にしか聞こえないだろ?」

青「……ばか」

緑「続きが読みたければ駅前でワッフ——」

青「はい」

緑「……じゃあこれ、プリントアウトしてあるから」

空「お姉ちゃんおかえりー……ってどうしたの?」

青「……すごかったわ」

空「え、え?」

青「後半部分だけでもなんとか実現……はっ、空!」

空「……変なお姉ちゃん」

 

黄「色無、ほんとにいいの?」

無「ああ」

黄「じゃあこれ……もらって」

無「ありがとう。誕生日プレゼント大切にするよ」

黄「つ、ついでにさ、もう一つ貰って欲しいものがあるんだけど」

無「なに?」

黄「わ、わた、わた……私」

無「え?」

黄「私特製のカレーパンだよ! そうだよ、そんな、私だなんて言えるはず」

無「黄色を貰ってもいいのかな?」

黄「え、いろな……きゃっ!」

緑「続き——」

黄「はい特別製のワッフル!」

緑「……まぁ、いいけど」

 ぱく

黄「……ど、どう?」

緑「——! ——!」(声にならない悲鳴)

黄「あれ? ……しまった! 私専用の10辛カレーワッフル渡しちゃった!」

 

白「色無くんは大きくなったらなにになりたいの?」

無「白ちゃんは?」

白「わたしはねー、色無くんのおよめさん!」

無「白ちゃん……」

白「それでね、いっぱいのこどもといっしょに色無くんのかえりをまつの」

無「うん」

白「そしてね、そしてね」

無「じゃあ、いっぱいあそんでもっとげんきになろうね!」

白「うん!」

緑「これでいいの?」

白「ありがとう、うれしい。……もし小さい頃に色無くんに会えてたらもっと元気になれてたかな?」

緑「……特別サービスよ」

無「急に呼ばれたけど何かようか?」

白「い、色無くん!」

緑「風邪で倒れたみたいなの、他の人は出掛けてるし看病お願いね」

無「男が看病していいのか?」

緑「……特別製の薬だから大丈夫よ」

無「?」

緑「じゃあね」

白(ありがとう)


『観察力』

無「ただいまー」

緑「……おかえりなさい」

無「……緑、煮詰まってるんだな」

緑「ごめんなさい、せっかくの記念日なのに何も用意出来てないの」

無「締め切りに追われる小説家も大変だな、今日は俺が作るからゆっくりしてるといいよ」

緑「色無……」

無「ほら、すわって」

緑「ありがと、色無が旦那様になってくれて本当に良かった」

無「なんだよ、突然」

緑「こんな愛想も色気もない女に好きだって言ってくれたなんて、今でも夢みたい」

無「緑は可愛いし、優しいだろ。それに高校の時なんて毎日ドキドキしてたんだからな」

緑「私なんて初めて会った時からずっとドキドキしてたのよ」

無「その割には毎日睨まれてた気がするけどな」

緑「……目つきが悪いのは生まれつきだもの」

無「お陰でほかの奴にとられなかったんだから良かったのかもな」

緑「私が好きなんて物好きは色無くらいだったわよ」

無「……緑は観察力を磨いたほうがいいな」

緑「……色無こそ」


緑「秋と言えば……?」

無「食欲の秋?スポーツの秋?」

緑「違うわ。秋と言えば、読書の秋。そして芸術の秋。そこから生み出されるもの……それはつまり801n」

無「お前は静かに一人で本読んでろ!」

緑「残念ね。せっかく男×色無d」

無「勝手に人を使うな!」


 寮の晩飯と言えば、まあその日どんな嫌なことがあっても関係なしにハッピーになれる、一日の締めには外せないイベントだ。

 しかし、今日はいつもと様子が違った——というか、そもそもまだ晩飯ができてない。

「……ねえ、まだできないの? ボク、なんだかお腹空きすぎて目が回ってきたんだけど……」

「ごめんなさいね、緑ちゃんがお昼から頑張ってくれてるから、もうちょっとだけ待ってあげて」

 大騒ぎする元気もないのか、テーブルに突っ伏してか細く抗議の声を上げる赤を、黄緑が申し訳なさそうに励ました。

「それにしたって、ちょっと時間かかりすぎよね」

 青のつぶやきに他の面々がうなずく。さっきまで雑談して気を紛らわせていたみんなも、今はむっつりと黙りこくって空腹に耐えている。

 当の緑はというと、そんな外野の声をまったく気にしていないようで、レシピ本を見ながら慎重に調味料を計量していた。

「なあ緑、そんなきっちりやんなくても大丈夫だろ。適当にすくってぱぱっと入れちゃえよ」

 見かねて口を出したが、緑は聞く耳持たなかった。

「色無は黙ってて」

 俺の忠告を一蹴すると、鳴り出したアラームを止めてコンロの火を消す。鍋に温度計をつっこんで目盛りを読み、ゆっくりと調味料を溶かして——。

「できた」

 振り返って緑が言うやいなや、食卓は歓声に包まれた。

 緑は盛りつけにもやたら時間をかけたため、すべての料理が出そろったときには、もう全員おあずけを食らった犬状態。紫と赤はマジでよだれ垂らしてた。

「待たせるだけあって、ずいぶん凝った料理ね」

 黒が思わず漏らした感嘆の声に、俺もうなずいた。

「ああ、ほんとすげえ。肉がてんこ盛りになったサラダに、マーブル模様のスープに、刻み野菜の入ったゼリーに、カラフルなソースがかかったトンカツか」

「……順番に、

 生ハム・コッパ・フィノッキオーナ・グランチャーレ・パンチェッタと季節野菜のサラダの盛り合わせ

 タラマ、レモングラス、エビ、ソラマメ、アーティチョーク、マンゴ・ビネガーのスープ

 イエローズッキーニのマーマレード、オリーブ、アーティチョーク、ロケット・ブイヨン

 イベリコ豚のコトレット、タイ・バジルとネクタリンのスパイシーソース添え

なんだけど」

 俺が料理の見たまんまを表現すると、緑が憮然とした顔で呪文を唱えた。

「……なんですと?」

「もう一度言うわよ。順番に、生ハム——」

「あーもう、名前なんてどうでもいいよ! いただきまーす!」

 黄が我慢の限界とばかりに緑の台詞をさえぎり、イベリコ豚の——えーと、カラフルトンカツに箸を突き刺すと同時に、みんなも先を争って料理に手をつけた。

 

 結論から言えば、料理はうまかった。まったく個性のない無難な味だったが、何しろ腹も減ってたし。そう、うまかった。うまかったんだが……。

「ソースをそんなにからめたら素材の味が分からなくなるでしょ」

「各料理にそれぞれ食器を用意したんだから、ちゃんと使い分けて。味が混ざっちゃうから」

 てな感じで食べ方を細かく指導したり、

「サラダに入ってる肉はそれぞれ風味が違うのよ。コッパは豚の首肉、グランチャーレは同じく豚の頬肉で、フィノッキオーナは——」

「コトレットはフランス語で、日本語のカツレツの語源なのよ。ちなみにロシアのコトレータ、イタリアのコトレッタもこの料理が起源で——」

 と一品一品うんちくを垂れたりしたもんだから、正直食った気がしない。

 最初のうちは『ごめんなさい』『気をつける』『へー、そーなんだ』などと返事していたみんなも、食べ終わるころには一様にうんざり顔をしていた。

「ごちそうさま——」

「どうだった?」

 緑の隣に座っていたため攻撃の最前線に立つことになり、結果として一番最後に食べ終わった俺がフォークを置いたとたん、緑が感想を求めてきた。

「え? いや、どうって、そりゃもちろんうまかったよ。なあ?」

 周りに同意を求めるが、気の弱い連中はそろって目をそらし、気の強い連中——まあ青と黒だけど——は視線で『びしっと言え!』と圧力をかけてきた。

「……うまかったけどさあ。細かいこといちいち指図されたりしたらゆっくり食べられないだろ? 料理は味だけじゃなくて、楽しく食べるのも大事だと思うんだけど」

「……そう」

 少し厳しく言い過ぎたか、と思ったが、相変わらず変化に乏しい緑の表情からはなんの感情も読み取れなかった。

「悪いけど、お料理で疲れちゃったから後片付けはお願いできる?」

「あ、ああ……」

 でも、そう言って部屋に戻った緑の背中は少し寂しそうだった……やっぱちょっと言い過ぎたか?

「あ〜あ、緑ちゃんかわいそー」

「色無サイテー」

 桃と紫が口々に責めたて、俺は焦って弁解した。

「ち、違う! 俺はみんなの気持ちを代弁しただけで……青と黒がにらむから仕方なくだな」

「ちょっと、人のせいにしないでよね。私はただ『緑の気がすむまでほめてあげなさい』って言いたかっただけよ」

「私も似たようなものね。そもそも、もう少し婉曲的に言うべきだったのよ。何でもストレートに言えばいいってものでもないでしょう。そのぐらい分かりなさいよ」

 こいつら……てか黒にだけはそんなこと言われたくねえ。

「はいはい、後片付けは私たちがやっておきますから、色無さんは緑ちゃんをフォローしてあげてくださいね。彼氏さんのつとめですよ」

「いや、彼氏って……まあそうだけどさ……」

 冷やかしだかなんだかよく分からない声援に背中を押され、俺は緑のあとを追って食堂を出た。

 

 ノックをしても返事がないので、いつものようにドアをちょっとだけ開けて中をのぞく。緑が本を読んでいるのを確認して、俺は部屋に入って床に腰を下ろした。

「……」

「……」

 そのまま、緑から話しかけてくるのを待つ。読書中にこっちから声をかけても、十中八九聞いちゃいないからだ。

「……なに」

「ん〜、さっきはちょっと言い過ぎだったかなと思ってさ。ごめんな。料理はホントうまかったよ」

「そう」

 反応は鈍かったが、いつものことなので気にしない。緑を相手にするには、こっちが空回り気味なくらいでちょうどいい。

「それにしても、何でまた急に料理しようなんて思ったんだ? 黄緑のご飯に不満でもあったのか?」

「……別に。たまたま料理の本を手に取ってみたから、実践してみたくなっただけ」

 そう言う緑の視線は、本の上に落ちてはいるもののまったく動いていなかった。つまり、本を読んではいない。これは俺が最近発見した、緑が嘘をついている証拠だ。

「ふーん、そっか」

 そして、これも最近気づいたことだが、緑から本音を聞き出すにはちょっと突き放すのが一番効果的だ。こいつは素っ気ない態度を取るくせに、根は寂しがりやなんだ。

 しばらく無言であさっての方を見つめていると、耐えきれなくなった緑がついに口を開いた。

「黄緑の料理を、色無——みんなが『おいしいおいしい』って食べて……黄緑がとっても嬉しそうだったから……私も作ってみたくなったの」

 ……あー、そういうことか。まったく、分かりにくいんだよ、緑は。

「おいしかったよ。作ってくれてありがとう、緑」

「……離して」

 机に向かう背中をそっと抱きしめて囁くと、緑は身じろぎしてふりほどこうとした。

「ゆっくり食べられないって言ったくせに」

「ちゃんとテーブルマナーも身につけて、料理の名前も覚えるからさ。また作ってよ」

「もうしない」

「そんなこと言わずにさあ。また緑の手料理が食べたいなあ」

「……仕方がないわね。また今度、気が向いたらね」

「よっしゃあ!」

 口調とは裏腹に嬉しそうな緑が可愛くて、俺は抱きしめる腕に力をこめた。

 

 ——ここで話が終わればよかったんだが、そうは問屋が卸さなかった。

「緑ちゃん、ちょっといい? お夕飯のお買い物のレシートもらえる?」

「あ、忘れてた……はい、これ」

「はい、ありが——いち、じゅう、ひゃく、せん……まん……う〜ん」

「わーっ、黄緑、しっかりしろ!」

 夕飯の材料費を確認した黄緑は卒倒し、翌日から寮の食事は恐ろしく質素なものになった——緑の手料理を再び口にできる日は、ずいぶん先になりそうだ。


緑「こんのバカ! バカァ!」

無「こっ、これは不可抗力だ! 灰の隠し通路がちょうどここに繋がっていたから!」

緑「うるさいうるさいー!!!」

無「痛! イタタタタ!!! やめろ! 本は痛い!!」

黒「……どうしたのかしら」

茶「えっとね、灰ちゃんの隠し通路が全部開通したからその……」

空「……みんなで見て回ることになったんです。灰ちゃんの案内で。そしたら……」

焦「ひょっこり顔を出したところが緑のスカートの中だったというわけだ」

白「それは……」

黒「災難ね」

緑「ばかばかばかばかばかばか!!!」

無「うががががががが!!!! 死む! 死ぬぅ!!!」

緑「こんの……」

無「ヒッ! 広辞苑はやめて!!!」

空「み、緑先輩!? さすがにそれはやめてあげて!」

緑♂「無駄だよ」

空「え?」

緑♂「緑がああなったら最後、誰にも止められないんだ」

空「そんな……色無先輩……」

 ——十分後。

緑「はぁ……はぁ……」

無「(*´Д`)ハァハァ」

空「……あれは?」

黒「目覚めてしまったのね」

茶「え? 目覚めるって?」

焦「ほぅ……」

緑♂「これは興味深い」

白「え……? 何が起こったんですか……?」

緑「ククク、計画通り……」







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Last-modified: 2012-10-21 (日) 03:45:25