紫メインSS
「ねー、色無ー」
「ん?」
今、俺の部屋には半年程前に隣に引っ越してきた羽振家の一人娘、紫ちゃんが遊びにきている。
羽振家は両親共に忙しくしており、週の半分以上はこうして我が家にきて夕飯を共にしている。
引っ越した当初は夕飯はほとんど一人で食べていたらしいのだが、ある日たまたま学校から帰ってきた紫ちゃんと出くわした母が3時のお茶に誘ったのがきっかけだった。
——今日もお父さんとお母さん遅いの?
——……うん。
——いつもご飯は一人なの?
——……ぅん。
——そっか……寂しくない?
——……さみ……しぃ。
——じゃあウチで食べていきなよ。お父さんとお母さんには言っとくから。……ね?
最初はもちろん遠慮されてたが、1週間、半月、1ヶ月と時を重ねるごとに我が家の食卓に紫ちゃんが居る日が増えていった。
また羽振家の両親も非常に助かるし、紫の笑顔が増えた。と大喜びだった。
今日は紫ちゃんにお金を預け、ウチの母に「紫にお使いさせて」と頼んでいたようで、俺は当然のようにその荷物係に任命された。
今はそのお使いを終えて、俺の部屋で二人で夕飯までの時間を潰している。
そして、先ほど沈黙を破った紫ちゃんの口からのそれは、余りにも唐突だった。
「お……おにぃ……ちゃん」
「(ブフォ)——ぐほっ! げほっ! んん゙っ……はふぅ……、ナ、何事デスカ紫チャン」
待て、おちけつ……じゃなく落ち着け俺。
紫ちゃんは俺より随分年下だが、会った瞬間から呼び捨てにされていたのだ。それなのに、今さらおにいちゃんだなんて……。
「あ、あの……やっぱダメかな?」
いやダメとかあり得ないしもちろんいいけどなんかそういう問題ではない気がするけど……とりあえず、可愛い。
「えーと……ど、どうしたの? 急に」
「えっ? ん、んっとー……お、お母さんがね、色無のこと、そう呼べって……」
「そ、そうなんだ。別にいいけど、紫ちゃんの呼びやすいのでいいよ?」
「ホント!? じゃあ今からおにいちゃんね!!」
嬉しそうに笑みを浮かべる少女。展開に頭が追いつかない俺は、おそらくおかしな顔をしていただろう。
こうして、俺には『お隣さん家に住んでる妹』ができたのだった。
「色な……おにいちゃん!」
紫ちゃんが俺のことを「おにいちゃん」と呼び始めて、早3日。どうやらまだ慣れないらしい。
「なぁ、実は呼びにくいんじゃない?」
「そんなことないもん……!」
「色無でいいよ?」
どうにも、無理しているようにしか聞こえないので、妥協を促してみたのがマズかった。次の瞬間にはもうすでに、大きな瞳にじわじわと涙を溜めて、
「ぅー……ばか。色無のばかっ!!」
勢いよく俺の部屋を飛び出していった。
「今、泣いてたよな……」
何だか訳も分からず、俺は呆然とする事しか出来なかった。
「色無のばか……もう色無のとこなんて行かないんだから」
せっかくおにいちゃんって呼んであげたのに……せっかくおにいちゃんが出来たと思ったのに……もういいもん。
ピンポーン。
不意に、下で玄関のチャイムが鳴る音がした。まだお母さんが帰ってくるには早いよね……?
『紫ちゃーん、ご飯できたよー!』
色無……? やだ。行かないもん。もう色無なんか、しらない。
……反応なしですか。参ったな……手ぶらで帰ったら親になんて言われるだろうか……。
ちょっと気が引けるけど、この際しょうがないよな。
「……お邪魔しまーす」
そろそろ、とお宅訪問を開始。なんか悪いことしてる気分だな……ええと、紫ちゃんの部屋は二階か?
コンコン。
「紫ちゃん、ご飯冷めるよ」
ドアをノックし声をかけてみる。
『……いらない』
中から微かに声が聞こえてきた。
「入ってもいい?」
未だに何で機嫌を損ねたのか分かんないけど、とりあえず面と向かって謝るしかない気がする。
『……』
返事はない。もう一度聞いて返事が無ければ入ってみようか。
「紫ちゃん、入るよ」
『……』
しばしの沈黙。恐る恐るドアノブに手を掛け、ひねる。
カチャ、とラッチが外れる音がして、僅かに夕日の差す部屋の中に少女を見つけた。
「あのさ……えっと、ごめんね」
とりあえず一言、謝ってみる。
「……」
反応なしですか、そうですか。
「正直なんで紫ちゃんが怒ってるのか、よく分かんないんだ。だから、嫌じゃなければ理由を教えてくれないかな?」
これでダメなら……どうしようかな……。
「……ぃちゃんに……」
「うん?」
「色無に……おにいちゃんになってもらいたかったのに……」
「??」
「色無はおにいちゃんって言われるのいやなんでしょ? 紫のおにいちゃんはいやなんでしょ?」
……あぁ、そういうことだったのか。じゃあ話は早い。
「紫ちゃん」
「……なに?」
「おいで」
手を差し出す。
「??」
「一緒に゙家゙に帰ろ。美味しいご飯が待ってるよ」
果たして、これで伝わるだろうか? などと思ったが、どうやら杞憂に終わったようだ。紫ちゃんの表情が、驚きから喜びへと変わった。
……意味、分かってくれたみたいだな。まだうっすらと瞳に涙を残していたが、それが零れることはもうなかった。
そして、俺の手に自分の小さな手を重ねた。
「行こっか」
今度は戸惑うことなく、その言葉は自然と出てきていた。
「うん、おにいちゃん!」
「色無、遅いわよ!……あら、手なんか繋いでどうしたの?」
「あー、ごめん。ちょっと散歩行ってたんだ。……ね?」
「うん!」
「……まぁいいわ。ほら、早く手洗ってきなさい」
「はいはい」
「はーい」
「……手繋いだままじゃ洗えないわよー」
「はいはいはい」
「はーい」
夕食を終えて久しぶりの夕焼けを眺めていると、いつの間にか茜色だった空はすっかりカーテンを閉めていた。
梅雨入りしてからというもの、雨の音しか聞いてなかったからだろうか。蛙の鳴き声がとても心地よく耳に入ってくる。こんな夜は散歩でもしたくなってしまうのは、きっと俺だけじゃないだろう。
「紫、ちょっと散歩行かない?」
『妹に“ちゃん”をつけるのはおかしい!』と紫に言われ、呼び捨てにしたのはいいが、未だに慣れてない。
「……散歩?」
「うん、ほら、食べた後にゴロゴロしてると太るから……」
紫はベッドからむくりと起きると、無言でこちらに歩を進めてくる。そして目の前で立ち止まり、ニコッと笑った瞬間、
——ゴツン
「あいたっ!」
「っ!!」
何が起こったのか分からなかったが、目の前で頭を押さえて悶絶してる姿と自分の頭に残る鈍痛で何が起きたかを理解した。
「……自分で痛がるなら頭突きなんかしなければいいのに」
「う、うるさい……女の子に太るとか、言わないのっ!」
涙目になりながらこちらを必死に睨んでいる姿は、何だかちょっと可愛い。
「よしよし、大丈夫だった? ちょっと見せてごらん」
そう言って額の辺りを抑えている紫の手を退かす。あ、ちょっと赤くなってる。
「冷えぴたでも貼っとく?」
「や」
短く一言、否定された。
「お兄ちゃんのせいなんだからね。お兄ちゃんがなんとかするの!」
そんなこと言われても……果たして、こんな子ども騙しで勘弁してくれるだろうか。
「痛いの痛いの、飛んでいけー」
「……ちょっと痛くなくなったかも」
おー、やってみるもんだな。
「治った?」
「……うーーん?」
こてん、と首を傾げる。ならばもう一度。
「痛いの痛いの飛んでいけー」
これ、結構恥ずかしいよ?
「治った……かな?」
「……アイスたべたい」
会話が成立しません。
いいこと思いついた! とばかりに、紫の顔はぱあっと明るくなった。
「うん、アイスたべれば治る!」
お嬢様、目がとっても輝いていらっしゃいますよ。だが、あいにく家にアイスなんかない。ないものはない。
「……ないから買いに行く?」
「うんっ!」
まぁ、散歩がてらにちょうどいいかな。と思いつつ、月末の財布の寂しさに、
「ハーゲンダッツはなしね」
と、予め釘を打っておかねばならないことが非常に悲しかった。
今日は七夕という事で、只今紫と一緒に短冊を作ってる真っ最中。
「紫、ちょっとそれ作りすぎじゃない?」
傍らにある三十枚ほどの色とりどりの紙に、次から次へと願いを書いていく紫。よくもまぁ、そんなに願い事があるもんだ、と思わず感心してしまう。
「……だめ?」
「あ、いや……別にいいとかダメとかじゃないんだけど」
「じゃあもっと書くね!」
そう言って、ひたすら短冊にペンを走らせる作業に戻る。
半分ほど消化したところで、紫が口を開いた。
「ねーぇ?」
「ん、どした?」
「お兄ちゃんは書かないの?」
「俺はほら、願いを叶えてあげるの専門だから」
「え? お兄ちゃんがお願い事叶えてくれるの?」
「あ、いや……えーと……」
言ってしまった手前、今さら冗談だとは言えなくなってしまった。
「まぁ、うん。出来る範囲でね……?」
これが精一杯の逃げの一手だった。
あれ? 紫の表情が輝いていってるのはきのせいですよね?
「わぁー……そうだったんだ!!」
時、既に遅し。目をらんらんと輝かせる紫に、俺はもう成す術を見い出せなかった。あぁ、七夕の神様ごめんなさい! この子の神様役だけはどうか俺にお譲り下さい……。
「えっと、じゃあ一つだけな?」
「えー、お兄ちゃんのけちー」
無償で願い事を叶えてもらえるかもしれない権利をもらえるだなんて、この世知辛い世の中ではそうそうないことだと思いますが? まぁ、この子にそんなこと言ったってどーしようもないけど。
「ほら、早く決めないとそのまま燃やしちゃうよ」
「だめぇ、まってー! うーん……じゃあ、どうしよっかなぁ?」
と、今まで書いた短冊の中からあれこれと選びだした。どうか簡単に叶えてあげられるお願い事でありますように。
「あ、いいこと考えた!」
突然今まで書いた短冊を横に置くと、新しい短冊を手にとってペンを動かし始めた。そして書き終えると、俺にどうだと言わんばかりに見せつけてきた。
「んー……どうかお兄ちゃんが一生わたしのお願いごとをかなえてくれますように?」
この小学生、なかなかやりおる……。
「えへへ、こうすればもう短冊いらないね!」
「なぁ、これは反則じゃない?」
一回だけ願いを叶える権利を使って十回願いを叶えられるようにするとか、そんなちゃちなもんじゃない。何しろ一生ときたもんだ。死ぬまでだよ? うん、死ぬまで。とか何とか思考を巡らせてる間に……。
「もう飾っちゃったー!」
いつの間にか笹には赤い短冊がくくりつけられていた。
「はずしちゃダメだよぉ!」
悪戯っぼく笑みを浮かべて、嬉しそうにこっちを見る紫。そんな顔されたら外せるわけないだろ……泣きぐずる顔も見てみたいと、一瞬思ったりしたのはきっと気のせいだと思います。
「本当にそれでいい?」
「うん!」
お母さん、お父さん、僕は今日から紫ちゃんの下僕になるみたいです。
しかし、さすがに一枚しか飾ってないんじゃ見栄えがしないな。
「俺も飾っていいかな?」
「おにーちゃん書かないんじゃなかったの?」
「ん、気が変わった」
来年またやるかなんて分かんないから、せっかくだしね。
「ふーん……じゃあ、はい」
そう言って青の短冊と、ペンを渡される。さて、何を書こうかな……。
チラっと紫を見ると、興味津々とばかりに俺の手元をじー、と見つめていた。お兄ちゃん恥ずかしいのですが。
「ちょ、ちょっとあっち向いててくれない? 書いたら見せるからさ」
「えー……うん」
渋々と体の向きを変える。
よし、決めた。
「もういいよ」
「書いたっ!?」
声を掛けた瞬間、くるっと体を反転させると、一瞬で短冊を奪い取られた。
「んーと……えっ……こんなお願いでいいの?」
「うん、気に入らない?」
「そうじゃないけど……でも、お兄ちゃんはこれが叶うと嬉しいの?」
「そうだねー」
「ふふっ、そうなんだ……へんなのー」
「きっと紫のお父さんとお母さんも、うちの親も嬉しいよ」
「ふーん……あ、これ飾ってもいい?」
「お願いしていい?」
「はーい!」
たっ、と笹のところまで行き、ワサワサと笹に短冊をくくりつける。赤い短冊の隣に、並ぶように青い短冊が飾られた。
「これじゃ寂しいから、飾りでも作る?」
「うん!」
「できたっ!」
「結構いいねー」
うん、これはなかなかいい出来栄えだと思う。しかし、紫の顔が何故か悲しそうだった。
「どうしたの? あんまり嬉しそうじゃないけど」
「……これ、燃やしちゃうんだよね?」
なるほど、確かにこれだけ頑張って作ったのに、一瞬で灰になるのも寂しい話だ。
「あ、じゃあ……」
思いついて、机の上の携帯電話を開いた。そしてカチカチと操作をする。
「なにしてるの?」
「写真、撮ろっか」
いやはや、たかが電話がカメラの代わりになるなんて……いや、むしろもう高性能なカメラに電話の機能がついたと考えた方が……。
「早くー! お兄ちゃんもこっちきて!」
紫はいつの間にか笹を手に持ち、手招きをしている。
「俺も?」
「うん! 一緒だよ!」
自分が写った写真はあんまり好きじゃないけど、まぁこの際せっかくだから。
撮影方法をセルフタイマーに設定し、紫のもとへ行く。
「ちゃんと入ってるかな?」
「えー、きれてちゃやだよ」
「もうちょっと寄るか?」
「こう?」
「あ、もうすぐだ」
「えっ? えっ?」
「ほら笑顔笑顔。一足す一はー?」
「あ、ちょっ……にぃー!」
ピローン。
「……さて、どうかな?」
「ねー、変な顔だったらとりなおそ?」
「それはダメだよ。一回きりだから楽しいんじゃん」
「やだー!」
「お、ほらこんな感じ。いいんじゃない?」
画面を紫に見せる。
「……うーん、まぁこのくらいならいっか」
了承を得たので保存、と。
「ねー、あとで紫にもちょうだい!」
「はいはい」
「ありがと、お兄ちゃん!」
あの、そんな真っ直ぐにお礼を言われると照れちゃいます。
「お願いもかなえてね?」
「……頑張るよ」
嬉しそうにはしゃぐ紫に抱えられた笹に並んで揺れる、二枚の短冊に込められた願いはきっと叶うに違いない。
『どうか、紫の笑顔が一生見られますように』